小田山荘・蓼科高原ゲストハウス
 
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蓼科日記

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蓼科・東急リゾートタウン
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ワークプレイス蓼科日記

信州蓼科高原は、標高1450mにあり、夏涼しく、冬寒いの四季折々のリゾートでの楽しみ方ができます。
ゲストハウスは、から松、白樺、クリ、コブシ、モミなどの木などがいっぱい森の中にあります。
シジュウカラ、カケス、ウグイス、イカル、アカハラなどの野鳥やリスたちが、えさを求めて庭にやってきます。
こんなところにワークプレイスがあります。

毎月、ワークプレイスよりライフスタイル(日々の活動)をお送りしています。

<2024年>

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2024年

10月

10月27日 霧ヶ峰トレッキング

岳文12期の山内夫妻と霧ヶ峰を歩いた。本来は、ニュージランド・ミルフォードトラック、ヨーロッパアルプス・オートルートを一緒に歩いた森夫妻も来るはずだったが、直前にガンの転移が疑われ、精密検査が入ったため、山内夫妻だけとなった。奥様は太極拳で腕を骨折し、しばらく不自由の身だったので、山歩きをするのは昨秋の尾瀬以来で、旦那もまた無為な時間を過ごし、何も歩いていないと言う。先月、下見したエコーバレースキー場沿いの、霧ヶ峰のヘリを歩くコースにした。
下見では霧の中で何も見えなかったが、今日は薄日もさしてまずまずの天気。見晴らしも利き、晩秋らしい枯野のススキの原を軽快に進む。ヘリだけに、左手には蝶々深山を越して、中央アルプスや北アルプスの展望もある。南の耳、北の耳を越して、ゼブラ山到着は午前11時過ぎ、快調である。ここで昼飯、夕べ炊いた赤飯のおにぎりがうまい。
ここから八島ヶ原湿原から蝶々深山への道に出て、深山越えで車を止めてある車山肩に戻る予定だったが、下っているときに湿原端の牧畜小屋がすぐ近くに見えた。下見のときは霧の中で見えなかった。こんなに近い所に来ているなら沢渡経由の方が楽ではないかと、急遽帰路を変更。沢渡のヒュッテジャベルから、車山の肩に登って帰ってきた。ただこの登りが、今日最大の登りで結構急できつかった。それでも何とか4時間半で歩き通せた。今年も歩けて幸せだった。

      
    写真左・すすきたなびく霧ヶ峰        写真右・秋の霧ヶ峰
 

10月24日 新一郎の墓参り

大学岳文会同期の山本新一郎が亡くなったのがコロナ入りの2020年、墓参りに行きたくても行けない時だった。ようやく安全になったので、同期8名で岩槻の密弥勒寺にお参りに行った。この寺は岳文会創設者の上村先輩が住職のお寺。
新一郎の晩年は悲しかった。リストラに会い、家族にも親類にも離縁され、タクシー運転手などをしながら暮らしていたが、ギャンブルにはまり身を滅ぼして行った。最後に私に電話をかけてきたときは電話代にも困る状況だった。「交番へ行ってお金を借りて、生活保護の相談できる所を紹介してもらえ」と言った。
彼は窮して、上村先輩の寺へ倒れるようにして駆け込んだのだった。上村先輩から私は電話をもらって、私が見離したすぐあとに先輩を頼っていったことを知り、自責の念にかられたが、最後に行ったところが先輩のお寺であったことにホッと安堵したことも事実だった。しかし、まもなく倒れ、記憶喪失の人になり、我々同期の顔も忘れてしまい、4年前に亡くなった。可哀そうな人生だった。
私たちを迎えて、先輩は5回忌法要を上げてくれた。彼の晩年は悲惨だったが、学生時代、一緒に山に登り、文学を語り合った、楽しい青春もあったことを思い出に安らかに眠り給えと手を合わせた。

      
     写真左・参列者一同        写真右・ありし日の山本新一郎
 

10月21日 激闘の早明戦

秋の東京六大学野球リーグ戦、春の覇者・早稲田は秋も好調。明治と勝ち点3同士の対決となった。勝った方が優勝に近づく。神宮に行きたいところだが、山荘に岳文後輩のゴルフ組が来るので、パソコンでの中継観戦とあいなった。昨日は延長12回で引き分けて、今日は3試合目。
第一戦は早稲田が勝っているので、今日勝てば勝ち点4となる。エースの伊藤樹が第一線に続いて投げた。三回、四回と早稲田は山縣、石郷岡のタイムリーヒットで2点を上げた。伊藤は明大にチャンスを作らせない絶妙な投球で零点に押さえてゲームセット。
「勝ったぞ、勝ったぞ早稲田!」である。勝ち点4となり、次の明治・法政戦で明治が1敗すれば早稲田の優勝が決まる。明治が勝っても、早慶戦で早稲田が1勝すれば、優勝だ。今の慶応に負けることはないだろう。春秋連続の優勝が現実に近づいた。パソコン感染の早明戦は実に愉快であった。

          
     写真左・明大野球部           写真右・神宮球場
 

10月17日 山荘の塗装工事始まる

しばらくやっていなかった山荘の外壁や屋根の塗装工事が始まった。9月初めに、マルアサ工務店と塗装業者に来てもらった。そのときは来年春のつもりだったが、来年になるとさらに高くなると言われ、秋なら11月初めまではやれるというので決断した。もう秋のカラマツの落ち葉が降り始めているので、厄介ではないかと言うと、問題ないという。そこでお客が一段落した、今週から始めてもらった。
奥志賀のキノコ狩りから帰ってきたら、もう工事の足場が組まれていた。わが家の玄関とゲストハウスの入り口の通路は確保されているというものの、通りにくい。でも仕方ない。カーテンを開けたら、塗装職人の顔が目の前あってビックリして、あわて閉めてしまった。失礼なことをしたと反省。11月初めにすべて終る予定だが、どんな化粧直しになることやら...。

      
   写真左・足場に囲まれた秋の山荘       写真右・塗装工事の足場
 

10月15〜16日 奥志賀のキノコ狩り

奥志賀のキノコ狩りに来た。ここでの最初に楽しみは、山の駅の大勝軒のラーメン。ところが火曜日はカレーの日とかで、ラーメンお休み。仕方なくチーズカレーを食べたが、これが意外とうまかった。ラーメンは帰りの日に食べた。
きのこは本命のブナハリタケが見つからず、蓼科同様、ヤナギマツタケが中心だった。とても大きいヤナギマツタケを見つけたが、違うきのこだった。食べられず残念! クリタケが大量に採れ、ブルーエでのキノコ鍋はとてもおいしかった。
キノコ狩りの後に行った発哺の西発哺温泉ホテルのお風呂はいつ行っても気持ち良い。温泉を出て、ロビーにあるジュークボックスも楽しみ。昔のレコードしか使えない装置なので、古い歌しかないが、「うるわしの志賀高原」と「奥志賀の女」は定番で聞く。今回もスタートで機械がトラブり、主人に直してもらい再開。最後は越路吹雪の「サントワマミー」と「ラストダンスは私に」をかけたが、「ラストダンス...」が終わらない。ラストにならず、戻ってはまた始まる。「もうけもの」と思って聞いていたが、帰る時間が気になり出し、主人に頼んだら「このジュークボックスは最初もトラブルが、最後も終わらないトラブルがある」と言って、電源を引っこ抜いていた。楽しいキノコ狩りは、楽しいジュークボックスで打ち止めとなった。

      
  写真左・大きなキノコ、だが食用不適切      写真右・きのこ鍋
 

10月2日 村上中学同期会

新潟県村上市立村上中学校・昭和35年卒業生は400人近くいたと思うが、うち70人くらいが、今東京周辺に住んでいる。その関東地区同級会が久しぶりに御徒町の吉池食堂で開かれた。
出席者は11名。この歳になると集まるのも難しくなるのだ。知っているのは半分くらい。時々会っている仲間なので、そんなに久しぶり感はない。あとは全く記憶がない人だ。私は60人足らずの塩野町小学校から転じて村上中学校に来たので、400人もの生徒の多さにびっくりして、同じクラスの生徒の名前も覚えきれなかった。私は3年のとき生徒会長を勤めたが、このときの役員の名前もほとんど覚えていない。大きな学校となると思い出作りもなく、頭の中をすっと通り過ぎていったような記憶しかないのはなぜだろうか?

        
写真左・会の前に寄った同期・田中君の椅子展 写真右・吉池会館・上部が吉池食堂
 

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9 月

9月28〜30日 今年も採れたヤナギマツタケ

9月末の3日間は蓼科でのキノコ採り合宿。キノコ博士吉田さんの指導のもと、食べられるキノコを探す。
昨年は夏の高温が残り、雨も少なくまったくと言ってよいほど土の上のキノコが採れなかった。
今年も高温だが突然の雷雨の日あったので、少しは期待したのだが八子ヶ峰尾根筋の土の斜面は、去年同様何もでていなかった。しかし、沢筋の柳の木に生えるヤナギマツタケは去年の木はダメだが、以前は生えていなかった他の柳の木にいっぱい生えていて、みんな大喜びでむしり取っていた。
上部の幹のきのこは竿に網棒を継ぎ足してそぎ落とした。近くの砂礫の斜面には茶色いハタケシメジも出ていた。この一帯だけでかなりの収穫となった。
翌日は山の登山道沿いの斜面での収穫ゼロにあきらめ、昼飯前に赤松林にマツタケ探しと洒落て出かけてみた。
当然のことだがマツタケは見つからなかったが、ハナビラダケという大きなきのこを吉田さんが発見し、みんなで大喜び。帰ってバター炒めにしたら絶品だった。
予想以上の豊作で、キノコ汁やついでに拾ったクリも入れてのキノコ汁や栗ご飯はとてもおいしかった。おかげで呑み過ぎて、みんなが帰ったあとは一日片付けもできず、ぐったりしていた。

      
     写真左・ヤナギマツタケ          写真右・ハタケシメジ
 

9月26日 トリカブトは鹿に有効か?

山荘のベランダ前の庭には、来たお客の目を楽しませるために鉢植えの花を植えている。
これが鹿にとっては格好の餌場になっていて、植えるとすぐ無くなってしまう。
まだお客が到着する前に無くなることもある。鹿の食事用に買っているようなものだ。これではいたちごっこである。
八子ヶ峰を歩いたら西峰の下りで、かなりのトリカブトの花を見つけた。猛毒といわれるトリカブト、この花なら鹿もイチコロではないかと考え、いっぱい採ってきてマリーゴールドと一緒に鉢植えしてみた。
効果は如何に? 鹿は毒とわかっているのかマリーゴールドだけついばんで、トリカブトには手をつけなかった。
残念!ただトリカブトだけ残っていると寄って来る機会も少なく、遠ざけているようなので少しの効果はあるようだ。近づかないだけでもありがたい。来年もトリカブトが咲いたらまたやってみようか。

      
写真左・パンジーとトリカブトを一緒に植えた   写真右・トリカブトだけ
 

月 25日 霧ヶ峰、南の耳から、北の耳、ゼブラ山

来月末に、ニュージランドやアルプスの山を一緒に歩いたメンバーで年に1回のハイキングを行う。
もう歳がトシだけに、やさしい所でなければダメだ。昨年は尾瀬だった。
今年は山荘に来て霧ヶ峰にしよう。そこで下見を兼ねて歩いてみた。
どうせならまだ歩いたことのないコースをと、姫木平のヘリを廻るコースを下見に行った。
霧が草原を覆っている日でまさに霧ヶ峰である。初めてのコースで見晴らしが悪いと、ちゃんとコースを歩いているのか不安になる。
すれ違う人みんなに「この道は?」と確認しながら進んで行った。車山乗越の木標があった。その先を進むと南の耳という標識があり、姫木平へという道標もあったので、正しい道を歩いていることがわかった。今は営業してないエコーバレー・スキー場の最高部のヘリを歩いているようだ。面白いスキー場だったので、ここ数年滑れなくなっているのが残念だ。
南の耳で休んでいた三人のおじいちゃん達に「北の耳までどのくらい?」と聞いたら、「15分くらい」と答えた。地元の人らしく、よく歩いている雰囲気だった。
しばらく急な下りを下り草原を歩き、ひとのぼりしたら北の耳に着いた。霧は晴れないがここまで来れば迷うこともないだろう。
それからもダラダラと歩いたらゼブラ山という標識があった。三人組にまた会った。ここでおにぎりを食べた。三人は「お先に」と去っていった。さらに下って蝶々深山から八島湿原への道に出て、蝶々深山経由で車山の肩に戻ってきた。5時間の歩きだった。本番はだいじょうぶかな?

      
 写真左・南の耳、このコースは山彦谷と      写真右・ゼブラ山1776m
     いうらしい
 

月 23日 春風亭一朝、一蔵の落語

今月初めの立川談春の落語を聞いて、久しぶりに目覚めた。そこで続いての松本での一朝、一蔵の親子の落語会に来てみた。二人とも初めて聞く。息子の一蔵は「阿武松」という相撲取りの話、親の一朝は「中村仲蔵」、いずれも古い話だが、それなりに面白い。ただ談春の名調子を聞いたあとではいまひとつ盛り上がりに欠ける。仕方ないことか。
ただ落語とは関係ないが、帰りのバスで通った信州大学は道路の両側に広がる、建物群の大きさと数に驚いた。大きな大学病院もある。さすがに”学都”松本にふさわしい立派な大学である。NHK松本の撤退で松本の凋落を嘆いたが、これからの松本は学都を売り込んでいくのがよいのではないか?それとオザワフェスティバルを続けて”楽都”松本を世界に響かせたい。

      
    写真左・一朝一蔵親子会        写真右・キッセイ文化ホール
 

9月16日 響きわたる”紺碧の空”

秋の六大学野球リーグ戦が始まった。春は早稲田が優勝した。なので、秋の第一戦は早稲田と東大とである。昨日は20-0と一方的な早稲田の勝ち。今日の二戦は、少しは東大も頑張るのではないかと期待したが、力の差は歴然。今日も二回に吉納のホームランなどで7点も取り、続く3回にも5点で勝負あった。”紺碧の空、あおぐ日輪...♪”が何度も響き渡り、歌い疲れるほど。これ以上、見るのも疲れるので、5回に早々、家路についた。
この秋も優勝が期待できそう。難関は明治だ。慶応は早々と立教に負け、立教は10年ぶりくらいに慶応から勝ち点を上げた。

      
 
 写真左・試合前の早稲田の応援席       写真右・早稲田の前は慶立戦
                            慶応のエール交換
 

月 7日 立川談春の落語

松本で立川談春の落語会があった。切符が取れない落語家とあって、早めに申し込んだ。
その甲斐あって、初めて談春が聞ける。張り切って松本へ出かけた。市民芸術館の大ホールはほぼ満席。話のマクラが時事解説も入ってうまい。松本とのかかわりや立川流の内輪話も出て巧みだ。お神酒徳利も楽しく聞けた。2時間たっぷりの独演会は至極満足して会場を後にした。
市民芸術館の隣はNHK松本放送局、ところが看板がはずされている。閉局したのだ。長野に統合したとのこと。これでまた松本の地盤沈下である。新幹線が長野に行き、取り残された松本からは企業の支店も長野へ移転する。岳都松本、楽都松本、学都松本と呼ぶが、経済も松本だったはずだ。その証拠に長野県の日本銀行支店は松本にある。日銀が長野へ移転したら大変なことである。NHK移転より大ごとだ。そうならないことを切に祈る。

      
    写真左・立川談春独演会        写真右・今は無きNHK松本放送局
 

9月6日 だんだん時間がかかる八子ヶ峰

神経痛で山歩きも億劫だったが、このところ痛みも和らいでいるので、久しぶりに歩いてみた。
ゆっくりゆっくり登っていく。違和感はあるものの歩ける。ヤマブドウの木も過ぎ、カラマツ林を抜けて八子が峰に続く尾根に出た。ここで大休止、15分ほど休んでまた歩き出す。ここからはゆるい尾根伝いなので楽だ。
八子ヶ峰ヒュッテでスイカをプラ容器から取り出し食べた。おいしい。ひと休みして、草原の道を歩き出す。八子ヶ峰東峰頂上の標識を左に見ながら、ピークに出る。前方には車山のドームの後ろに穂高連峰、槍ヶ岳も見える。右手の美ヶ原の先には、鹿島槍のピークが顔を覗かせる。左後方には南アルプス、その右には中央アルプス、そして御嶽山。
いつ来てもアルプスほぼ全山を眺められるこの道はすばらしいトレッキングコースだ。いつまでも歩きたいものだが、少しずつ歩みはのろくなっているのだろう。歩き終わったら3時間半かかっていた。前より1時間長くなった。それでも歩き続けられるだけ歩きたい道なのだ。

      
  写真左・空は青く、ススキも伸びて来た     写真右・初秋の空に輝く八ヶ岳
 

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8 月

8月 山荘ができて20年経ちました

蓼科の山荘ができて20年経ちました。私が60歳のときに建てた山荘。
これにはいろいろな期待をこめて作ったものです。いつかは自分の山小屋を持ちたいと、ずっと思い続けていたのです。建物はほぼ理想通りのログハウスです。
ここまでに至る過程をその当時の想いとともに、2006年の蓼科日記に書いたものを再掲載します。
 

 「ワーク・ライフバランス」

ワーク・ライフバランスという言葉を知ったのは、会社勤めをしていた40代の頃。「働くこと」と「自分の生活ややりたいこと」をバランスとって生きるのが、これからの人生には重要という。会社人間になってはいけない 。会社を離れたとき、その後の人生が豊かになる生き方を事前から準備しておくことが大切という。それを通じて自分の生き甲斐を見つけることによって、今やっている仕事にも好影響を与えるという。モチベーションも高まるという。「わが意を得たり」だった。
それを決定的に考えさせたのが、次女が生まれた45歳のときだった。それまでも乗鞍高原にペンションを開こうと動いて挫折したり、定年までサラリーマン なのかと、惰性に流されつつあった。ところが生まれた子供がいちばんお金のかかる高校、大学となるとき私は60歳、収入がなくなる。これはヤバイとこれからの人生を真剣に考えるきっかけになった。まずはお金だ。貯蓄の焦点を60歳からの収入確保に置いた。子供の学資保険はもとより、個人年金に給与の大半をつぎ込んだ。それまでやっていた社内持ち株も範囲を広げ、他の企業の株にも資金を回しリスク分散した。定年になったら、これらの資金で生活の安定と子供の学資を手当てを図ろうとした。

        
   写真左・出来たばかりの頃の山荘      写真右・クリスマスの頃の山荘
 

50歳を過ぎた頃、会社のトレーニングでSeven Habits(7つの習慣)の講座を受けた。そこで「計画は10年先を考えて準備すべき、10年先が会社内ならその仕事に役立つことを、会社を離れているなら、自分の人生のために役立つことに精力を注ぐべき」という内容だった。私にとって10年先は会社の外、それなら若い頃から夢見ていて、一度挫折した高原での生活を目標にするのがいちばんと考えた。仕事は仕事と割り切り、回りを気にしながらとっていた休暇は自分の意思で決め山へ、家族旅行はペンションを選び、チロルのシャレーにも行き、自分の夢につなげていった。会社を辞めたら山荘を持とうと。
30歳台で100万から始めた株も途中で中断したものの、飛び飛びに続け着実に上がっていった。しかしITバブル崩壊でピークの5分の1までに目減りした。58歳のとき、不況に陥った会社は希望退職募集を始めた。あと2年の生活の不安はあったものの夢 の実現が早まると考え、思い切って応募した。みんなに開放する目的の蓼科の山荘が予定より2年早い60歳に、そして奥志賀のペンションは共同経営の形だが今年実現した。青春の夢は少し形は変わったが、年齢相応の次のステージが広がった。

      
 写真左・南アルプス・荒川岳を歩いたとき 写真右・山歩きは苦しさのあとに楽しさあり
 

@「希望は捨てない、変えない、夢を実現する」信念を持ち続けたこと。
Aワーク・ライフバランスの考えで会社には心理的に距離を置いていたこと(仕事をおろそかにしたことではない。それなりに成果も上げ、認められ、ほどほどの出世もし、会社を辞めてもその経験でコンサルティングを続けられていると自負している) 。そしてB資金には多少のリスクを取ったことで、今の満足があると考える。
特に、Bの「リスクを取る」は重要だ。サラリーマンの収入だけでは、チャレンジには限界がある。生活と子供の教育、家のローンに追われ、自分の夢を追うどころではないだろう。私の場合は株を取った。大きな金額ではなかったが、細かくリスク分散し、コツコツとやることによって少しずつ増えていった。
45歳のときの次女誕生では、確実に手にできる貯蓄を増やした。日々の生活は爪に火を灯すような厳しいときもあった。貯金通帳はいつもマイナス、ボーナスのときに一瞬プラスになる繰り返しの連続だった。だから妻には見せられず、お金の管理は自分でやった。これは今になって、「振り込め詐欺」防御の有力なやり方だったとわかった。次女誕生は自分の人生を真剣に考えさせてくれた機会だった。子供には感謝している。そして七つの習慣トレーニングは人生計画の方向付けを後押ししてくれた。
東京と信州の往復生活は前より忙しいが、ワーク・ライフバランスを保つことによってストレスはほとんどない。ある人は「ライフ・ライフバランスではないか」と言うが・・・

      
  写真左・山荘でセミナー後のパーティ     写真右・山荘でライブも開催
 

月25日 中々連の阿波踊り

中々連ができてから16年経ったというのは、今日の踊っているときの連紹介で知った。「もうそんなになるのか」と感慨深かった。80歳になっても踊れる幸せを噛みしめながら踊った。踊りの先頭の”高張提灯”を持って踊るのが私の役目、演舞場へ先頭で入って行くときの高揚感がすてきで、何年も続けてきた。だけど80歳になり 、疲れも増えたのでやめようとしたのだが、今年もやることになった。高張提灯でいちばんしんどいのは、竿を腰帯びで支えながら踊ることだ。帯の締め方がゆるいと竿を支えられなくなり、ずるずると帯の隙間に下がっていく。こうなると腕で支えることになり、とても疲れるのだ。今回は、帯締めを布施さんに「強く、きつく」とお願いした。それが効を奏して、竿が帯にしっかりと押さえられている。ほどよく受け皿のような形になっていて、そこに置くだけできちんと片手で支えられるのだ。このため、長く踊っていても疲れない。約3時間の道のりを楽しく、笑顔で乗り切った。これなら来年もできそうと自信がついた。

      
     写真左・中々連勢ぞろい    写真右・中々連女踊りきれいどころアラリン峰
 

月15日 和田宿のピザ屋

信州長和町の和田は中仙道・和田峠の麓の宿場である。幕末に皇女和宮が、徳川家への嫁入りに使った宿場でもある。数万人の行列で先頭が和田宿に着いても、最後の列はまだ下諏訪宿を出ていなかったというほどの大行列だったという。この和田宿においしいピザ屋さんがあるというので、妻と一緒に大門峠を越えてやってきた。そのまえに和宮も宿泊した本陣の座敷を見学し、ピザ屋に向かった。しゃれた店かと思ったら 「こくや」という昔の宿場の古い建物だった。「今日は持ち帰りを受けてしまったので1時間以上待つので、席が空くまで宿場巡りでもしてきてください」と言われ たので、いくつかの古い宿を廻った。
ほどなくして「席が空いた」との電話をもらい、席について待つこと小一時間、マルゲリータピザと”しらすとなすのピザ”が出てきた。いずれもうすい生地の上に具材が載っていて、ほどよく焼けて香ばしい。おいしいピザだった。頼んだコーラも小さなガラスのボトルに氷をたっぷり入れていて、冷えていておいしい。評判に違わぬおいしい店だった。

      
    写真左・しらすとナスのピザ         写真右・こくや店内
 

月12日 初めてのプール

明日は帰るので、この日のために西松屋で買ったプールにお湯を張り、ベランダでゆりかちゃんに水遊びをしてもらった。お湯に入ってすぐに座り込み、コップでお湯を汲み、それを発泡スチロールの容器に注ぎ始めた。何度も繰り返している。プール遊びはお気に入りのようだ。景ちゃんと裕紀君がいろいろとおもちゃを入れるが、本人は単純な水入れ作業が好きのようで、見向きもせずにひたすらお湯汲みを続けている。1時間以上もプールに入っていてお湯も冷たくなってきたので、「終わり」と上げようとするが、いやがってプールを離れない。好きなすいかをエサに何とかプールから引き上げた。来年の夏はもっとプールから離れないのだろうな?

      
    写真左・水入れに一生懸命        写真右・両親にはウワの空
 

月11日 八ヶ岳農場は広い

ゆりかちゃんを外で自由に歩き回らせたいのだが、山荘の庭は鹿の糞だらけでそうもいかない。そこで、原村の八ヶ岳農業実践大学校に行くことにした。ここには、気球を飛ばす大きな草原もある。アイスクリームもある。農場に着き草原に出た途端、緑の原を駆け出す。まだ歩き始めたばかりだが、障害物のない草原はかけるのにちょうどよいらしく、とっとことっとこ駆けて行く。お父さんは追いかけるのに必死。先回りして、かなり先でおいでお出でをすると、そこに向かって必死に駆けていく。こんな所で伸び伸びと育てられたらいいのにね。大学校の牛さんのミルクで作られたソフトクリームをぺろぺろとなめ、食べて、楽しい草原歩きは終わった。

      
    写真左・ 暑さもなんのその        写真右・肩車はらくちん
 

月9日 坪庭歩いて、夜はラコルタ・バイキング

坂戸のお父さんは北八ヶ岳ロープウェイに興味を示されたので、坪庭まで上がってみることにした。天気もまずまず、ロープウェイで上がること数分、2000mを越した山上はことさら涼しい。坪庭散歩をすることにした。ゆりかちゃんは歩きたがる。木道のような凸凹のない場所は歩けるが、溶岩台地の中に作った道はコンクリートで固めているとはいえ凸凹が多い。ここを裕紀君が抱いていこうとすると嫌がる。抱いたり下ろしたりしているうちに疲れたのか泣き出し、それが止まらない。帰りのロープウェイまで泣いていた。この夜は、ハーベストホテルのラコルタ・バイキングに出かけた。坂戸のお父さんは、帰り運転があるのでノンアルコールとなった。帰って来てからたらふく呑むという。わが家の車は景ちゃんが運転するので私は呑める。レストランは混雑していたが、予約制だったので安心して食べれた。ハーベストからの八ヶ岳の大展望は相変わらず美しかった 。

      
   写真左・坪庭で歩く前にまず1枚       写真右・ラコルタでの晩餐

 

月8日 坂戸の木下夫妻の誕生祝

今日から、景ちゃん家族が夏休みで蓼科に来る。坂戸の木下両親の車でみんなで来るという。ゆりかちゃんは10月が誕生日。ちょっと早いが10月には会えそうもないので、早めにハッピイバースデイのケーキを用意すると伝えたら、坂戸の両親がふたりとも8月が誕生日とのことで、急遽そちらをメインに切り替えた。
今日の晩餐は、私の唯一の料理の鴨焼き、最後は鴨うどんで〆る。酒はアサヒビール、坂戸のおとうさんはスーパードライ派なのだ。晩餐が終わってゆりかちゃんが寝たあとに 、ゆりかちゃんの分も含めてハッピイバースデイのケーキカット。梅林堂のフルーツデコレーションケーキはおいしいのだが、カットしているうちに段々形が崩れてくるという難があることを知った。それでもみんな「おいしい、おいしい」と言って誕生日を祝った。

      
   写真左・デコレーションケーキ       写真右・ハッピイバースデイ

 

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7 月

6月22日〜30日 久しぶりの海外旅行(スイス) 後半
 「スイスは山の国」

スイスは山の国である。ほとんどの国土が高地にあり、まわりをベルナーオーバーランドのユングフラウ、メンヒ、アイガー、そしてヴァリス州のマッターホルン、アラリン、ドーム、フランス国境のモンブラン、エンガディン地方のベルニナアルプスと山岳観光には事欠かない。
先月末はサンモリッツを拠点にベルニナアルプス展望の旅をした。そして氷河急行でサンモリッツからツェルマットまでの列車の旅をして、アルプスの山々や牧草地が広がるスイスの風景を満喫した。
ツェルマットではスネガからのハイキング、フーリからのショートハイキングを楽しんだ。7月に入ってツェルマットの隣の谷奥の村、サースフェーで滞在し、その後グリンデルワルドへ移動してハイキング。それでこの旅は終了する。

      
     写真左・アルプス連山         写真右・アイガートレイル
 

6月30日  ツェルマットに足止め

ツェルマットからサースフェーへ移動する日だ。ところが、二三日前の大雨でサースフェへーの谷間の村が土砂崩れになり、道がふさがってサースフェへーは行けないという。サースフェへーのタクシーを予約していたグリンデルワルドの日本人観光案内所の安藤さんから電話があった。少なくとも今日は無理とのことでツェルマットに足止めとなった。泊っているアパートメントホテルに延泊したいと言ったら、大きな部屋しか空いてないというが仕方ない。ベッドルームがふたつもあるグループ用の大きな部屋だった。このホテルの朝食はごはんもあり、隣にはニッシンのそばやラーメンの袋もある。そばの袋を開けたら麺とスープ袋が入っていて、どんぶり代わりの器に移しお湯をかけて3分待つ、カップヌードル方式だった。3分弱温めて、さあ箸でたべようとしたら、箸がない。フォークが置いてあるだけだった。ウェイターに「チョップスティックを」と言ったら怪訝な顔をして他のウェイトレスを呼んできた。再度、「チョップスティック」と言って指でチョキチョキしたら、「OK」と言ってハサミを持ってきた。これじゃダメと言ってあきらめ、フォークで蕎麦をすすった。なんとも言えない気分であった。

      
 写真左・ツェルマットのホテルの窓からの眺め 写真右・隣のホテルは中国人でいっぱい
 

月1日 夕方4時〜6時のみ通行可能

明けて7月になった。気分は晴れない。サースフェーへ行けるかわからないからだ。安藤さんから電話があり、昼まで待たないと状況がわからないという。そうこうしている時に、サースフェーで泊まる宿から電話が来た。「午後4時から6時までの2時間、道を開ける」とのこと。すぐに安藤さんに電話したがつながらない。そこで、予約票に書いてある地元のタクシー会社に電話した。「そういうことなら、午後2時半に出発する。ホテルの近くの駐車場に来てくれ」と。ツェルマットは電気自動車だけ走行できる。ガソリン車は入れないので、ホテルの電気自動車で乗換え駐車場まで行かねばならない。安藤さんに再度電話したら、開通のことを知らなかった。無事行けることがわかり、ホッとした。ツェルマットの駅へ行きサンドイッチを買い、駅のベンチで昼食代わりとした。タクシーは無事、出発。サースフェーの谷間に入り、しばらく走って長い車の列の所で停まってしまった。時間は3時過ぎで開通待ちの列だった。ドライバーは下りて前方へ行ってしまい、しばらく帰ってこなかった。そのあいだに前の車が移動したため、隙間に2,3台の車が割り込んでしまった。
 

そうこうするうちに4時を過ぎ、車はようやく動き出した。ここで1時間以上停まっていたことになる。グルントという村の中へ入ったら、泥だらけの家が多数あり、車も泥の中に埋もれていた。ここでも片側通行で1時間以上待たされた。2時間だけ開通するというので、上る車もサースフェーに足止めされていた車も一斉に出てきたので、上下とも長蛇の列なのだ。何台のポストバスもいっぱいの客を乗せて下りてくる。工事関係者にとっては、通行止めにして作業をしたかったのだろうが、それだと地元の観光業者にとって上がったりなので、2時間だけの通行という非常手段をとったのだろう。
長時間かかったが、5時過ぎにサースフェーの村の駐車場に到着。ドライバーには「ハードワーク、ご苦労様」と言って20フランのチップを渡した。ほどなくホテル・ブリストルの電気自動車がやってきた。この村もガソリン車禁止なのだ。ホテル・ブリストルのアパートメントを予約していた。アパートは大きくベッドルームが三つ、バスルームも三つ、ひとつには浴槽もついていてうれしい。調味料も豊富に置いてあった。大きなレンジはあるが、電子レンジがない。ヨーロッパのホテルには電子レンジがないのが、アメリカと大きな違いだ。持ってきた冷やし中華やカレーがようやく食べられる。この日の夜は、パックご飯にパックの中華丼を載せておいしく食べた。まずは到着してよかった。

      
 写真左・大渋滞のサースフェーへの道路     写真右・アパートで日本食三昧
 

月2日 ミッテルアラリンへ

サースフェーは標高1800m,ミシャベル連峰の4000m級のアルプス連山に囲まれた村で、宿の窓からは氷河が見える。その末端からは幾筋もの水の流れが出ていて、それが村に入り飲料水になっている。でも煮沸して冷やしてから飲むようにと宿の注意書きに書いてある。村の浄水場の浄化装置が古いのか?そんな素朴な村だ。サースフェーが賑わうのは冬で、スキーやスノボーのメッカとなる。もう少し若ければ滑りに来たかった。村の上に聳えているアラリン峰の近くまで、ロープウェイの乗継と、地下ケーブルカーで標高3500m近くまで上がることができる。標高4000mのアラリンホルンまでは2時間程度で登れるのではないか?おおぜいの登山客の歩く姿が見えた。私たちは登山をせず、ミッテルアラリンの360度回転するレストランで野菜スープを頂きながら、座ったままでテーシュホルン、ドームなどのアルプスの峰々を眺めた。遠くにユングフラウも見えた。3日後にはこの近くまで行く。この日は休止していたが氷河スキー場もある。すばらしい所だ。名残り惜しいがケーブル、ロープウェイで村へ戻った。数軒しか開いていないお土産屋を覗いた。ホテルも半分以上閉まっていて、この村が冬中心であることがわかる。我々が泊っているホテル・ブリストルに二組の日本人がいた。中国人で溢れかえっているツェルマットに嫌気をさして、移ってきたのだろうか?交通止めの中をどうやって来たのか、私たちに聞いてきた。「明日、帰りたいのだが?」と聞くので「夕方2時間通行止め解除」のときのポストバスを狙えとアドバイスした。

     
      写真左・ アラリン峰   写真右・展望レストランで・ソーセージ付きのスープ
 

月3日 雨あがりのハンニックからトレッキング

朝からの雨、村の散策に出かけた。夏はやってないホテルが多い。それも脇道沿いのホテルに多い。やはり夏は人がすくなくなるので脇道は不利なのだろう。次第に晴れ間が覗くようになった午後、村の中心から上って行くハンニックのロープウェイに乗った。冬のスキーがメインと思うが、夏も昼の毎時、一時間に一回、動かしている。こんなところにも冬と夏の差が表れる。ロ-プウェイは標高2300mまで上がる。雨上がりの道は少し濡れているが、歩けないこともなさそうなので村まで歩いて下りることにした。
小型の自動車が上がってこられる道だ。途中に牛かヤギの餌場のような小屋があった。でも周りには牛もヤギの姿はない。そのまま道を下りて行くと、下にヤギの大群が見えた。道を上がって来る。まさかこの道には来ないよな、と思っていたが、道のカーブを曲がって、どんどん迫って来る。大群に取り囲まれてしまった。寄って来るヤギに、「シツシツ」と追い払いながら、大群を抜け出した。ところが一匹のヤギが何を思ったか、我々にまとわりついて離れない。一緒に下りてくる始末だ。どこまでついて来るのか?ホテルまで来るのかな?と思っていたら、途中で名残り惜しそうに踵を返して来た道を戻り返していった。踵を返した所が、彼らの境界の縄張り線だったのだろう。不安ではあったが楽しい雨上がりのハイキングだった。

      
   写真左・ヤギの群れの中を歩く妻    写真右・一匹だけ妻から離れないヤギ
 

月4日 グリンデルワルドへ移動

サースフェー最後の日、一日短くなってしまったが楽しく過ごせた。11時に村の駐車場に迎えの車が来る。グリンデルワルドへの移動をバス、列車の乗継ぎにしようと思っていたが、スーツケースが行動を制限するので、送迎サービスに頼ることにした。宿の電気自動車で村の駐車場まで送ってもらった。来たときに下ろしてくれた所はツェルマットまでの地元の車は入るが、その他の地域から来る車は少し離れた一般車の駐車場までとのことで、そこまで送ってくれた。日本人が立っていた。
今日のドライバーは安藤一郎さん、グリンデルワルドの日本人観光案内所の所長さん。何年か前、グリンデルワルトからチューリッヒの空港まで送ってもらったことがある。奥さんと二人で、案内所を切り盛りしていて、奥さんが手配や観光案内、旦那の一郎さんはもっぱら観光客のドライバー、山などのガイドをしているらしい。依頼したのは列車の切符などを頼んだ日本の旅行社だったが、そこから車の手配は安藤さんの所に回ったらしい。グルントの土砂流れ込みの現場を通りながら、今年の異常気象を説明してくれた。グリンデルワルトのベルナーオーバーランドはたいしたことはなかったそうだが、ここツェルマットやサースフェーのヴァリス地方は何度も被害に遭い大変だったらしい。

  

ヴァリスの谷を抜け車を載せて走る列車区間に来た時、カンデルステックの駅名に妻ともども見おぼえがあると声を出した。50年前の新婚旅行のとき初めてスイスに来て、いちばん思い出に残っているポストバスに乗ってアレッチ氷河の末端の方の村に旅した。そのとき下りた駅がカンデルステック、ここからバスで行ったと思っていたら、安藤さんがバスは次の駅のゴッペンシュタインからだと言う。ゴッペンシュタインも記憶にある地名だ。「そうだ、カンデルステックで下りてスーツケースを駅に預け、何とかと言う湖に行ってお昼を食べ、戻って列車に乗りゴッペンシュタインからポストバスに乗った」ことを。思い出深いカンデルステックを後にして、ツーン湖の大きな湖の畔を走りインターラーケンからユングフラウの谷間に入った。
ラウターブルンネンへの道を右に見ながら左の道を上がって行く。ほどなく村の塊が見えたと思った所で左へ上がったら、グリンデルワルトのホテル・ベルヴェデーレに着いた。思ったより村の手前だった。アイガーの壁を目の前にした屋上ロビーでウェルカムドリンクを頂き、3階の部屋に行った。ベランダに出たら、アイガーの山の麓に広がる牧草地と数多くの農家、そこを上がって行くクライネシャイデックへの登山電車。まるで絵葉書のような景色だ。すてきだねと言って、ビールで乾杯!今回は格上げして四つ星ホテルにしたが、その価値はこのベランダからの景色にあることを知った。

      
  写真左・なつかしいカンデルステックの駅 写真右・ベランダからアイガー北壁と村々の景色
 

月5日 アイガートレイル

ユングフラウヨッホへ行くにはグリンデルワルトから電車に乗り、クライネシャイデックでヨッホ行きの電車に乗り換えるが、次の駅がアイガーグレッチャー、ここから長いアイガー北壁のトンネルに入る。この駅まで昨年、グリンデルワルトから長いゴンドラがかかった。そして、以前はアイガー北壁へ取り付くための小径があった所を整備して、トレッキングコースにしてアルピグレン、その先のグリンデルワルトの村まで歩いていけるようにした。名付けて「アイガートレイル」、歩けるのは7月1日以降、その開通に合わせるように旅程を組んできた今回のスイスの旅。いわばメインイベントの日だ。
空晴れ渡り、北壁もきれいに見えるこの日、20人乗りの大きなゴンドラで北壁に沿って、アイガーグレッチャーまで10分余で上がって行く。アイガーグレッチャー駅のベランダを下りると、そこはアイガートレイルの入り口だった。歩き始めてすぐに雪が現れ、雪の上を歩いた。

      
   
   写真左・雪渓を歩く           写真右・こんな景色が続く
 

これがあるから、7月開始なのだと理解した。このあと、アルピグレンに着くまでに10ヶ所近くの雪渓に出会った。右手すぐにはアイガー北壁の大岩壁、左手は牧草地帯に続く草原、アルペンローゼやハクサンフーロのような花が咲き乱れている。前方にはヴェッターホルンの岩壁が見える。夢のような景色の中を歩いて行く。またもや「汽車の窓からハンケチ振れば...」と口ずさんだ。本当に、上がって来る登山電車の窓から、手を振る人の姿が遠くに見えるのだ。結構、おおぜいの人が歩いている。日本人の姿もチラホラ、ほどよい間隔で置かれた木のベンチで休む。中には寄贈されたのか、名前と生きた期間を彫ったベンチもある。このアイガー大岩壁に挑んだ人だったのだろうか?
歩き疲れた頃、アルピグレンへの下りが始まった。レストランのパラソルが遠くに見えた頃、グリンデルワルトへの分岐があった。その先の道が細くなっていることは、あまりグリンデルワルトまで歩く人はいないのだろうか?確かに目の前にパラソルが見えたらそっちに行きたくなるよな。草原を横切る長い道を歩いてやっとアルピグレンに着いた。約3時間の歩きだった。レストランのパラソルの下で飲んだ野菜スープとビールは格別だ。ヨーロッパの旅での昼食は、スープを頼んでいればまず間違いない。口に合うのだ。ついてくるパンとスープで十分腹ごしらえができる。アルピグレンから下りの登山電車に乗って、グリンデルワルトへ帰ってきた。念願の道を歩けたので大満足の一日だった。

      
      写真左・寄贈されたベンチ、     写真右・歩き終えてのお昼はおいしい
        この人は63年の生涯
 

月6日 ウェンゲントレイル

メンリッヒェンと発音しにくい山がグリンデルワルトから右手のロープウェイで上がった所にある。アイガーグレッチャーへのゴンドラとメンリッヒェンへのロープウェイとでV字に分かれている感じだ。メンリッヒェンからはクライネシャイデックへ下りるハイキングコースがある。しかし先般の雨でこのコースは歩けないという。そこで、思い切って妻にはな内緒でウェンゲンへのトレッキングコースに行くことにした。昨日と同じような道と思っていた妻は出足からの急こう配に驚いた。ウェンゲンへの斜面は名にしおう急斜面なのだ。ワールドカップのダウンヒルの初回はここウェンゲンと決まっている。最大級ともいわれる急斜面。そこに道が小刻みなジグザクで続いている。
 

私の今日のいでたちは長ズボンにスニーカー、あえて妻に悟られないように軽装にした。ただこの急斜面で、スニーカーではつま先が痛くなった。さすがの急斜面も1時間ほどで緩くなり、歩きやすくなるが妻はここまでで疲れ切ったのか、足取りが重くなった。疲れて歩けないとこぼす。咲き乱れる高山植物や、下に見えるウェンゲンの思い出話などをして気を紛らせるがなかなかはかどらない。ウェンゲンは50年前の新婚旅行で来て泊まった村なのだ。
ここを起点にユングフラウヨッホへ行った。駅前のホテルアイガーに泊まった。半世紀ぶりの再訪なのだが、今回は山から下ってきての訪問。これは妻には予想外のつらさだったのだろう。ようやくウェンゲンに着き、ホテルアイガーに行ったらレストランに代わっていた。ランチは2時で終わり飲み物だけと言われ、やむなく近くのレストランでピザを食べた。思い出のウェンゲンもこう疲れては落ち着かない。早々にラウターブルンネン経由の登山電車でグリンデルワルトへ帰ってきた。マグネットを買うのも忘れてしまった。

      
    写真左・ウェンゲントレイル     写真右・なつかしいウェンゲンの駅
 

月7日 マイリンゲンのシャーロックホームズ

雨の朝だ。最後のグリンデルワルトなのに。今日はマイリンゲンに行くことにした。晴れていればその前に、ブリエンツからロートホルンへのケーブルカーに乗ってとも思っていたが、これでは無理。インターラーケン乗り換えでマイリンゲン行きの切符を買って電車に乗った。マイリンゲンはシャーロックホームズ終焉の地として知られる。宿敵モリアーティとラインバッハの滝で闘い、二人とも滝に消えて終焉となったと言われる。物語はその後、ホームズが復活して続くが、この町はホームズはここで終わったとして、記念館やホームズ像などを建てて観光地にしている。シャーロックホームズホテルなどもある始末。
駅を下りて左手に滝があったので、それがラインバッハの滝と思い歩いて行ったが違うらしい。その後、反対側にあることがわかったが、それ以上歩く気力なし。昨日のウェンゲントレイルの疲れで二人ともぐったりなのだ。記念館を見て、シュワルツワルド峠で乗換えてグリンデルワルトへ行くバスがあるので、それに乗ってグリンデルワルトへ帰ってきた。夜は、メインリヒェン行の古いゴンドラを部屋にしたフォンデュ料理でスイス最後の夜を楽しんだ。

      
 写真左・マイリンゲンのシャーロックホームズ像   写真右・フォンデュゴンドラ

 

月8日 さあ帰国へ・列車でのできごと

ホテル・ヴェルベデールの朝食にはごはんと味噌汁がある。ここはツルマットのホテルと違って、ちゃんと箸もある。最初、違和感を感じた固いとうふの味噌汁も4日も食べているうちにおいしくなった。そのホテルとも今日でお別れ、グリンデルワルトの駅へ車で送ってもらい、インターラーケンへ向かった。
インターラーケンでチューリッヒ空港行きの列車に乗り換えた。ところがグリンデルワルトからの電車が遅れたため、乗り換えがあわただしく、近い乗車口に飛び乗って入った車両の雰囲気がおかしい。一等車の切符なのに移動するには大変なので、そのままその車両に。車内の半分以上が自転車置き場になっている。1台も自転車がないのでそこにスーツケースを置き、われわれは車両後ろの座席に座った。ところが途中の駅から自転車部隊が乗り込んできて、スーツケースが邪魔なので自転車部隊が片付けはじめた。車両には中国人客もいて彼らのスーツケースも同様積まれ、その上に我々のものも積まれてしまった。ところが何かのはずみで、スーツケースの山が崩れ、妻のスーツケースが落下。そのはずみで上下する取っ手部分が埋もれた状態になり、上下に動かなくなった。これは空港内移動するのに苦労する。帰国後、海外旅行保険を調べたら、旅行カバンの損傷も補償されることがわかり、今は神戸の修理工場へ送ってある。

      
 写真左・ ベルヴェデールのご飯と味噌汁   写真右・ホテル・ベルヴェデールの玄関
 

7月9日 日本は暑い

帰りの列車でのトラブルもあったが、無事チューリッヒからドバイ経由で帰国できた。チューリッヒ空港では我々を老人と見て、ハンディキャップ用のタグを着けられた。成田に着いて、乗降口に出たら、そこに「オダヒコ様」と名札を掲げた2台の車椅子が待っていた。驚いて「我々は大丈夫です」と断ったが、迎えてくれた人も我々同様の年配だった。お礼のチップでも渡せばよかったと後で反省したが、そのときはビックリしてその場をすぐに離れたかったのだ。
ドバイ空港のビジネスラウンジの窓から下のコンコースが見える。行きかう人も多種多様だが、アラブ特有の光景も見える。コンコースの一角のスペースに履物を脱いでひざをつき、お尻を上げて祈りをするおばちゃんたち、頭からすっぽり布を被っているので若いか年寄りかはわからないが、一人が始めたら次々とやってきてひざまづく。ドバイならではの光景だった。帰って来た日本は暑かった。あの爽やかなスイスの日々がなつかしい。

      
   写真左・ 爽やかな朝のアイガー    写真右・メンリッヒェンからユングフラウを望む
 

7月10日 後片付けもまた楽し

空港で預けたスーツケースが、今日到着した。開いて洗濯ものは篭へ、お土産類はまとめて調理器具や海外仕様のコンセントは空いたスーツケースへと整理する。持ってきたパンフレットや案内図は束ねた。エミレーツでもらったアメニティグッズも往復で7ヶもある。行きは2ヶだけだったが、帰りはチューリッヒからドバイ行きに乗ったときに2ヶ、ドバイから成田で2ヶ。男物をまたもらっても仕方ないので、ドバイから成田行きのとき「お土産にするので女性用を」と言ったら、女性用と男性用もと、2ヶくれた。だから女性用4ヶ、男性用3ヶも集まってしまった。これもまた娘たちへのお土産となる。

      
     写真左・サースフェーの景色          写真右・山登りの標識
 

7月31日 奥島総長のお別れ式

奥島総長は我々の代よりかなり後の早稲田大学の総長だったので、まったく知らなかった。しかし、高校野球連盟の会長として、夏の甲子園でのスピーチや法科大学院創設のときの委員長などで新聞、放送にひんぱんに出ていたので、早稲田の総長としてはいちばんの有名人だった。社会経験のある人に法曹会に出てほしいという目的の法科大学院だったので、奥島総長は率先して早稲田は社会人の枠を広げた。しかし皮肉にも、司法試験合格者の落ち込みという経過になり、今は学生主体に戻っている。理想と現実は乖離するものだ。
お別れ会の後半に献奏があり、早稲田交響楽団演奏で「紺碧の空」と「校歌」を参列者全員で歌った。さすがにおなじみの右手を上げて歌うポーズはとらず、静かな合唱となった。献花のとき、交響楽団は「早稲田の栄光」を演奏し続けたが、この曲の静かなメロディは葬式向きだなと思った。

          
    写真左・奥島先生を送る会     写真右・参列者全員で「紺碧の空」献奏
 

7月23日 とうふやうかい

上の娘・穂梓が運転免許更新で韓国から帰ってきている。韓国で結婚しているが、国籍は日本のままなので、免許更新は日本でやらねばならない。それが終った今日、お別れパーティも兼ねて、「とうふやうかい」に夕飯を食べに来た。娘は獺祭スパーリングなどという高い日本酒、私はいつもの生ビール、妻はジュースで乾杯!ソウルはまだ梅雨が明けてなく、雨が続いているという。
旦那のジェフンは飼い犬ミントを毎朝、犬保育園へ預け、夕方引き取りに行くという生活だそうだ。前のミンキーが死んだときは、毎日泣いていたという見かけによらず優しい旦那である。娘の今回の帰国は免許更新だけでなく、マイナンバーカード取得申請もあった。最近、身分確認が厳しくなり、免許証やパスポートだけでは足りない場合もあり、マイナンバーの必要性を感じたという。日野市役所で申請し、交付はソウルの日本大使館となるようだ。いろいろと複雑な国際情勢になっているので、外国での生活は面倒なことを要求されるようである。来年のゴールデンウイーク、私たちの金婚式を祝って、下の娘家族も入れて小田一家で済州島で楽しもうと約束して、帰っていった。

      
     写真左・とうふやうかい        写真右・娘も久しぶりの帰国

 

7月21日 初めての阿波踊り練習参加

中々連の高円寺阿波踊り参加は8月25日。その練習が7月7日から始まっているが、スイスへ行ったりしていて、今日が初参加日。昨年までの池袋要町の大明から中野の区民センターに変わった。中野駅から15分ほど歩いて着いた。体育館のような広いスペース、ゆったり練習できる。
男踊りと女踊りに分かれて練習開始、女の人は今日は浴衣の着付けがメインのようで、別室に移って出てこない。男踊りだけで何度も広い体育館を廻って踊る。制限時間30分前くらいになって、女踊りが合流して、全体練習。一度は辞退していた提灯持ちを今年もやることになったので、私を先頭に本番さながらの流し踊りの練習をまじめに、30分みっちりやった。終った後は中野のアーケード街の魚民に移って飲み会だ。これが楽しみで阿波踊りの練習に来てるのだ。「お酒は中々...♪」の掛け声とともに飲む生ビールは格別だ。

      
   写真左・中野区新井区民センター        写真右・阿波踊り練習風景
 

7月19日 「青い月のメンフィス」能・大隈講堂

外人による能舞台、それも「青い月のメンフィス」とエルビスプレスリーが主役の能なのだ。妻は行かねばならない。なぜか大隈講堂でだ。なぜ早稲田がからむのか?行ってわかったことだが、主催は柳井イニシティブ、ユニクロの柳井正さんの社会貢献団体。特に早稲田がらみが多い。村上春樹記念図書館や中野国際寮などへも支援している。早稲田卒の柳井さんの団体だから、早稲田がらみになるのだ。大隈大講堂を満員にしての能、観客は女性が多い。
翻訳ソフトで立て看板に日本語訳が出る。エルビスが亡くなって、彼を慕う女性がメンフィスの墓に集まり、その霊に何千枚ものパンティを捧げ、その回収に警備員が必死になるなどと笑いを誘う場面もあって、意外と面白い。妻は私がいびきをかくのではないかと心配していたが、無用だった。隣の席の若い女性はほとんどの時間、口を開けて寝ていた。

      
  写真左・能の前に行った演劇博物館     写真右・青い月のメンフィス能舞台
      ・越路吹雪衣裳展
 

7月18日 港の見える丘公園での庄野潤三展

庄野潤三さんは、私の働いていた時代に知り合った今村さんの奥さんのお父さん。「私の好きな作家です」と言って紹介してもらった。何度か蓼科の山荘にも来てもらった。横浜のみなとの見える丘公園にある文学館で個展があるというので、妻と出かけて行った。元町中華街駅から外人墓地の横を上がり、みなとの見える丘公園に入ると、大佛次郎文学館の隣にあった。
大きな看板が出ていた。中に入ると、展示コースに庄野文学の紹介だけでなく、庄野家ファミリーの生田の山の家での暮らしぶりや家族の写真など、盛りだくさんだった。家の模型まであった。昨年行った石神井公園の庄野潤三展より盛りだくさんの展示だった。帰宅後、今村さんにメールを送ったら、これまでで最大規模の展示会で観客もいっぱい来て、夏子さんはホッとしていると書いてあった。神奈川県に在住した文学者として文学館は張り切ったのだろう。生まれは徳島県で、大好きなかきまぜ寿司のメニューが館内のカフェにあったので注文したが、ランチタイムだけとのことで食べられなかったのは残念だった。

      
    写真左・庄野潤三展の前で       写真右・「日本初のワルツ」の碑
 

7月13日 恒例・蓼科広島焼きパーティ

スイスから帰ってきて一日おいて11日に蓼科に入った。毎年恒例の海の日三連休の広島焼きパーティのためだ。奥志賀に集まる極楽スキー仲間のパーティだが、今年は14人と大所帯だ。広島焼きの買い出し、前日夕方来る人の夕食、14人分の寝具準備と超多忙になるのに、11日の蓼科へのドライブでは時差ボケがあるのか、途中で3時間も寝てしまい、夕方遅くの蓼科入りになってしまい、何もできなかった。そのため、翌12日にすべての準備が集中してしまい、朝6時から寝具の準備を始めなければならなかった。それが終ったのが12時過ぎ、すぐに買い出しだ。今日の夕飯と明日の広島焼きの食材、やっと終わって山荘に戻ったのが4時過ぎ、もう早着組は来ていた。
みんなに温泉に行ってもらい、私は昼飯がわりのアンパンをかじりながら夕食の準備だ。鴨焼きなので、ネギとマイタケを切って、そばつゆを用意すればよいので、比較的簡単。待っていた鴨肉も私が留守の間に届いていた。渡辺製麺のそばつゆボトル2本をドボドボと鍋に流し込み、あごだしつゆを足して、日本酒を入れ、温めればタレ完了。これに大根おろしを入れる。鴨肉はまるく小切れにしたネギをとキノコを鉄板に敷き詰め、その上に鴨肉を並べ、ふたをして蒸し焼きにする。ほどよく焼けたところで、そばつゆタレに浸けて食べる。簡単だが絶品の味になる。みんなおいしいと喜ぶ。最近の山荘の定番になってきている。

      
       写真左・諏訪高島城         写真右・集まった車は外車ばかり
 

遅着組が9時過ぎから続々と到着し、そのたびに宴会が再開される。これだから二日酔いになってしまうのだ。
翌朝、予想に反して良い天気だ。雨と踏んでいたので諏訪の高島城見物くらいしか考えていなかった。晴れたので少しはトレッキングしたいという人もいて、城組と山組に分かれた。
私は行ったことないが、高島城案内人となり諏訪へ。諏訪市内へ入り、市役所へ来たらすぐその傍にあった。今は高島城公園になっていて、そこに再建された天守閣がある。コンクリート造りなので内部は殺風景だが、外からは立派な天守閣だ。殺風景な内部も城の歴史の説明板や武者兜などで覆われていて、天守閣からの眺めもなかなか壮大である。元々は諏訪湖の畔に建てられていたので、三の丸の門からは船に乗れたそうだ。今はかなり埋め立てられて住宅街が広がっている。
下諏訪でウナギを食べて山荘に帰ってきた。夜7時過ぎからの広島焼き、最初の一枚を頂いた。
相変わらずというか、これまで以上の味と厚さで感動する。溝上さんの腕は完全なプロである。広島焼きパーティのフィナーレは、今年還暦を迎えた女性二人へのお祝いケーキだ。私が到着した日に予約していたヌーベル梅林堂へ夕方取りに行ったものだ。これが甘め控え目で思ったよりおいしいのだ。8月に来る孫の早目の誕生祝にも頼もうと思った。

      
   写真左・広島焼き開始前のテーブル   写真右・還暦を迎えた二人のお祝いケーキ

 

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6 月

6月30日  2024/6/22〜30 久しぶりの海外旅行(スイス) 前半
 「スイスを選んだ理由」

スイスは、我々登山愛好者にとってあこがれの国である。若い時は有名すぎるこの国を敬遠してオーストリアやイタリアのアルプスに行くことが多かった。それで氷河急行など山岳鉄道に乗ってみたいのに実現していない。齢八十になった今、そんなに海外へも行けなくなってくる。
それで悔いを残したくないと思い、思い切って少し豪華なアルプス紀行にすることにした。
スイスだけで18日間の旅である。氷河急行はもとよりベルニナ急行にも乗り、アルプスの山岳美を堪能したい。スキーの隠れたる名所ザースフェーにも行って、アルプス山麓を歩きたい。
こんな思いからコロナ直前のスキー旅行以来、4年ぶりの海外旅行に妻とともに成田を出発した。

      
     写真左・マッターホルン      写真右・グレイシャー・エクスプレス
 

6月22日 「さあ出発」

エミレーツ航空の成田発は夜の10時半、成田への聖蹟桜ヶ丘からのバスが運休で、久しぶりに新宿から成田エクスプレスに乗った。初めて第2ターミナルからのフライトだ。
エミレーツ航空は中東UAEの国営航空会社。ガソリンコストはほとんどゼロなのか、A380という大型ジャンボ機をいっぱい持って世界中にネットワークを貼っている。成田からは毎日一便飛んでいる。
ドバイ経由のチューリッヒ行きを選んだ。金持ち国でまだ有名でないせいか、ビジネスクラスでもヨーロッパの会社よりも割安だ。また一日一便しかないのに専用ラウンジまで持っている。
シャンパンはモエという豪華さだ。そのラウンジで約2時間、いろいろな料理、飲物を選んだ。
残念なのは生ビールがないことだ。機内に入るとフルフラットの個室のような席、水、コーラなどが置いてある。アメニティグッズもブルガリのクリームなどが入っていて、豪華。
深夜発ということからか、ディナーはなく寿司やカレーが選べる軽食だ。朝食がこの便では本番のようだ。寿司を頼んで、アサヒビールを飲んでベッドに横になった。

      
 写真左・ ドバイ空港のビジネスラウンジから    写真右・ドバイ空港の様子

 

6月23日 サンモリッツへ到着

ドバイのターミナルは巨大。到着してから電車でしばらく乗りターミナルCに移動、ここも巨大だ。
ビジネスラウンジも成田に比べて混んでいる。朝8時近くなったら満席状態になった。乗り換え便はチューリッヒ行きだが、これもA380のジャンボ機でほぼ満席。もう日本語が通じるアテンダントはいない。
チューリッヒ空港もこのジャンボ機専用の駐機場らしい。2階建てに飛行機なので、2階と1階に分けて通路を設けている。ビジネスとファーストクラスは2階なのだ。
チューリッヒ中央駅に電車で移動し、サンモリッツ行きの特急に乗った。事前にスイス鉄道半額切符を買っていたが、それを有効にするには窓口で許可をもらわなければいけないと言われていて、その窓口を探すのにひと苦労。チューリッヒ中央駅は巨大でえらい時間をかけて探しあてたが、切符を見て、これでOKと拍子抜け。
スイスはまだまだ鉄道が中心らしく、特急もひんぱんに走っている。サンモリッツ方面へ電車に乗るのは初めて。しばらく湖沿いだったが、だんだん山間地帯になり緑の牧場が美しい。
サンモリッツに近づくにつれベルニナアルプスの雪山が迫り、緑の牧場ときれいな家々の景色がまさに絵葉書だ。スイスはどこへ行っても美しいことを実感する。
サンモリッツ駅からタクシーに乗り、夕方7時過ぎにホテルシュバイツァーホフに着いた。
湖が見える4階のきれいな部屋だ。東京を出て24時間以上かかって着いた。疲れた。

      
  写真左・ホテルベランダからの風景     写真右・サンモリッツへの車窓から
 

6月24日 ピッツネイルへ

今日はサンモリッツでの休養日。24時間のフライト・列車はきつかった。シャワーを浴びて横になった途端、寝入ってしまった。疲れていたのだろう。これで時差ボケ回復するだろう。
サンモリッツの町の上に聳えるピッツネイルへケーブルカー、ゴンドラの乗り継ぎで行ってみた。
標高3057M,槍ヶ岳より少し低い所までゴンドラで上がっていく。ケーブルからゴンドラに切り替わるColviglaから上部が、広い斜面になっていて、スキーに最適な傾斜が続いていて、リフトもいっぱいかかっている。ここで滑って、サンモリッツの街へはケーブルカーで帰るというのが、冬の光景のようだ。リフトのメンテナンスや増設工事などで大忙しのようだ。周囲は3000m級のベルニナアルプスに囲まれて絶景である。
サンモリッツは古いスキー場の町、越後湯沢と思っていたが、予想以上のアルプスに囲まれ、湖に面したすばらしい所と初めて知った。スイスはどこへ行ってもきれいな景色に事欠かない国である。観光が主産業なので客へのもてなしがすばらしい。交通パスをもらいゴンドラもケーブルカーもタダ、町を走るバスもタダだ。

      
   写真左・ピッツネイルの展望台   写真右・サンモリッツの上はすばらしい景色
 

6月25日 ベルニナ急行でイタリアへ

ベルニナ急行に乗り、アルプスの東端のベルニナ山塊を走った。スイスからイタリアに通じる山岳鉄道で、標高2000m地帯を走る。サンモリッツ駅を出るとすぐ、上りにかかり、ほどなく雪まとう山岳地帯に入り、ベルニナアルプスと湖の美しい景色が広がる。最高地点のオスピツイオ・ベルニアからアルプ・グリュムにかけてはことの他、美しい。
アルプ・グリュムからイタリアに向かって、どんどん下る。眼下にこれから行く村々の美しい家並みが見え、ループ状の線路を360度曲がっていくと、さきほど見えていた村に入っていく。どこで国境を越えたかわからないうちにイタリアの終着駅ティラーノに着いた。約2時間半の行程だ。

      
     写真左・ベルニナ急行        写真右・ティラノ駅の日本語看板
 

6月26日 セガンティーニ美術館

今日は休養を兼ねた日だ。幸いというか天候が雨模様の曇り。シャンパン気候というサンモリッツのさわやさが外れた日となった。そこで高台の町のホテルから脇道を下って、サンモリッツ湖畔へショートハイキング。道脇の斜面に咲く、すばらしい花々に妻は感激。とげのないアザミのような紫の花々や、ピンクや黄色の小さな花々が咲き乱れている。湖畔に出ると、ヨットハーバーに集まっている人たちの姿を見ながら、駅方面へ歩く。こんなすばらしい所で夏をすごすのは幸せなんだろうな。駅からバスに乗って、エンガディン博物館に行くことにした。近くのバス停から歩くこと数分、やっと着いたと思ったら今日は休館の看板が。案内書では月曜日なのにな?
  

そこでセガンティーニ美術館に変更。同じバス停から急な坂道を上っていく。妻は音を上げているが仕方ない。たどり着いたら開館は11時からと。今はまだ10時15分、向こうに見えるホテルに戻ってまた来るかと言ったらもう歩きたくないというので待つこと45分ようやく開館した。
日本語も入っている解説機を借りて、セガンティー二の絵画を鑑賞。3階の吹き抜けのような広く明るい天井の間には彼の三部作といわれる「生」「自然」「死」の大作の大きな三枚の絵に感動した。
特に「生」の働く農民や遊ぶ子供たちの背後に並ぶアルプスの暮れ行く山並みが美しい。乗り気でなかった妻も「こんなすてきな絵が...」と喜んでいる。この地に生き、若くして死んだセガンティーニはすばらしい故郷の絵を残してくれた。解説機の説明の効果もあいまってすてきな美術鑑賞の日になった。

      
   写真左・サンモリッツ湖畔を歩く      写真右・セガンティーニ美術館
 

6月27日 あこがれの氷河急行

いよいよ今回の旅の本命、サンモリッツからツェルマットまでの約8時間のグレーシャー・エクスプレス(氷河急行)に乗る日だ。このために今回の旅を企画し、サンモリッツまで来たのだ。
ツェルマットからも氷河急行は出ているのだが、やはりサンモリッツ始発、ツェルマット終点で走るのが王道と考えわざわざサンモリッツまで来た。そしてエクセレンスという特一等のクラスにした。
一車両、20席しかない二人向かい合わせのゆったりした席である。飛行機のファーストクラスと同様、スタートはシャンパンで始まる。フルコースの食事付きである。サンモリッツを出てしばらく行くと、ランドヴァッサー橋という石作りの川床から65mの高さの橋を渡る。その高度感が乗っていてもわかり恐怖感が湧く。

      
  
   写真左・氷河急行の前で       写真右・エクセレンスクラスの車内
 

クールからどんどんと高度を上げ、ディゼンティスで、ラックレール対応の機関車に交換し、高度を上げていく。周りの山はまだ雪をまとい、線路際まで残雪がある所を走る。高度を下げるにつれ、周りは緑したたる牧場の草原が広がり、その中に小さな村々が点在する。まさに絵のような景色だ。
これを見たかったのだ。岡本敦郎の「高原列車」や「憧れの郵便馬車」のメロディが駆け巡る。青春もとうに過ぎた、八十翁も心は青春だ。すばらしい汽車の旅である。残念なことに、先ごろの大雨でブリーグからツェルマットの区間が不通になっていて、氷河急行はブリーグで終わってしまった。残りの区間はバスで代替え、ガソリン車はツェルマットに入れないので、ティーシュで再び電車に乗り換えるという不便さがあった。それでもツェルマットまで来たので「よし」とするか。

      
    写真左・車窓に広がる牧場と村々     写真右・すれ違い交換のひとときに
 

6月28日 輝くマッターホルン

明るく晴れた空にそびゆるマッターホルン。まさに絵になる風景だ。今日はそんな日であった。青空にくっきりと屹立するマッターホルン。4度目の地だが、こんなにきれいに見えるのは初めてかもしれない。ありきたりの光景だが、それでも美しい。スネガからがいちばん形がすっきりして美しいという。今日、総トンネルのケーブルカーで上ってみてわかった。もっと上からと欲張ってロートホルンエへ行こうとしたら、明日からで残念。
スネガから下るときに間違えたようで、マウンテンバイクのコースとダブる道に入ってしまった。ツェルマットの矢印があるので入ったら、スキーゲレンデの中のマウンテンバイクの道だった。途中からゲレンデを直に下ったが、妻はきついし、マウンテンバイクが来たらこわいと文句タラタラ、入ってしまったものは仕方ない。フィンデレンの村には寄らず、直接ツェルマットの町に下りてきてしまった。町に近くなってから、たくさんの街の家並の上にそびゆるマッターホルンの姿は、また格別であった。午前中はほとんど下りぱなしだったので足のつま先が痛くなった。途中でハンバーガー買い、ビールで乾杯して今日の半日仕事は終った。

      
  
   写真左・街への下り道から    写真右・山の上で見た三菱とトヨタの車
 

6月29日 ショートハイキング

最近できたグレイシャー・パラダイスというゴンドラに乗って、3800mを超すイタリアとの国境まで上がってみようと思って乗り場に行ったが、「今日は強風で運行中止」という。シュワルツゼーまでと思ったがそこへも運行中止、動いているゴンドラに乗って少し上り、そこからツェルマットまで歩いて下りてくることにした。
道は快適な山道で、妻は昨日とはうって変わってご機嫌。マウンテンバイクが来ないのがうれしいらしい。マツムシソウも咲いていて色とりどりの山道で、花の写真を撮るのに一生懸命だ。
途中の小さな村の屋外のテラスで食べたアイスクリームに喜ぶ。古い農家の家屋をそのままにレストランにしていて、通り道のテラスからはマッターホルンの頭が少し見える。気分のよいテラスでたっぷり時間をつぶし、ツェルマットの村まで下りて来た。歩いた正味の時間は1時間半くらいだが、快適な気持ちのよいショートハイキングとなった。ツェルマットは午後から雨になった。

      
写真左・ハイキング途中の気持ちの良い村 写真右・村のレストランテラスのアイスクリーム
 

6月20日 出発前のあわただしさ

スイスへ出発の3日前なのに慌ただしい。成田行きのバスが運休中なので電車で行かねばならない。そこでトランクを空港まで送ることにした。土曜の夜出発なのに集荷は木曜とあって、慌ててスニーカーをパッキングをした。あと3日間はわらじサンダルでしのごう。
床屋へ行って、散髪。ATMで現金引き出し、郵便局で配達中止依頼、新聞、グロコサミン配達ストップとやることが多い。妻は植木の植え替えや水補給など、庭仕事もある。「帰ってきたら、みんな枯れているのだろうな」と心配する。娘がいたときは「あとはお願い」ですべて済んだのに、二人だけになってみると、旅立つ前の忙しさは倍増した。

      
      写真左・パッキング終了         写真右・集荷トラックを待つ
 

6月15日 やっと勝った早稲田

全日本大学野球選手権大会が神宮球場で行われている。準決勝まで来た早稲田の応援に行った。相手は東日本国際大学という聞いたこともない大学だ。福島県いわき市にある大学で、福島県界隈の大学リーグ戦で優勝して出て来た大学だ。楽勝と思いきや最初から苦労する。5回にエース伊藤が打たれ2点献上。次の回に、早稲田の眠れる主砲・吉納が起死回生のスリーランを放って逆転。その後またもや1点とられ、延長戦に入った。タイブレークの10回表、吉納の犠飛で1点とったがこれでは不十分。しかし、その裏、東日本国際大のボーンヘッドでゼロ点で、試合終了。4−3の辛勝であった。相手の2度もあった凡ミスに助けられた試合だった。10回は、1アウトで、ヒット性の打撃で飛び出した2塁ランナーがライトフライで帰塁できずスリーアウト。8回にも2塁ランナーが、平凡な外野フライなのに走り出し3塁も回ってしまった。2アウトと勘違いしていたようだ。このあたりが、田舎のチームと都会のチームの差なのか?
翌日、早稲田は決勝に進んだが青山学院大学に2−1で敗れ、優勝を逃した。でも決勝まで行ったので「よし」とするか。

      
  写真左・延長十回のスコアボード          写真右・試合終了
 

6月13日 今年もヒナは育ったようだ

5月の20日頃に来た時は、小さなヒナが数羽うずくまっていた郵便ポストの中も、今回来たときは、すべて巣立ち、もぬけの殻になっていた。毎年、5月の末から6月の初め頃が巣立ちの季節のようだ。ポストが絶好の巣になるようだ。4月末頃から木の枝や草をせっせと親鳥がポストに運び込み、巣作りをする。そしてポストの中の半分くらいを枝や草で覆った頃、卵を数個生み落とし、親鳥が暖め孵化すると、エサを頻繁に運んで食わせ育てる。
動けるようになると、ポストの差し入れ口から一羽、一羽、不安そうに飛び出していく。そして巣はカラになる。しばらく名残を惜しんで残しておくが、夏も近づいた頃、ポストから枝葉の塊を取り除き、正常の郵便ポストに戻す。毎年、この季節の風物詩になった山荘の光景である。

      
    写真左・巣立つ前のポスト        写真右・巣立ったあとのポスト

 

6月11日 夏前の別荘地

冬が過ぎ、短い春も終わり、6月に入ると夏の準備である。別荘地の中も、別荘の修理や土木工事の車でにぎわう。しらかば4号線沿いの奥の別荘地の急斜面に、沢が流れていて、雨の後は、沢からはみ出し、周りの草地も沢になっていた。そこを改修している土木工事を散歩の途中で見かけた。起重機で沢の流れの中に大きな石を積み重ね、水が石の間を流れていくように調整していた。直線的ではなく、曲がりくねって流れ落ちるようにしていた。それで水流も弱まるようだ。こんな風にして別荘地を守っている。4号線、どんづまりの別荘越しに見える、阿弥陀、赤岳の夕映えも美しかった。徐々に増えてくる別荘の車、夏の住民の来訪だ。にぎやかになってくる。

      
    写真左・夏に向けて工事中      写真右・豪華別荘の庭越しの八ヶ岳
 

6月9日 カントリーミュージックは楽しい

日野稲門会の総会&懇親会の日、今回は忘れないよう、あちこちに印ておいたので、定刻通りに会場へ到着。総会の後の演目がよかった。いつもの映画ではなく、カントリーミュージック、アメリカ民謡研究会というサークルが早稲田にあった。私はその名前を記憶している。卒業してからすぐ、無くなったらしい。その時代に早稲田の学生だったメンバーが、演奏を披露してくれた。長老が私と同じ80歳、他のメンバーも75歳過ぎ。全員、後期高齢者だが「グリーングラス オブ ホーム」に始まり、「リリース ミー」「カントリ ロード」とカントリーミュージックの名曲が続く、後期高齢者とは思えない、ダイナミックな演奏と歌唱で楽しませてくれる。「ジャンバラヤ」で盛り上がった。
「ジャンバラヤ」の歌詞は、フランス語と英語の混じり合ったスラングで何を言っているのか、わからない内容なのだとか。道理で。私が大学時代に活躍していたサークルらしい。みんな同世代で、元気に今も活動しているのはうれしいものだ。「他の稲門会にも呼んでほしい」と宣伝しながらフィナーレとなった。こんなアトラクションなら、忘れずに出かけるだろう。

      
   写真左・カントリーミュージック       写真右・日野稲門会の長老
 

6月3日 昭和32年卒 塩野町小学校同級会

今を去ること67年前、私たちは塩野町小学校を卒業した。今はもう無い。同級生たちも80代になった。元気でいる仲間も少なくなった。毎年のようにやっていた同級会も参加者がだんだん減ってきた。10年前くらいには、湯田中温泉でやったこともある。そのときは20名以上集まったが、今回の越後湯沢での会には11名だけだった。女性8名、男性3名。元気な女性に比べて男性は勢いがない。それでもやせ我慢で、宴会もカラオケもがんばった。また来年もやろうと、2025年11月26日・月岡温泉、幹事は新潟市在住の人と決めた。「文十郎君」にはがんばってほしい。

      
   写真左・川端康成「雪国」の間          写真右・同級生一同
 

6月2日 花の木ママさんの墓参り

八柱霊園は、千葉県松戸市にあるのに東京都の霊園だ。わが家から1時間半もかかる。
ここに花の木のママさんが眠っている。店で、阿波踊りでお世話になった人10名余が集まって墓参り。88歳の水上さんも武藤先生の車で来られた。ママさんも一緒に予約した老人ホームに入っておられる。ママさんは入り損ねて先だってしまった。生前、水上さんはママさんの店に老人ホームから抜け出して時々通っていた。帰りはいつも門限を過ぎていた。最初はうるさかった管理人も、そのうち黙認するようになったという。そんなみんなに愛されたママさんを慕った人たちが集まってのお墓参りとそのあとの飲み会は、古きよき昭和の香りがたっぷりする宴会となった。

 

6月1日 優勝かかった早慶戦

ここまでの早稲田は勝ち点4と負け知らず、この早慶戦で勝ち点(2勝)を上げると、完全優勝となる。その重要な第一戦を慶応卒のYさんと見に行った。昨秋の早慶戦にも一緒に行った。そのときは慶応応援席に入ったが、「落ち着いて試合が見れない」と言うので、今日は内野席にした。
バックネット裏から10段目くらいの通路側の良い席、バッターボックスが良く見える。
斜め5席前くらいに大きな人が座った。よく見ると清原だ。息子の清原正吾の応援に来たらしい。試合前の打撃練習で息子が近くにいるので、手を上げ呼ぶが気がつかない。立ち上がって何度か繰り返しているうちに、気がついてくれてグランドから手を振って、親爺の応援に答えていた。うれしかったのだろう、親父も大きく手を振った。
機嫌がよかったのか、その足で一塁側の早稲田ベンチが覗ける観客席の隅に行き、何か早稲田ベンチに声をかけた。すると小宮山監督が出て来て清原に挨拶、双方現役時代には対戦した好敵手同士だったのだろう。
こんななごやかな雰囲気の中で試合開始。早稲田はエース伊藤が慶応打線をきっちり押さえ、早稲田は5回に吉納のソロホームラン、6回にはまたもや吉納がこんどはスリーランを放って、着実に加点。慶応卒のYさんは、「帰りたい」と言いだす。終わってみれば、8−1の早稲田の完勝。応援席に「紺碧の空」が大きくこだました。(翌日も行きたかったのだが、墓参りで叶わず、帰りの電車で携帯のニュースを見たら、12−2の大勝で早稲田が7シーズンぶりの優勝だった)

      
    写真左・早稲田の応援チアガール        写真右・早稲田優勝!!

 

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5 月

5月31日 海外、思い出のドライブ旅 ・番外編
 「トロワバレー 」 2011年

極楽スキーの海外もエッツェタール、ヴァルジゼール、ドロミテ二回、レッヒと続き、集大成版とも言うべきトロワバレーに行くことになった。ツェルマットやユングフラウなど、日本人に人気のある所は避けて、一般的には”知っている人は知っている”通のスキーエリアを選んできた。旅行社に頼らず、コンドミニアムの手配から空港からのタクシーなど、すべて自分で手配してきた。
”空港までは自分の足で来てください” 現地集合/解散に近いやり方でやってきた。それぞれが楽しくもあり、ハプニングもあり、思い出に残るスキー旅行だった。今回はどんな日々が待ち受けていることやら。私個人はさらに1週間延ばして、”通の中の通のスキーエリア・ベルビエ(Verbier)” にも行くことにした(このスキー紀行は次号)。

      
  写真左・朝のトロワバレーのゴンドラ   写真右・トロワバレー周遊の途中で
 

トロワバレーは世界最大のスキー場と言われている。フランスにある。ジュネーブから車で2時間強。荻原を中心とする複合団体チームが金メダルをとったアールベルグオリンピックはこの地を中心に開催された。数年前に行ったバルジゼールへの道を途中から分かれる。トロワはフランス語で”3つ”、文字通り三つの谷間またがるスキー場だ。
この中でも、世界のセレブが集まるというスキーリゾートとして名高いクールシュベルに宿をとった。さすがに最も高級なクールシュベル1850は高すぎるので、200m標高の低いクールシュベル1650の12人用アパートメントを半年前に予約した。2月後半はヨーロッパの冬のバカンスシーズンにあたり、とても混む。女性6人、男性3人が2月19日の夕方7時過ぎにジュネーブ空港に集まった。今回はルフトハンザ、スイス航空、KLM、SASと来方も様々だった。
 

さあ出発というときに、仲間のひとりが「カバンがない」と言う。スーツケースの上に置いて、仲間と雑談している隙に盗られたらしい。中にはノートパソコンや財布が入っていると言う。パスポートやクレジットカードは身につけていたのがせめてもの幸いだった。空港警察への届けに手間取り、出発したのは夜9時半過ぎになってしまった。
運転手のフレデリックは飛ばしに飛ばし、2時間弱でクールシュベルに着いた。彼は警察とのやりとりを親身に手伝ってくれ、明るい性格が沈みがちになる我々にとって励ましになった。お礼も兼ね、チップを50ユーロもはずんだ。

      
 写真左・三つの谷間にまたがるトロワバレー  写真右・朝日きらめくトロワバレー
 

 「クールシュベルからメリベルへ」

日本は大雪というのに、平均標高2000mもあるトロワバレーは雪が少ない。ここ1ヶ月降ってないという。アパートの周りは草地が見えるほどだ。今年の寒さは、アメリカや日本に片寄ったらしい。夜中に着いた時からチラチラしていたが、朝には本降りになっていた。
初日はクールシュベルエリアで足慣しをして、お昼をスキー場内のレストランでワインを飲みながらゆっくりとった。それでその日は終わりとなった。一日遅れで着いた太田さんを含めて9人で二日目はひとつ先の谷間Meribel motaretta向かった。昼食はマウントVallonの下のレストラン。
午後上がったマウントVallonは、中腹から上はガスっていて雪の状態がわからず、どう滑っているのか安定しない。かなり急な斜面らしいが”霧中模索”で、足はフラフラし、膝は曲がらず、延々と続くスロープにすこぶる手こずった。かなり自信をなくした。それでも夕方の帰り道の頃から青空が広がり、Mouflonのスロープで雪面が見えてからは調子が戻った。クールシュベル1650のゲレンデに滑り込んで、夕日を浴びながら、バンショウ(ホットワイン)で一日の苦労に乾杯した。夜はサボアワインで、ラクレットやフォンデューのチーズたっぷり料理を楽しんだ。

      
 写真左・ 雪の中のマウントVallonのレストラン   写真右・晴れていると最高!
 

 「バルトランスへ」

雪の合間に晴れ間も覗くという微妙な天気だが、行ける所まで行ってみようと出かけた。上はガスっているが下に滑べるに従い、見通しが良い状態の午前中だった。SaulireからMeribel motarettaへの急斜面も二回目ともなると余裕を持って滑れた。最奥、最高地のVal Thorens(バルトランス)は標高2300m、横手山に村がある感じだ。スキー場のリフトが多すぎて乗るべきリフトを探すのに苦労する。Cime Caronのゴンドラに乗った。この時まではさらに先の標高3400mを目指すつもりでいたが雪が本降りになってきたし、Cime Caronの先のルートは黒マーク(Verydifficult)であることを知ったりで、頂上の山小屋で昼食をとって引き返すことにした。
10年前以上に来たことのある向井さんのコース案内図では、ここCime Caronがその当時の最高地点だった(3200m)。帰りのMeribelへ上がるPlein Sudの交互に1台ずつ乗り場の違うリフトで、同時にそれぞれに乗ろうとした前澤さんはバーに引っかかり、真壁さんはどうしたことか転がり、リフトをしばらく停めてしまった。係員は大慌てで二人を助けていたが、”今日はジャポネが二人が…”と笑い話になっていたのではないだろうか?夜はその話もつまみに、太田さん特製のカレーライスパーティと相成った。ご飯はまずまずの出来だった。”始めチョロチョロ、中ぱパッパ”ではなく、”始めも中もチョロチョロで、時々フタ開けかき回せ”で炊くのがコツだということが長年の海外旅行で分かった。

      
   写真左・バルトランスのゲレンデで      写真右・洒落たゴンドラ
 

 「最高地点3400mは遠かった」

週の中日は休養日、窓から見える山にも雲がかかっているしと、朝食のとき”休養宣言”。その直後から、雲が急速に取れ青空が広がってきた。急遽”出発宣言”に変更。みんな慌てたと思う。その結果、10時過ぎに出かけることになった。この作戦変更が後々まで尾を引いてしまった。
目的はトロワバレーの最高地点Point Bouchet3420m。バルトランスまでは昨日通ったルート、青空の中、新雪がアイスバーンを覆ってくれ、見通しは申し分なしで快調に飛ばせる。晴れるとこんなにも気分も違うものか。バルトランスからGrand Fondの長いリフトでCol de Rosaelへ。
ここで、♪山のロザリア〜♪の歌が出てくるのは何故だろうか?Telecordeから二つリフトを乗り継いで3420mに到着した。晴れてはいるものの風が冷たい。このとき午後1時半。

  

Meribel Mottaretからのリフト4時45分の最終時刻に何とか間にあうと思った。みな”お腹が空いた”の合唱でバルトランスのゲレンデの中のレストランで急いで昼食、このとき2時半、料理が出てきたのが3時過ぎ、かき込むように食べてもらい3時半には出発。まだ1時間以上あるので、何とかなるのではという期待はPlein Sudリフトとゴンドラ3連結のBouquetinの長蛇の列で万事休すことになった。久しぶりの晴天でみんな出てきたらしい。Meribel MottaretのPasu du lacのクールシュベルへの上りリフトは閉鎖の柵を張っていた。
インフォメーションセンターでタクシーを二台手配してもらい、La Tania,クールシュベル1300、1550経由で帰ってきた。タクシー、〆て120Euro。Point Bouchet3420mは、はるかに高く遠かった。この夜は、ソバ・うどんパーティ。かもセイロの汁にしようと、鶏肉を使ったが、イマイチ味が出なかった。うどんの方が人気あったようだ。

      
   写真左・トロワバレーのゲレンデは広大   写真右・この時は余裕だったが...
 

 「雪が降り、ホッとひと息、休息日」

朝からシンシンと雪が降っていた。心置き無く休養できる。永瀬君一人だけは滑ると言う。好きだねー!クールシュベル1850へバスで出かけ、お土産三昧。高級店が並ぶリゾートだが、30万円のスキーウェアがあったと吉田さんは言っていた。買えばよかったのに。今晩行くレストランピエール・ガニエール(Pierre Gagnaire)が入っているホテルAirellesの隣のホテルにはルイ・ヴィトンが入っていた。ホテルAirellesは婚約前のウイリアム王子がカップルで何週間かスキーで滞在したホテル。ここで結婚への道が決まったのだろうか?ミシュラン三ッ星・ピエール・ガニエールは東京ANAインターコンチネンタルホテルにも店を出しているが、このクールシュベルにもあるのだ。
吉田さんと太田さんは、パリで予約がとれなかったことがあるので、是非行きたいと言う。そこで1月にアパートのマネージャを通じて予約を頼んだ。どう伝わったのか、4500ユーロのDepositが欲しいと言う。私は1週間のうちのいずれかひと晩と頼んだつもりなのに、”毎日9人で夕食”となったらしい。結果的にはDeposit不要となったが、キチンとした服装でが常識らしく、私はブレザーを新しく買ったほど。
 

みなきれいにめかしこんでタクシーを待つが、待てど暮らせど来ない。電話を入れてくれたフロントのオニイチャンは責任を感じて、自分の車で送ると言う。9人乗せるために後の座席を作ろうとするが、何か引っかかって席が開かない。他の人の応援も頼んで何とか開いた。
通りに出ると、クールシュベル1850からは長蛇の車の列。1650で花火大会があったせいで渋滞になった。これでタクシーは間に合わなかったと判明した。ピエール・ガニエールには緊張の面持ちで入った。出てくる料理が何か日本的。メインディッシュの他に2,3品、小皿で供される。日本料理の趣である。ダイコンやシメジなどの日本語も混じる。皿も日本的な柄模様。ピエール・ガニエールは日本食に惚れ込んでいたというから、その影響か?味付けは全般的に濃いめだった。お代は締めて2,336ユーロ。請求、みんな覚悟していてね!

      
  
   写真左・ Hotel Airelles    写真右・ディナーの前だったか、後だったか?
 

 「雪晴れて、暖かさ戻り、最終日」

トロワバレー最後の日、今日も良い天気になった。上部で残っているのはバルトランス地区にあるFunitel GlacierとThorens Glacier(氷河)。いずれもリフトで行ける氷河の上にあるスキー場だ。先日のリフト時間切れのこともあり、今日はできるだけ早く出かけたい。しかし9:15出発と言ったら、女性軍からブーイング。化粧の時間が足りないと言う(あまり変わり映えしないと思うが・・・)。ロスタイムをとって9時半にした。みなその時間にそろい出発!バルトランスまでは行き慣れた道、Funitelのいちばん上のリフトからのコースは今回初めての黒ラインのVery difficult,急斜面にギャップとアイスバーン。横滑りでかなり下まで下りてから、ようやく普通の滑りに。みなてこずったが何とかクリア。
 

隣のThorens Glacierへは尾根を横周りして移動する。リフトを二本乗り継いで、3130mまで上った。ここからはるか下の雪原の中に一軒だけ見える雰囲気の良さそうな山小屋で昼食をしようと一気に滑り下りた。しかしこの小屋の外のテーブルを12時過ぎにうまく押さえたと思ったら、しばらくして列に並んでから案内されるシステムと言われ、並ぶことにした。女性の大半は待っている間にトイレへ行った。ところが案内されるまでに30分近くかかることがわかり、帰りが心配になり、安心できる所まで移動することにした。女性のトイレはひとつしかなかったらしく、これまた時間がかかり1時間くらいロスしてしまった。それでもMenuiresまで下りて乗ったBruyeresのロープウェイで一気にChambreのコルへ。ここでやっと昼飯となった。Meribel motarettaのゴンドラには十分間に合う時間帯だ。
 

しかしMeribel motarettaのリフトは4時前というのにクールシュベルへ帰り道の客で渋滞。Saulireの頂上に上がったとき、クールシュベル1650頂上に上がるリフトの終了時間に間に合いそうもない様子。その下まで滑っていけばRoc Mugnierの連絡リフトは大丈夫そうだった。結果的にはその通りとなり、夕方5時過ぎクールシュベル1650のゴンドラ乗り場に全員無事に帰ってきた。
「一週間ご苦労さま!!」。夜は打上げの焼きそばパーティ。ジュネーブ空港でのカバン以外のトラブルなく、怪我もなかったことですべて良し。
♪人生は〜素敵なものですねエ〜♪、自然に口ずさみ、顔がほころぶ。

      
   写真左・ Very Difficultな斜面へ     写真右・ Chambreコルで最後のランチ
 

5月31日 岳文同期会

「集まれるときは、できるだけ集まろうよ」との希望から、昨年から定期的に岳文同期会をやっている。今日は、原宿駅に集合して、明治神宮に参拝し、そのあと新宿に移動して、ライオンビアホールでの宴会。朝方は台風1号の影響で雨が降っていたが、昼頃には上がって、歩くのに支障はなくなっていた。下見のときは入れなかった神殿にも行くことができた。
今回初めて知ったのは、有料の明治神宮御苑という一画があることだった。池があり、蓮の花がいっぱい咲いていた。菖蒲園もあり、色とりどりの菖蒲が咲いていた。一角には清正の井戸という泉があり、今でもコンコンと水が湧いていた。ここには 、江戸時代、加藤家の下屋敷があったそうだ。その名残りが泉なのだ。本殿でもろもろの頼みごとをして代々木口から外に出て、代々木駅からひと駅、電車に乗ってライオンへ行った。一万歩以上歩いたのでほどほどに疲れ、生ビールは格別にうまかった。今回の参加は7名、みな歳はとったものの何とか元気に生きていることを喜んだ。次は10月に先に亡くなった友のお墓へ行こうと約束して別れた。

      
     写真左・ 明治神宮本殿            写真右・菖蒲田
 

5月26日 YHPサポートOB・OGの集まり(ヒコ会)

YHPに勤めていたときの、サポート業務の仲間の集まりがあった。みんな歳をとったが、まだ現役で働いている者もいる。正午開始というので少し早めに西新宿のイタリアンに行った。12時を過ぎても誰も来ない。20分を過ぎた頃から集まってきた。「どうしたの?」と聞くと、12時半からだという。私へのメールは12時だった。他のメンバーはラインで連絡をとりあっているが、ガラ携の私は蚊帳の外。だからわざわざのEメールは間違ったのだ。それでもみんな来たので、まずは生ビールで乾杯!イタリアンで腹ごしらえした後は、ビックエコーでカラオケ、稲門会のカラオケと違って気兼ねない仲間なので、盛り上がる。昔の職場の仲間でこのように集まるのは、とても楽しい。

      
   写真左・トラットリア クアルト       写真右・集まった仲間たち
 

5月22日 生き残った花

最近の鹿の増え方は尋常ならざるものがある。別荘地のいたる所に出没し糞をまきちらかし、花はことごとく食べられてしまう。毒といわれる水仙の花だって、慣れてくるのだろうか食べてしま う。この春は何も咲かなかった。その鹿の総食いの中で、生き残った花が二種類ある。
ひとつは水芭蕉、山荘を作ったときに小さな池も作った。その水際に水芭蕉を植えてもらった。最初はこぶりだったが、今では大きく花びらを広げ、その中に小さく白い花を春先につける。雪が溶けて、一番先に咲く花だ。「全草にサポニン・アルカロイドを含んでおり、誤食すると嘔吐や下痢、ひどい場合には呼吸困難や心臓麻痺を引き起こす場合もあります。」と花図鑑に出ているので、鹿もわかっていて決して食べない。
もう一つはサクラソウだ。小さくて黄色やピンクの花をいっぱいつける。山荘ができてから飯山へ旅したときに、お寺の庭で手入れしているのを見て話しかけたら、好きなだけ株を持っていっていいよと言われ、数株もらってきて植えた。それが根付き、毎年4月になるときれいな花を咲かせる。しかしこの花もまた「馬、犬、猫には有毒なので、ペットには近づけないこと。」と出ている。いずれも鹿はわかっているのね。

      
      写真左・水芭蕉             写真右・サクラソウ
 

5月10日 妻の白内障手術

妻は大の手術嫌いだ。慶応病院で大腸のポリーブを取ってもらったときは、息遣いが急激に荒くなり、手術を中止寸前までいった。先生は「失神するのでは?」と思ったほど。白内障手術は眼球にメスを入れる。新たなレンズを入れるときは、チリチリと音がする。経験者の私も、「もう少し長かったら気絶していたかも」と思ったほど。そんな妻の白内障手術の日がやってきた。
私の恐怖は口に出さず、眼科へ同行した。待つこと30分あまり、右目に眼帯をして出て来た。落ち着いている。「そんなでもなかった」とこともなげに言う。肝が座ったものだと驚いた。
その夜、若干の頭痛はあったものの翌朝は回復していた。「テレビがよく見える」と喜ぶ。よかったね。
一週間後、左目を手術した。これはさらに頭痛もなく、さわやか。「蓼科に行ってもいいわよ」と笑顔。山菜採りのメンバーが昨日から滞在している。そそくさと、蓼科へ車を走らせた。「案ずるより産むがやすし」の白内障手術であった。
 

5月1日 ゆりかちゃん スシローと多摩動物園

わが家に来ていた初孫の「ゆりかちゃん」。歩き始めたのであちこち動き回り、フォローするのが大変だがかわいい。昨日は多摩動物園へ行った。最初にライオンバスに乗って、目の前のガラスいっぱいに近づくライオンの姿に驚き声も出ず凝視していた。いちばん気に入ったのはキリンのようだった。大きい親キリンと生まれたて間もない子キリンが並んで駆け回る姿に見入っていた。
そして今日はスシローで夕食。と言っても、まだ寿司は食べられない。卵焼きを少し、ポッキーのようなポテトフライをポリポリと食べていた。みんなで寿司をつまんで食べられる日が早く来るといいね。

      
   写真左・ライオンさん こわい        写真右・ポテト ぽりぽり
 

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4 月

4月30日 海外、思い出のドライブ旅 ・番外編
 「レッヒ・サンアントン」 2009年

今年の極楽スキー仲間の海外スキーはオーストリア・アールベルグ地方のレッヒ・サンアントンだった。サンアントンはオーストリアスキーの発祥地、隣のサンクリストフには国立スキー学校がある。
いわば私のようにオーストリアスキーにかぶれていた者にとってスキーの聖地でもある。このエリアはレッヒ、ツールズの地域とサンアントン、サンクリストフの地域に分かれていてその間をスキーバスやポストバスがつないでいる。リフト券は共通だ。
私たちはレッヒに1週間滞在した。レッヒは、英国、オランダ、スウェーデンなどのヨーロッパ王室が冬のバカンスで毎年スキーを楽しむ村で谷のどんづまりにある。村と言っても、グッチやプラダのブランド店がある高級リゾートだ。そんなヨーロッパ王室が滞在する村を見てみたいというミーハー的な興味もあり、レッヒにした。男女半々の8名のミーハー軍団は、チューリッヒから一路、オーストリアの山奥の村を目指した。

      
   写真左・雪に覆われたレッヒの村  写真右・Filomenaというアパートメントホテル
 

 「雪、雪、雪」

今年のヨーロッパは大雪だ。レッヒの村も2mを超す雪の中に沈んでいた。道路もスキー場もひんぱんに雪かき車が走っている。サンアントンにつながるアールベルグ峠を越す一本道は、除雪が間に合わなくて、朝など閉鎖されていることもあった。今まで、暖冬が続いてスキー場閉鎖に陥るほどだったヨーロッパのスキー場には久しぶりの大雪の年となったが、降りすぎることに面食らっているようでもあった。
6日間滑って晴れた日は一日だけ、あとは雪、雪、雪であった。新雪たっぷりのゲレンデなのだが、晴れていないと雪面が見えにくく、おいそれと新雪に飛び込むこともできず、切歯扼腕の日が続いた。たった一日の快晴の日は、サンアントンに行く日にあたり、明るい陽光の中に、小野さんや、菅野さんはくっきりとシュプールを刻んだ(左の写真・滑走中の菅野さん、右のシュプールは小野さんのもの)

      
    写真左・新雪滑走は菅野さん     写真右・レッヒのゲレンデは広く、長い
       右のシュプールは小野さん

 

 「五ツ星王室ホテルの味」

レッヒのレストランは正装しないと入れないという噂があった。そこで男性はブレザー、女性はワンピースくらい持参というオフレを出したところ、女性陣は相当悩んだらしい。せっかく準備したのだから、「ちゃんとしたレストランには一度は行きたい」ということで、ダイアナ妃はじめ英国王室御用達のホテルアールベルグに正装して最後の晩餐に出かけて行った。
ホテルのレストランはイタリア料理だが、出てくる一品それぞれがすこぶる上品な味、それまで外で食べていたものがしょっぱくて、これがチロルの味なんだろう。
昔はオーストリアの僻地だった山奥のチロルは、日本で言えば秋田県「ハタハタ、ショッツル、きりたんぽ」などと言っていた概念をくつがえす薄味だがおいしい。さすがは五ツ星ホテルのレストランではあった。正装女性軍も満足な一夜であった。

      
   写真左・ホテルアールベルグの        写真右・みんな正装
       イタリアンレストラン
 

 「 スウェーデン軍雪上車で行ったレストラン」

もうひとつユニークなレストランへ行った話。到着した翌日の夜、ホテルのフロントで予約してもらったレストランに行った。そこはバスに乗って終点の村はずれから雪上車で3キロほど森の中にある。バス終点の雪道に、その雪上車は待っていた。後ろの車両に乗れと言う。その車両は窓もなく密閉されたまさしく護送車だった。われわれ日本人とドイツ人のグループがギューギューに詰め込まれ、キャタピラの激しい振動を受けながら雪原を疾駆していくようだった(窓がなく、外も暗くほんとうのところはよくわからない)。
第二次大戦で負けた日本とドイツの捕虜のような気分に陥ったものだ。あとで聞いたら、まさしくこの雪上車はスウェーデン軍の払い下げとのことだった。こんな思いを抱きながら着いたレストランはカントリ風の田舎の一軒家で、雰囲気すこぶる良し。チロリアン風味のご馳走もおいしかった。少ししょっぱかったけれど。この店に行くために待っていたレッヒのバス停で、「日本の方ですか?毎年、ここに来ているが、日本人と会ったのははじめて」という上品な夫妻に声をかけられた。あとでわかったのだが、ご夫妻は私のオーストリアスキーの歴史にとても縁の深い方だった。

      
 写真左・スウェーデン軍から払い下げの戦車    写真右・森の中のレストラン
 

 「一日おきのクッキング」

Filomenaというアパートメントホテルをレッヒでは借りた。ヴァルディゼールやドロミテで借りたアパートよりすこぶる高級、値段も高かったが設備やフロントの対応はそれ相応にきちんとしていた。ソバやうどんはいつものように持って行ったが、今回はカレーライスに挑戦することにした。挑戦とは大げさと言うかもしれないが、カレールーはともかく、8人分のご飯を西洋の鍋で炊くことが至難なのだ。昨秋のウイーンでは真っ黒になべ底がこげ、これを落とすのに四苦八苦で金ダワシを買ったほどだった。このときの試練で覚えたのは、「はじめチョロチョロ、なかパッパ」ではなく、「はじめチョロチョロ、なかチョロチョロ、赤子泣くともフタをとれ」だった。米の量が格段に多く不安だったが、この流儀で炊いたところ、カレー用においしく炊けた。カレーもプルーンやら香辛料やら、太田明子さんが持参した魔法の調味料を入れたらとても良い味となり、福神漬やラッキョウも味を引き立て、楽しいカレーパーティになった。翌朝は、余ったご飯はチャーハン、カレーはカレーうどんにして、余すところなく食した。ああ美味かな。

      
    写真左・カレーライスは美味        写真右・蕎麦もまた美味
 

 「 優雅なご夫妻」

レッヒのバス停で声をかけられたご夫妻に翌日、同行の渡辺さんが再び通りで会い、みんなでお茶をすることとなった。指定された五ツ星ホテル・ポストのコーヒーショップも格調高い所。
このホテルはオランダ王室御用達。コーヒーを注文するにも緊張する。
ご夫妻は久米さん、「日墺協会会長」の名刺をいただいた。スイス、オーストリア、ドイツで外交官生活をされ、ドイツ大使で退官された(これは帰国後、インターネットで調べてわかったこと)。学生時代からスキーが好きで、雲取山から奥多摩へも滑ったことがあると聞いてたまげた。そんなスキー好きの久米さんにとって、スキーが国技のオーストリアでの生活は快適だったことだろう。

  

杉山進さんや黒岩達介さんなど国立スキー学校の卒業生や奥志賀グランフェニックスの田島さんやらで作っているサンクリストフの会のメンバーで、奥志賀にもよく行くという。そして奥様は、福岡孝行さんのお嬢さんと聞いてまた驚いた。
私が学生時代に学んだオーストリアスキーメソッドの教程本のほとんどは、当時、法政大学の教授であった福岡先生の監修や翻訳によるものだった。まさに私のバイブルの師のお嬢さんが目の前におられるのだ。夫妻は毎年、2週間ほどこのレッヒに滞在しスキーを楽しみ、日本では奥志賀が多いと言われる。まさにわれわれにとっての理想の生活をされていた。
レッヒに日本人が少ないのは、たぶんスキーのパッケージツァーにレッヒがないからだと思う。このエリアのツァーは結構あるのだがすべてがサンアントン泊なのだ。これは、このあと行ったツェルマットでその感を強くした。

      
写真左・元ドイツ大使の久米さん夫妻とのお茶会 写真右・ホテル・ポストのレストラン
  

 「ひざ掛け」

大雪の日、Stubenというスキー場に行った。リフト乗り場に面白いものを発見した。キルト仕立ての紺の毛布のようなものが山積みになっている(左の写真)。??と思ったら、一枚ずつ持ってリフトに乗っていく(右の写真)。そしてリフトの上ではひざ掛けにして足に巻きつけて長いリフトに揺られていく。寒さを和らげ、雪にも濡れないようにとの配慮のケットなのだ。リフトを降りたら返す。なんという温かい心遣いだろうか。膝したにケットを巻きつけていると、なんだかコタツの中に入ったままリフトに乗っているような気分になる。降りしきる雪の中、そのままずっとリフトに乗っていたい気分だった。大雪のスキーもまんざら悪くない。

      
    写真左・ひざ掛け用の毛布       写真右・リフトを下りるとき返す
 

4月30日 ゆりかちゃん

孫のゆりかちゃんが日野の実家にやってきた。お父さんがオフィスの引っ越しで連休中は出勤となったので、娘ともども3日まで滞在する。会うのは正月以来、人見知りするかと思いきや、家に入った途端、スタスタと歩き回る。正月のときは、立つのがやっとだったのにもう歩けるんだ。階段も上れる。子供の成長は速い。「お母さんと一緒」が始まるとテレビの前に釘付けだ。もうすっかり子供の風情が漂う。ハイハイしていたときはどこへ行くのか目が離せなかったが、歩くようになるとしっかりして行くべき方向がわかるのか、ひとりに遊ばせてもあまり心配ない。楽しく、かわいい孫である。

      
    写真左・笑顔のゆりかちゃん         写真右・フラフープで遊ぶ
 

4月26日 つらかった八子ヶ峰

一昨日からの雨でベランダの塗装は昨日は無理と思っていたが、昼頃になると暖かい晴天になり、ベランダの床も乾いてきた。そこで、一気にキシダテコールの塗装剤を使って、2時間ほどでペンキ塗りを終えた。そこで、今日26日はまるまる空いた。
今回の目的はペンキ塗りだったので、空いた今日は久しぶりの八子ヶ峰トレッキングに出かけた。去年の神経痛以来足が心配で遠のいていたが、最近、右足の痛みも和らいでいるので、思い切って歩くことにした。最初の急坂が問題と思っていたが、通常20分の上りを30分かけて上がった。その後、ゆるやかになるのだが足が思ったように上がらない。尾根道に登り着いた所で大休止、ふつう40分かかるのだが、今日は1時間かかった。そこからの尾根道は上り下りの少ない所だが、左足のつま先手前に靴下がまるまって詰まっているようで鈍痛がする。アルビレオヒュッテの階段に座って、靴を脱いで見たが、靴下はまるまっていない。そのあたりの足の裏がふくらんで歩きにくくなっているようだ。これも老化のひとつか?歩きにくさを我慢して、広い尾根道を北アルプスに向かって歩く。今日は槍ヶ岳の尖塔も黒く見える。雪が消えた尾根道は歩きやすい。西頂上でも大休止しながら、下りに入った。別荘地の道路に出て、駐車場までの道は、疲れたせいで苦しい。やっと車に辿り着いたときは、3時間半を越していた。今までの最長時間だ。今までの2時間半では歩けないことを実感した八子ヶ峰となった。

      
     写真左・八子ヶ峰頂上           写真右・この道がつらい
 

4月23日 聖光寺の桜

蓼科の桜はゴールデンウイークと相場が決まっていたが、今年は少し早い。今日26日がもう見ごろになっていた。連休前でまだ見物客は少ない。満開の桜に覆われた聖光寺の境内は静かで、見るには最適だ。ドライブ中の外人夫妻もカメラを取り出し、歓声を上げている。信州最後の花見の場所として知られつつあるようだが、新聞の桜開花か案内にも載っていないので知る人ぞ知る桜の名所なのだ。あまり多くの見物客に来られても困るが、少しは有名になって花見客がもっと増えてもよいような気がするが...。

      
     写真左・今、咲き誇る            写真右・聖光寺の桜
 

4月22日 早稲田応援部吹奏楽団

大学の応援部の組織に吹奏楽団がある。「紺碧の空」や「コンバットマーチ」を奏でるブラスバンドだ。早慶戦には欠かせない応援の主役と言ってもよい。その吹奏楽団の演奏会が高円寺であった。いつもの応援曲ではなく、本格的な行進曲やミュージカルのメロディがたくさん演奏された。軽快で楽しい。各学年別の演奏もあって、2年生はディズニーメロディ、3年生はミュージカルと多彩だ。部員は圧倒的に女性が多い。女性40人、男性数人という感じなのだ。また4月に演奏会をやる目的には新人勧誘もあるようだ。入学式を終わって3週間、1年生がサークル探しをしている最中なので勧誘しやすいのだろう。「今年の入学生は?」との舞台からの呼びかけに、かなりの数の手が上がった。この機を逃さず、高校のときブラバンをやっていた学生を引っ張り込みたいのだろう。神宮で新人も含めた応援演奏を聞けるのも近いことだろう。フィナーレはチェアリーダーも参加しての、応援メロディだ。「大進撃」、「タイムリーマーチ」、「Viva Waseda」、「コンバットマーチ」、「紺碧の空」と続いて、大拍手の中に、演奏会は終った。

      
    写真左・ 整然としたバンド        写真右・ あでやかなフィナーレ

 

4月13日 春の六大学野球リーグ戦始まる

春の六大学野球が始まった。点の入ったとき、隣の人と肩組みあって「紺碧の空」を歌い上げる学生応援席での応援が楽しいのだ。第一戦は立教とだ。あなどれない相手でである。3回にピッチャーの伊藤樹のヒットで1点をとり、気をよくした伊藤はテンポよく投げ、このまま1点勝負でいくのではと思ったが、6回に同点に追いつかれた。雲行き怪しくなったが、8回にヒットで出たランナーをゴロや犠打で進めて2点をとって、逃げ切った。こんな苦労の上の勝ち方が今の早稲田にはふさわしいかもしれない。打撃陣の層は薄く、ピッチャーも頼りになるのは伊藤だけ。新人の仙台育英の甲子園優勝投手・高橋もすぐにはエースになれないだろうし、少ない得点を全員で守る切る地味な野球が今の早稲田にはふさわしいし、これしかできないのではなかろうか?

      
      写真左・ 球春到来             写真右・勝利の校歌
 

4月11日 高幡不動の桜

遅れていた桜もようやく満開の所が増えてきた。高幡不動の桜も見ごろになった。境内の上にある多摩丘陵の端の山の桜もきれいだが、その山道にある四国八十八か所霊場巡りの山歩きも楽しい。八十八か所すべてを廻るには時間がかかるので、その1/3くらいを妻と一緒に廻ることにした。
陽射しは強いが山道に入ると涼しい。霊場巡りの山道沿いに桜はほとんどない。新緑の木々の中を右へ、左を上っていく。頂上と思しきピークからは、裏山を越して中央大学あたりの地帯が見える。住宅が密集している。この辺りは多摩モノレールが通ってから、住宅が増えたのだろうな。八十八か所の最後は山を下って、五重塔の隣の小さな寺所に88番目の石塔があった。ここでお参りしたら、すべてを廻ったような気になった。帰りの駅への商店街で油そばを食べた。妻は、名前からして、ギトギトしたそばを想像して敬遠していたようだが、意外とあっさりした酢抜き冷やし中華のようだとホッとしていた。

      
     写真左・高幡不動の桜          写真右・高幡不動尊金剛寺
 

4月10日 矢切の渡し

金町のうなぎを食べに行く前に、柴又で集まることにした。吉田さんの案内である。柴又は同じメンバーで前にも来て、寅さん記念館など「男はつらいよ」名所は廻っているので、今回は矢切の渡し船に乗ることにした。江戸川を渡って千葉県の松戸へ向かう渡し舟である。「野菊の墓」に出てくる渡し舟だ。歌謡曲「連れて逃げてよ、矢切の渡し」でもある。松戸側の乗り場はすぐの所に見える短い渡しだが、片道200円とって数分で着いては申し訳ないと思ったか、船頭は川の中央を少し上流まで行き、観光案内を漫談調でとうとうと述べる。松戸側に着いても川岸周辺には何もないので、乗って来た船で柴又側へ戻る。また200円。柴又から金町へはバスに乗ることにした。うなぎが待ってる金町は近かった。

      
     写真左・矢切の渡し舟          写真右・矢切の渡し乗り場
 

4月6日 奥志賀の早朝スキー

奥志賀の春のスキーは早朝に限る。毎年、3月末からゴールデンウイークまでの週末の早朝、エクスパートコースのリフトを動かし、整地したばかりのゲレンデを滑らせてくれる。冷え込んだ朝の硬く締まった雪は、最高の滑りを楽しめるのだ。今シーズンは経営者が代わったせいだろうか、3月はやらず、4月6日土曜日からになった。早朝6時半開始前に、30名くらいのスキーヤーがリフト乗り場に集まった。私も10番目くらいでリフトに乗り、ゲレンデを上がっていく。
まず最初は、エクスパートコースの上部からシュテム系で滑り出し、パラレル系に変えていく。硬い雪に切り込んでいく感触が心地よい。徐々にスピードに乗り、エクスパートコースの下部に来たら、そのまま雪が少なくなったとき用に作られている、小高くなった通り道に入っていく。次の滑りは林間コースだ。ここもきれいに整地圧雪されているので、ノンストップで林間コースのカーブをパラレルで滑っていく。エクスパートより木々に陽射しが遮られているので、雪の融け方が遅い。今日はいつもより暖かいので雪の柔らかくなるのが早いようだが、林間コースはいつまでも硬く気持ちの良い切り込み方なのだ。これが春スキーの醍醐味だ。

      
    写真左・エクスパートコース        写真右・春の奥志賀リフト乗り場
 

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3 月

3月31日 海外、思い出のドライブ旅 ・番外編
 「はるかなる ドロミテ」2007年

隔年に始めた極楽スキーメンバーでの海外スキーツァー、一昨年の仏ヴァルディゼールに続いて、今年はイタリア・ドロミテを選んだ。
ドロミテはイタリア北部のオーストリアに近く南チロルとも呼ばれるエリアで、第一次世界大戦まではドイツ領であった。戦争に負け、それからイタリア領土になったいわくつきの地域でもある。
オーストリアのインスブルックからは160k、2時間程度のドライブで着く。東京から蓼科に行くとほぼ同じ距離だ。ところが、車以外の交通は国をまたぐせいか不便で、列車で行ってもバスで行っても、国境近くで乗り換えなければならない。そこでわれわれはジャンボタクシーをチャーターした。最初は8人の参加予定だったので8人乗りの大型で予約した。しかし日が近づくにつれ、一人減り二人減りで、最終的には4人になった。

 

8人乗りでは大きすぎると思ったが、荷物も多いことだしとそのままにした。往復で約10万円、ひとり2万5千円の負担だ。この予約の過程で初めて知ったのだが、SkihoppaというWEBサイトがあり、ヨーロッパだけでなくアメリカのスキー場へのチャーターバスを予約できる。
スキー場をインプットすると送迎可能な空港一覧が出てきて、空港を選ぶと8人乗りまたは4人乗りの往復運賃が表示され、空港への到着と出発時刻を入れると、自動的にスキー場への到着、帰りの現地発の時間を指定してくれ、OKならクレジットカードで支払って申し込み完了。とてもよくできたシステム で残念ながら日本のスキー場は対象になっていない。これから外人をターゲットにしようとしている志賀高原や、白馬もこのようなシステムを考え、空港からの足の確保の便を図るべきだろう。日本に来られる外人にとって、レンタカーはむずかしいのでこのような現地に直行するシステムが欲しい。

      
  写真左・宿の窓から望むドロミテ山塊    写真右・セラロンダ・コースを遠望
  

インスブルックのホテルに2月23日に集まり、24日の朝ドロミテに向うことにしていた。Yさんはウイーン経由、Uさんはパリ、Kさんはフランクフルト、私はミュンヘンからとみんなバラバラにバラバラの時間に来ることになっていた。ミュンヘンに前日入っていた私にKさんから、「飛行機トラブルで成田からのフライトが飛ばず、一日遅れる」と連絡してきたのは、インスブルックへ向う寸前だった。ドロミテへ向う24日の夜にインスブルックへ着くことになる。チャータータクシーの出発を朝から夜に変更しなければならない。23日の午後インスブルックの宿に着いて、すぐ電話で交渉したが、「今さら変更できない」の一点張り。オフィスの場所を聞いたら宿から10分の距離、「すぐ行く」と言ってオフィスへ行き、マネージャと直談判、しっかりしたやり手のレディだった。私のジャパングリッシュを苦労しながら聞き取り、ドイツ語であちこちに電話して、車と運転手の空きを調べている様子。しばらくして、OKとなった。変更や夜間の割り増しもいらずホッとした。オフィスの中で働いている人は全員女性だった。
 

時間を遅らせ、インスブルック空港で夜7時にKさんをピックアップして、ドロミテ・コルバラの村へ向った。アウトバーンに乗り、ブレンナー峠を越えてイタリアに入った。雨が降り出し、雪が溶けているのでは、と心配になる。ヨーロッパも暖冬で、出発前の情報では山麓で15cm、山で70cmと積雪はすこぶる少なかった。そのわりには、すべてのゲレンデが「Open」となっているのだが、この雨でどうなることやら。運転するのは背の高い格好よいお兄さん、だがコルバラへの道は初めてらしく、地図を見たり電話をしたりで迷いながら、夜半10時ごろレジデンス・アンジェリカに到着。イタリア語しか話せないおじいちゃんとおばあちゃんが部屋へ案内をしてくれた。建てて間もないコンドミニアムなので、とてもきれいでかつハイテクだ。無事到着を祝って、まずは乾杯!
 

 「ドロミテの前にインスブルック観光」

ドロミテに来る前、出発が朝から夜に変ったことにより、インスブルック市内観光の時間ができた。私は四回目のインスブルックだが、YさんもUさんも初めて。黄金の屋根すぐ近くのホテルだったので、歩くにはうってつけ。観光案内所で交通機関にも乗れ、入館料もタダになる市内パスを買って、まずは背後にそびえているノルトケッテの山へロープウェイで登った。
この山は何となく上高地から仰ぐ穂高連峰に似ていて、インスブルックの街は河童橋あたりに広がっている感じだ。さしづめ街を流れるイン川は梓川だ。ノルトケッテの山は標高2300m、麓の街は800m、標高差1500m、上高地と穂高の標高差も1500mと同じなので、なおさら似た感じがするのだろう。どんよりした日だが、チロルアルプスが春霞の中に見える。とても暖かく、冬とは思えないような陽気だ。頂上近くのロープウェイ乗り場で、なんと「ヤナセ」と書いてある雪かき機を発見、この手の機械はほとんどが本場のオーストリアかドイツ製と思っていたが、日本からの輸入もあるのだ。近づいて製造元を調べると北海道岩見沢の石狩造機という会社の製品だった。きちんとメンテナンスされ、役に立っていることがよくわかる。「日本の中小企業の活躍、ここにあり」という感じで、うれしかった。

  

宮殿や博物館も見てドロミテは夜になるからと、スーパーで買い物をすることにした。ところが土曜は夕方5時閉店であわてた。結果としては、運転手のお兄さんにインスブルック駅中に開いているスーパーに立ち寄ってもらい、買出しは出来たのだがヨーロッパで驚くのは日本との働き方のちがい。スーパーに限らず、ほとんどの店、銀行も観光案内所に至っても昼過ぎから午後4時頃まで閉め、そのあと再開しても夜7時で終わり、土曜は5時まで、日曜は休み。インスブルックの観光地で開いているのはみやげ物屋とレストランくらいだ。24時間営業のコンビニなどない。慣れれば、これでよいのかもしれない。休んで電気も消すのだから環境にも良い。日本は便利になりすぎている。昔の日本はヨーロッパに近かった。店も役所ももっと休んでいた。小樽の市営スキー場など、お昼時はリフトも止まっていた。「顧客主義」が「いつでも開いている」ことにすり変り、昼と夜の区別もつかなくなってしまった。環境問題が声高に叫ばれる今、こんなヨーロッパスタイルを見習うことも大切と思う。

      
    写真左・日本製の雪かき機      写真右・夕暮れのインスブルックの街
  

 「とてつもなく広いドロミテのスキーエリア」

ドロミテのスキーエリアはとてつもなく広い。リフトの数450以上、エリアも12ヶ所に分かれ、全面積は長野県の三分の一の広さになるという。そのエリアをロープウェイ、バスなどでつないでいる。地元の人にとっても、一生かけてすべてのスキー場を回ることが夢というほどの大きさなのだ。
リフト券も全エリア共通がスーパードロミテパス、エリア毎のリフト券もある。信州のスキー場でいうと、志賀高原、野沢温泉、妙高、白馬などがすべて一緒になって、リフトも共通、エリアをつなぐ交通機関が張り巡らされているという感じか。
今回泊ったところはコルバラというスキーのためにあるような小さな村、ドロミテの中心地でセラ山脈をぐるりとスキーで回るセラロンダの基点の場所でもある。セラロンダには右回りと左回りがあり、同じゲレンデを滑らずリフトを乗り継いで一周できる。
 

私は右回りが面白かった。さしづめ八ヶ岳山脈の回りをリフトがかかっていて、それをつないで清里、富士見、蓼科、佐久、小海、野辺山とスキーで回るという感じだろうか。志賀高原並みのスキー場がいくつもつながっているようだ。
ドロミテは岩山が連なる、ヨーロッパアルプスでもユニークな山容をしている。その岩山の間がスキー場になっている。山の上から眺めると、以前行ったことのあるチロルのエッツェタールのオーバーグルグルあたりの連峰も見えた。
最初はセラロンダの左回りを滑った。一周するのにほぼ一日かかる。昨夜の雪が降り積もったゲレンデは朝日に映えてすこぶる快適だ。心配していた積雪もコースにはたっぷりある。村にはないのに、ゲレンデは夜中に人口雪などで整備しているらしい。スキーがビジネスの中心になっている地域だけにしっかりしている。峠にリフトで上がり、滑ると村に下る。村中の道もコースになっている所もある。スキーを脱いで、道路を渡るとまたリフトが待っている。その繰り返しが続く。村の中にはピッツァリアと呼ばれるレストランが数多くあり、休むのに困らない。

          
   写真左・さあ、セラロンダへ出発     写真右・セラロンダコースの途中で
  

 「標高3200mからの大滑走」

次の日は、セラロンダを離れて標高3200mのマルモラーダに行った。ロープウェイを3本乗り継いで山頂近くまで上り上げる。ギューギューに詰め込まれた車内に突如、イタリア国家の大合唱が起こる。混雑も楽しくしてしまう陽気なイタリア人だ。
山頂は晴れていても風冷たく寒い。記念写真を撮って早々に滑り出す。結構きつい斜面が続くが、広いのであまり怖くない。レストランのあるPasso Fedaiaまで、標高差1800mのダウンヒルだ。硬く絞まった雪面にエッジを切り込んで慎重に、ほどよいスピードで滑り下りていく。ドロミテの岩峰がどんどんせり上がっていく。そしてフェダイア峠(Passo Fedaia)まで来ると、汗ばむほどの暖かさに変っていた。
峠のレストランでまずビール、そしてきのこのスパゲッティ、おいしかった。帰りは昨日のセラロンダと同じ道を通るのは面白くないと途中からCol Alto経由でコルバラへ帰ろうと思った。ところがコースを間違え、ひと山越えた別の谷間に下りてしまった。San Cassianoという村だった。リフトの最終時間も迫り、戻ってもつながらない。レストランでタクシーを呼んでもらい宿へ帰ってきた。25ユーロ。こんなハプニングも楽しい。
  

中一日おいて、今度はセラロンダの右回り(時計回り)に挑戦。途中でマルモローダへ行く道と分かれ2500mの峰に上がり、そこから700mの高度差をカーブを描きながら滑っていく。ここが面白かった。ほどよい傾斜に気持ちよくスキーが切り込んでいき、よく曲がる。日本からオガサカのスキーを持ってきた甲斐があった。このカービングスキーはすこぶる調子良い。
スキーを一旦、休止し、ポルドイ峠から約3000mの岩山にロープウェイで登った。晴れ渡った空の下、オーストリア、スイス、イタリアのアルプスの峰々が美しい。下にはドロミテのスキーエリアが広がっている。セラロンダのコースは変化に富んでいてとても面白い。ロープウェイで隣り合わせになったドイツ人夫婦はドロミテに2週間、そのあとチロルのサンアントンに1週間滞在するという。日本からはるばる来て、1週間じゃもったいないとも言う。働くことが好きだとも言っていたが、その原動力はこのようなバカンスをしっかり取っていることなのだろう。ワーク・ライフ・バランスである。

      
写真左・マルモラーダからイタリアアルプスを望む 写真右・マルモラーダの大斜面
  

 「銀メダルのふるさと・コルティナ」

中一日は、コルティナダンペッツォの街に出かけた。ドロミテ最大の街、リゾートの街である。1956年、日本人初の冬のオリンピックメダリストが誕生した町でもある。回転銀メダリスト・猪谷千春、トニーザイラーに続いての2位。日本中が興奮し、小学校5年生だった私にも脳裏に焼きついているコルティナダンペッツォの名前だ。そのあと、ジャンプやスケートで日本は金メダルを獲得したが、冬季五輪の花、アルペン競技では、50年経った今でも猪谷さんのメダルだけだ。それだけ偉大な銀メダルだったのだ。その町にやってきた。
コルバラからはバスでファルツァレゴ峠まで行き、そこでコルティナ行きに乗り換える。5分の待ち合わせで連絡している。コルバラの案内所でバス乗り場を聞いたら、「遅れたら峠で2時間待たなければならない」と言う。不安は的中した。峠に着いても、バスはない。峠の茶屋で昼過ぎのバスまで待った。やっとコルティナに着いたら、こんどはすべての店が午後のお休みに入っていた。レストランで時間をつぶし、街を歩き回り、夕方ようやくお目当てのショッピングを終えたときには、コルバラへの最終バスはなくなっていた。タクシーでご帰還、75ユーロ。しかし夕方までコルティナにいれたので、夕日に輝く山々とコルティナの街の美しい景色をたっぷり楽しめた。アルプスの町らしく、坂が多いが、古くしっとりとした素敵な町だ。

        
 写真左・ コルチナダンペッツォの街並み  写真右・コルチナの街のシンボル教会塔
  

 「レジデンス・アンジェリカ」

泊った宿はレジデンス・アンジェリカ。家族で経営する一昨年できたばかりの新しくきれいなコンドミニアム。台所も清潔、食器や調理器具も整っている。寝室が二つあり、中央にリビングキッチンのついた60uの立派なしつらえだ。他にも数部屋あり、大きな建物だ。鍵はすべてカード式、玄関もスキールームもサウナ・ジャグジーもこれがないと入れない。スキールームには、靴を鉄のハンガーのような取っ手に吊るすと自動的に靴の中も表も乾燥するという最新式の乾燥機が据え付けられていた。エレベータもあって、相当な投資なのではないか。おじいちゃん、おばあちゃんがいて、お手伝いのメードさんもいる。若夫婦は他の町に平日暮らし、週末にここに来ると言う。子供をそこの学校に通わせているというが、働いてもいるらしい。夕方、近くの小さなスーパーに買い物に行ったら、おじいちゃんがレジの袋入れをやっていた。おばあちゃんも朝、きちんとした身なりで出かけて行く。
  

「ローンの返済で一族郎党みんなで働かざるをえないのではないか」とひとしきり、話題にしていた。ところが、スーパーに買い物に行くたびにおじいちゃんがいて、5%割引してくれる。単なるパートならそこまではできないと、少し見方が変ってきた。週末に若い奥さんが来たときに聞いたところ、スーパーはおじいちゃんと兄弟でやっていると言う。経営者だったのだ。道理でいつもいるはずだ。この村でも裕福な一家のようだ。だからこんな立派なコンドミニアムを作れるのだという結論になった。メードさんも、おばあちゃんもおじいちゃんも若奥さんもみんな親切で、とても快適な宿だった。

      
   写真左・最新のスキー靴乾燥機     写真右・レジデンス・アンジェリカ
  

 「ロイテであわてたこと」

ドロミテのスキーも終わり、インスブルックへ戻ってきた。Uさんは、午前中のフライトで日本へ帰っていった。3人は明日帰る。その時間を利用して、ノイシュバンシュタイン城の近くのチロルの町ロイテに住んでいる久仁子さんを訪問することにした。チロルに詳しい人として、昨年東京でお会いした。ドイツに留学、オーストリアの人と結婚し、観光や視察でドイツに来る日本人のガイドをしながら、フュッセンに10年ほど住んでいたが、昨年ロイテのご主人の実家に移って来た。ロイテではただ一人の日本人らしい。
インスブルックからロイテに行くには列車で、ドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘンで乗り換え、再びオーストリアに入るルートで約3時間かかる。雨が強く降っている日だった。ロイテの駅に久仁子さんが迎えに来てくれ、Yさんの希望のノイシュバンシュタイン城に行った。私は30年前の新婚旅行、数年前の家族旅行に続いての3回目、ここに来るとドロミテでは会わなかった日本人がいっぱいいる。最近は中国人の観光客も多くなった。インスブルックも日本人は少なかったのに、中国人は多かった。

 

ロイテの久仁子さんの家へ入ったのが夕方5時近く、ご主人も迎えてくれた。100年経っている建物というが、大改装したこともあってか、とてもよい雰囲気の邸宅だ。少しも古さを感じさせない。来年予定しているチロルトレッキングのコースのアドバイスなどをしてもらい、ちょうど3月3日なので、とチラシ寿司を作ってくれていた。チロルでいただく日本の味は格別だった。
帰りは7時22分の電車ということだったので、ご主人に駅まで送ってもらい、停まっていた列車に飛び乗ったところ、反対側に動き始めたではないか。あわて て下りたところ、時間がまちがっていたらしく、インスブルックへつながる本日の最終列車はもうないとのこと。久仁子さんのご主人も見送っていて、反対に走り出したのでびっくりし、駅員に緊急電話を運転席にかけて止めてもらったらしい。「サヨナラ」で別れた久仁子さんのところに舞い戻り、タクシーをフュッセンから呼んでもらった。インスブルックまで180ユーロ、帰りは電車道ではなくフェルン峠を越えてイムストからアウトバーンに乗ってインスブルックへ戻った。2時間ちょっとかかったが、列車より速かった。
今回の旅ではタクシーに乗る機会がいくつかあったが、日本と比べ安いと思った。インスブルックまでは100k以上あるのに、2万8千円程度、コルティナからは約50k・12,000円。新宿から30kの我が家日野まで15,000円かかるのと比べると割安だ。ガソリンの値段は日本より高いくらいなのに。

      
   写真左・インスブルックの駅     写真右・久仁さんが作ってくれたちらし寿司
 

3月30日 銀座界隈・文学散歩

岳文会の文学散歩に久しぶりに参加した。銀座、日本橋界隈を巡るコースだ。この界隈の文学作品は少ない。しかし、文壇の有名人が通った店は多い。そんな所を含めての散歩だ。まずは東京八重洲口の新しいビル谷間にある南町奉行所跡、遠山の金さんの奉行所だ。まさに高層ビルの谷間のまた谷間に、発掘された土台の石が残る。常盤橋に行き、ここが江戸城大手門への正門だったことを知る。日本橋は三井不動産の開発拠点だが、コレド室町の一角に神社がある。元々は、界隈に散在していた小さな神社を先の開発のときに、白木屋やら室町ビルの屋上に移したものを、コレド室町の再度の開発のときに、下に下し、稲荷神社を再建したという。日本橋の新たなランドマークとなり、若い人の参拝が絶えない。ビル一軒分の収益は減ったが、地域振興としてはよい投資ではなかろうか。
 

前に妻と行ったことがある伝馬町牢屋敷跡にも行き、小伝馬町から地下鉄で銀座へ移った。ここは谷崎潤一郎が生まれた所だが関西へ移り、晩年にまた戻り、ひいきにした料理屋「浜作」、太宰治が通ったバー「ルパン」などを廻った。銀座並木通りの片隅に、石川啄木の碑があった。ここに初期のの頃の朝日新聞の社屋があったという。23才で死ぬまでの3年間、ここで校正係として働いていた。寂しくて切ない、若き啄木の晩年だった。銀座ライオンで休憩し、生ビール2杯、もう歩かなくてよいと思ったが、まだ若い岳文OBは歩くと言い、交詢社などを巡り、泰明小学校で島崎藤村と北村透谷の碑を見て終了。新橋のガードをくぐった、西洋立ち飲みバーでまた乾杯して解散した。

         
写真左・日本橋のビルの谷間に再建された神社   写真右・銀座にある石川啄木記念碑
 

3月21日 早すぎた花見

さくら回廊・お花見クルーズに行った。門前仲町の地下鉄駅近くの隅田川支流の大横川を遊覧船が廻る。昨年の今頃にも行って、水面近くまで垂れ下がる満開の桜を楽しんだ。今年もそれを期待して出かけたのに、つぼみもふくらんでいない。開花のだいぶ前という状態だ。吉田さんが用意したおつまみセットで私のホイリゲ・ワインとで宴会になった。こうなるとまさに花より団子だ。桜はダメということで船は隅田川に繰り出した。永代橋をくぐると竹橋のIBM本社ビルが見えてくる。社会人の頃、ここにはよく来た。ファシリティ関係の責任者になったとき、この分野の先輩であるIBMに学びに来たものである。当時、私の務めるHP社はコンピュータはまだ未熟で、その道のIBMははるか向こうの会社だった。ライバルとはみなされていなかったので、ほんとうによく教えてくれた。視野が広く、心が広い、すばらしい会社であった。今でもその伝統はつながっているのだろう。そんな昔のことを思い出しながら、スカイツリーが目の前に見える清澄橋でUターンして帰って来た。桜はまだだったが、昔を思い出させるなつかしい船旅となった。

      
  写真左・お花見遊覧船で隅田川遊覧       写真右・スカイツリー遠望
 

3月13日 秘湯を守る会50周年

日本秘湯を守る会という組織がある。日本各地にある素朴な秘湯の宿のネットワークする会だ。その会が50周年になるという式典が、有楽町の朝日ホールであった。「テルマエ・ロマエ」のヤマザキマリさんが世界の温泉事情の話をして、そのあとは秘湯の宿経営者との座談会という趣向。50年前は高度成長期に向かって、日本全国 が活気に満ち、全国の大手温泉地は社員旅行などであふれ、旅館もビルに替え大型化していった。バスも入れない山奥の秘湯の宿は見向きもされなくなっていた。
それを危惧した、朝日旅行会が寂れつつある秘湯をネットワークし、個人客をターゲットにした旅行策を打ち出した。全国2000軒の宿に案内を出し、33軒から入りたいとの賛同を得たが結成会議に参加したのは13軒、東京へ出る交通費にも苦労した宿が多かったのだ。それでも、地道に活動を続けるうちに徐々に増えて、今は144軒の宿が加盟し、運営も軌道に乗って来た。団体旅行が下火になり、個人旅行が増えている現在、大型旅館より家族的な旅館が好まれる傾向になり、山深い秘湯の宿は人気となっているのだ。こんごの課題は地熱発電が本格化すると、温泉に影響出るのではないかと危惧し、秘湯の宿は反対の方向なのだ。

    
   写真左・お祝いの桧枝岐歌舞伎       写真右・日本秘湯を守る会
 

3月8日 蓼科に本格的な冬が来た

白馬に行くときも大雪警報が出ていたが、それほどの降雪はなかった。帰って来た蓼科が大雪になっていた。行く前の駐車場は雪に埋もれ除雪しないと停められず、道路の真ん中に車を停めたまま、駐車できる分だけのスペース作りの雪かきをした。ほぼ出来上がった頃、管理センターの車が来てしまい、あわててバックで駐車場に入ろうとしたら、反対側の道路脇の除雪した雪の塊りに前の左前輪バンパーがひっかかって、めくれてしまった。それでも無理やりバックして駐車させた。センターの女性事務員はびっくりして、帰りに寄りますと言って4号線の奥へ走っていった。めくれたバンパーを元に戻るか試したら、とんとんとはめ込んでいくではないか、ちょっとの違和感はあるがほとんど元の形に収まった。そういえば、前にも同じようなことがあった。整備工場に聞いたら、いちばん子供や老人にぶつかりやすい所なので、メーカーも壊れやすく、戻しやすくしているのだと言っていた。帰りに寄った事務員も元に戻っているのを見てとても驚いていた。そのあとも雪は降り続き、2月までまるでなかった雪が急激に増え、3月になってようやく冬がやってきたような感じだ。

      
 写真左・四号線先の豪邸も雪に埋もれる     写真右・雪に埋もれる3月の山荘
 

3月5〜7日 白馬コルチナスキー場

奥志賀のブルーエに行こうとしたが、ふさがっていてダメと言われた。オーナーの私もダメなほどはやっているのはいいことと解釈して、白馬コルチナに代えた。行ったことのないスキー場だし、すごい外観のホテルも興味深かったので行ってみた。栂池スキー場を越え、白馬乗鞍の右手に入り、白馬どんづまりのスキー場にやってきた。目の前に大きな建物がそびえ立っている。ホテル白馬グリーンプラザというらしい。豪華な外観に劣らず、1階ロビーも派手だ。ただ通された部屋は、ツインベッドと畳敷き10畳との組み合わせで味気ない。5,6人を収容するように作られているようだ。
温泉はよかった。特にジャグジーはスキーの後のしびれた右足のマッサージに最適だった。食事はバイキングで味気なかった。生ビール850円で、飲み放題は1800円、3杯飲めば得になるので飲み放題にした。2泊とも同じような食事だったので、不満が残る宿だった。スキー場は今の私にはほどよい傾斜のスロープが広がっていて楽しかった。隣の白馬乗鞍スキー場とも連結していて、2日目に行き、帰りのコースをまちがえ、39度の圧雪してないグサグサの斜面に入り込み往生した。途中からは一段、一段、横に下りてくる始末。往年の華麗なスキーはどこへやら、無様なスキーのショックでホテルに帰ってきてふて寝となった。スキーはやはり、華麗に楽しく滑りたいものだね。

      
  写真左・ホテル白馬グリーンプラザ      写真右・若者グループの宿泊が多い
 

3月3日 「大誘拐」in 韮崎

新聞に「大誘拐」公演の記事が載っていた。金持ちの老婦人を誘拐し、5千万の身代金を要求したら婦人が「私はそんなに安くない」と怒り、5百億円要求しろと言いだして、てんやわんやになるというストリーが面白そうなので、切符をとろうとしたら東京は売り切れ、近くでは3月3日の韮崎が空いているというので、その足で蓼科へ行ってという計画にした。
金持ち婦人は白石加代子、そのおつきに柴田理恵、刑事が風間杜夫と面白そうなメンバーだ。韮崎の東京エレクトロン文化ホールは、蓼科の帰り道によく通る所なので知っている。韮崎にはもったいないような大きく立派なホールだ。近隣からだけでなく都内ナンバーの車も多く、遠くからもおおぜい来ているらしい。ほぼ満席、先の3人に加え若手の中山優馬を犯人役に加えて、4人だけのスペクタルドラマとなっている。これが実に面白く愉快だ。国家権力への抗議への皮肉もこめて、4人の名優が舞台を盛り上げる。ナマの芝居の面白さを十分に味わった。柴田理恵はこの芝居の公演フィナーレがふるさと富山らしく、その時はきっと大泣きするのだろうな。

      
   写真左・「大誘拐」ポスター       写真右・韮崎東京エレクトロンホール
 

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2 月

2月29日 海外、思い出のドライブ旅 ・番外編
 「アルプススキー休暇」2005年2月〜3月

山荘を閉め、仕事も入れず、2週間のスキー旅行にアルプスに出かけた。目的地はフランスのヴァルディゼールとシャモニー。いずれも名高いスキーエリアだ。スキー仲間10人での旅、ジュネーブ集合・解散にしたら、フライトはみんなバラバラ、KLM、エールフランス、オーストリア航空、ちなみに私はルフトハンザ。どうもマイレージの関係らしい。リタイア組は私と小野さん、他はみんな会社で働いている。よく来れたね。ワーク・ライフ・バランスがみごとにできている。ご立派。この旅行で垣間見た、ヨーロッパのワーク・ライフ・バランスとホテル・コンドミニアム事情を報告したい。この記事は2005年のものである。

      
  写真左・ヴァルディゼールのスキー場で  写真右・スキー場からモンブランを望む
 

  ヴァルディゼール   「平日が混む」

ジュネーブから車で4時間、アルベールビルオリンピックの会場になったスキー場。標高1800mに街があり、ゴンドラが3,500mの山の上まで運んでくれる。とにかく広い。志賀高原の数倍の広さだが、リフト、ケーブルカー、ロープウェイがうまく端から端までつないでくれる。
ホテルに併設されているコンドミニアムに1週間泊った。4LDK、150uの広さがあるので、10人問題ない。広さだけなら私の山荘も同じ大きさだが、ロフト仕様とホテル仕様では使い勝手がちがう。バスタブが3ヶ所、トイレは4ヶ所もある。このようなアパートメントと呼ばれるコンドミニアムやシャレーがホテル以上に多い。

  

スキー休暇となると、最低1週間単位のヨーロッパ、宿泊料の設定も土曜から次の土曜までの1週間単位。2,3泊しても1週間分とられる。日本のような2泊3日なんて考えはない。休むなら最低1週間。中には1ヶ月の人もいる。週末は客の入れ替えで、道路も宿もゴッタがえす。
スキー場は平日が混む。朝のゴンドラ乗り場は長蛇の列、昔の八方尾根のゴンドラを思い出した。日本はスキー人口ががた減りで週末でもリフト待ちなどなくなったが、ここでは健在。冬はスキーが今でも主流、スノーボードは非常に少ない。「あれはアメリカのスポーツでね」と関心が低いようだ。スキー休日の楽しみ方も日本とちがう。朝は10時過ぎにゲレンデへ、昼は2時間くらい日なたでランチ、当然ワインたっぷり。4時ごろ宿に戻ったらサウナを浴びて、8時過ぎにディナー、そのあとスナックで一杯ひっかけて、12時過ぎにディスコ、深夜まで。これを毎日繰り返すのが、ヨーロッパ流とか。われわれもトライしようとしたが、ディスコへ行く気力と体力なしで断念。なかなか国際人にはなれない。

      
   写真左・ヴァルディゼールの街      写真右・シャレーの食堂で乾杯!
  

コンドミニアムの機能はふつうの家と同じ。蓼科の山荘も以前行ったオーストリー・チロルと同様のシャレーを参考にして作った経緯があるので、今回も違和感ないが、値段(1週間60万円)の割りにメンテナンスが今いちと感じた。
例えば、
  ・食器がバラバラ、欠けているものあり
  ・フォーク、スプーンなども同様
  ・洗剤、調味料が用意されていない
  ・洗濯機、食洗機、レンジなど機器の取り扱い説明がない。
これらは他山の石として、私の山荘でも気をつけなければならないことばかり。私はシャンプーや石鹸の補充を忘れがちだが、ここではホテルサービスがついているので、その点はしっかりしていた。

  

 シャモニー 「白馬も見習うべきシステム」

ジュネーブでみんなと別れ、リタイア組の小野さんと私はシャモニーに行った。さすがに2週間の休暇はみんなはむずかしい。「21世紀は知識を活用する競争になる。モノ作りといっても”カイゼン”や”たくみの世界”のことではない」はソニーの出井さんの言葉。「知識社会では人の能力とモチベーションが品質を決める。能力よりモチベーションがより重要になる」は日本テレコムの倉重さんの言葉。モチベーションを高め維持するには、仕事、仕事ばかりではダメ、自分のライフを充実させ、いろいろなことを見聞し、多角的な知識を広げていくことが大切だ。その意味では、ヨーロッパの人のように、長期の休みをとってリフレッシュした心身で職場に戻る習慣を日本人も必要になってきている。
単なるモノ作りは中国に任せればよい、日本はその上のレベルを目指さなければ生き残れない。そのためには、ワーク・ライフ・バランスの考えをもっと企業に理解してもらいたい。ライフは個人だけで考えるものではなく、企業も国もそれをサポートする仕組みを欧米のように充実させる必要がある。

  

シャモニーは日本人にもよく知られている山岳リゾート。冬のスキーでも有名、最初の冬季オリンピック開催地でもある。ヴァルディゼールとちがっていくつかのエリアに分かれていて、そのつながりはない。しかし街からエリアを結ぶシャトルバスがひんぱんに走っているので、不便さはない。そして無料。リフト券も全エリア共通。これでエギュードミディのロープウェイにも乗れる。
白馬もこれに見習ったらどうか。お客が減るのを嘆く前に、鹿島槍サンアルピナ、佐野坂、五竜、白馬47、八方、岩岳、栂池、白馬乗鞍、コルティナのリフト券を共通にし、無料のシャトルバスを走らせるような起死回生策を考えられないのだろうか。

        
   写真左・シャモニー針峰を望む    写真右・シャモニーの街へ向かって滑り降りる
  

夏も冬も満員のシャモニーのホテルはちょっとあぐらをかいているかもしれない。泊ったのは三ツ星の中より上のクラスだったが、英国、日本、台湾などフランス語圏以外の客が多いのに、テレビはフランス語放送のみ。部屋の案内書はなし、二人なのにアメニティグッズはひとり分、朝食のバイキングは少し遅く行くとパンと果物だけというありさま。
スキーバブル時代の野沢温泉の宿を思い出したほど。野沢はこのあと、客が激減、サービスの悪い温泉として有名になった。しかし今ではこの反省から、温泉全体が名誉挽回に取り組み、日本でも指折りの名旅館も出現するまでになった。
 

2月23-25日 雪が降る

天皇陛下の誕生日が金曜で、今年は3連休になった。絶好のスキー休みというところだが、この冬は暖冬で雪が降らない。山荘の周りも22日の日中は、まったく雪がない。学生時代のスキー仲間のFファミリーが来るというのに、これではスキーができず、困ったなと思っていた。ところが、22日の夜から雪になり、23日の朝には真っ白になった。ファミリーが到着した昼頃には10cmくらいの積雪になった。みんな大喜びで、ツーインワンスキー場に出かけて行った。翌24日は、さらに降り積もり、30cmを越し、天気も晴れて、最高のスキー日和となった。自然はわからないものである。今年は、もう冬は終わりだと思っていたら、大雪だ。犬は喜び、庭駆け回るではないが、ファミリーのケイちゃんや、エリちゃんは大喜びだ。帰る日の朝まで、庭にそりを出して、遊んでいた。去年の冬に、帰るとき、「帰りたくない」と泣いていたケイスケ君は、今年は、「また来るね」と笑顔で帰っていった。幼稚園から、小学校1年生になっただけで、こんなに成長するんだね。

      
     写真左・2月22日の山荘         写真右・2月23日の同じ場所
 

2月20日 横浜系ラーメン店で春木屋中華そば

期間限定の横浜系こってりラーメン店で、荻窪の名店・春木屋のあっさりラーメンを出すというので、行ってみた。あのこってりラーメン屋が春木屋のあっさり気味のコクのある味が出せるのか、楽しみだった。器も春木屋風、しょうゆ味スープにメンマ、チャーシューも春木屋風に並んでいて、「これは!」とひと口、「オー、春木屋のだ」と思ったが、ひと口飲んで、麺をすすると、何か違和感がある。麺とスープがからみあう旨さがない。スープの味は春木屋風だが、スープをさまさないよう、ラードか何か油を入れてるような感じがする。それが、本来の春木屋のラーメンとはちがう味にしているのではないか? コラボ企画で、春木屋から直に麺やスープを提供してもらってやっていると思うのだが、長年、培われた春木屋本店のコクはマネできないのだろう。でもこれはこれで、春木屋へ行くモチベーションにつながると思った。

    
 写真左・春木屋中華そば、日野に登場  写真右・春木屋ののぼり、はためく
  

2月18日 稀勢の里は早稲田で何を学んだか?

朝日新聞の主催セミナーで稀勢の里が登壇した。横綱稀勢の里は引退後、早稲田大学のスポーツ科学部大学院で学んだことがある。大学院の社会人講座は高校を出ていなくても入れるようだ。ここで稀勢の里は「どこに自分の相撲部屋を持つか?」という課題を与えれた。大相撲は両国国技館で行われるので、どの部屋も国技館に近い所にある。貴乃花のいた杉並区にある部屋もあるがいずれも都区内だ。稀勢の里も、土地代は高いが交通の便を考えて、都区内としたいと発表した。他の受講生のほとんどからは「今さら東京でないだろう。他県でもいいのでは?」の意見だったという。「土地代が安い」、「歓迎される」、「稀勢の里の地元・茨城県でもよいのでは?」等々、発想の転換を促す論点だったという。これに基づき、検討、調べていったら、茨城県牛久市が「ぜひわが町へ」と名乗りを上げたそうだ。牛久市は千葉県と隣り合わせで東京にも近く、出やすい。土地も安く1800坪も確保でき、土俵も2面、1面は地元のちびっ子相撲にも開放できると、将来性もある。新弟子がいっぱい入り、目下、空いている敷地に寮を増築中という。地元は大歓迎し、駅にも「稀勢の里・二所ノ関部屋歓迎」の看板も出た。学び、人の声、意見に耳を傾けることは大切と、稀勢の里親方は語っていた。

    
     写真左・稀勢の里のコーナー      写真右・対談終わり、退場
  

2月15日 寂れた温泉はどうするか?

裏磐梯のあと、那須の温泉に寄った。那須高原は行ったことがない。御用邸もある高級別荘地のイメージがある。板室温泉の宿を予約した。ナビに従い、那須高原インターを下りた。板室温泉は近くでないらしく、開拓農家が立ち並ぶような田園地帯をまっすぐ走る。途中には蕎麦屋、カレー屋、雑多のお土産やなどが立ち並んでいる。蓼科や軽井沢のイメージではない。広い高原の開拓原野と昔からの集落が混じったような風景だ。
目指す板室温泉も、奥まった山のどん詰まりのような谷あいにあった。予約した「温泉旅館・山喜」は外から見るとたいしたことないが、中に入るとこじんまりした宿で、部屋には温泉もつき、なかなかいい雰囲気だ。
夕方、温泉街を散歩に出かけ、驚いた。建ち並ぶ温泉宿のほとんどが廃館、休館なのだ。つぶれているのだ。小山の上にある温泉神社へ這い上がるようにして行った。ニ、三年前の祭礼で10万円を寄進した宿もつぶれている。コロナが廃館を加速したようだ。お土産屋もすべてつぶれていた。こんな温泉街では山喜一軒、がんばっても未来はない。山間いの村全体で考えなければ、発展性はない。インバウンドであふれる野沢温泉や白川郷の例もある。温泉の質は最高、こんなに入るのに抵抗なく長風呂できる湯もない。みんなで考え、人の手も借りて、復活に取り組んでほしいと山喜の人にも言ってきた。

      
      写真左・温泉神社         写真右・廃墟のような温泉街
  

2月15日 有栖川宮家別邸・天鏡閣

猪苗代湖を見下ろす、小高い丘の上に古い洋風な館がある。これは天皇家の縁戚にあたる有栖川宮家の別邸である。1907年(明治40年)有栖川宮威仁親王殿下が東北を御旅行中、猪苗代湖畔を巡遊した際に風光の美しさを賞し、当時の県知事平岡定太郎の勧めもあり、猪苗代湖を望む高台に御別邸を建設することを決定した。また、諸外国からの使臣や貴賓をお招きするための目的もあったようだ。1908年(明治41年)4月、雪解けとともに起工し同年8月に竣工した 。
なかなか瀟洒な建物である。昭和天皇の結婚のときの新婚旅行にも使われたそうだ。高原ホテルのサービスチケットで無料で入れてもらえた。改装したとはいえ内部は立派で、当時としては最先端をいった建物だったのだろう。最近は映画やテレビの撮影によく使われるそうだ。有栖川宮家はここに、東伏見宮家は蓼科に立派な別荘を持っていた。東伏見宮家の別荘はホテルハイジになって末裔が経営していたが老朽化で手離し、この春からオーベルジュ風の高級ホテルに生まれ変わるそうだ。天皇の縁戚というのは莫大な資産を持っているようだ。150年以上経った今でも、皇族は豊かに暮らせる仕組みができあがっていると見える。

      
      写真左・ 天鏡閣            写真右・立派な食堂間
  

2月13-14日 冬の裏磐梯は静か

以前、泊まったことのある裏磐梯高原ホテルから、割引券が送られてきたので泊りに出かけた。スノーシューの道具を携えて。このホテルはなんと言っても、部屋からの眺めがすばらしい。弥六沼を前景に、磐梯山の爆裂火口が目の前に広がる。冬なので弥六沼は真っ白だ。竹中工務店が、施工を引き受けていた発注者が倒産しそのまま建てて、竹中が引き続いて経営しているという変わったホテルなのだ。しかし、サービス満点、料理もおいしく、立派な図書館もあるすばらしいホテルだ。温泉も快適だ。スノーシューを履く必要もなく、ふつうの靴で五色沼めぐりができた。といっても、瑠璃沼止まりで、3つの沼を廻って帰ってきて、図書館の本を借りてのんびりと過ごした。展示室で図書館の歴史のような展示があった。見ると、公共図書館の戦後の取り組みのモデルは日野市立日野図書館に始まるとの紹介があり、ビックリした。巡回図書館は日野が第一号とのこと。当時は共産党の森田市長だった。「道路よりも、図書館を」掲げ、戦後24年間も市長を続けた、名市長だった。裏磐梯で日野市の功績を知るとは意外だった。森田市政のおかげで、市内を走る甲州街道は未だ、単線だ。日野を過ぎて、八王子に入ると複線になる。しかしバイパスができたので、よしとするか。森田市政健在である。

      
 写真左・ホテルの部屋から磐梯山を望む   写真右・凍った弥六沼の向こうに磐梯山
  

2月12日 稲門会カラオケで越路吹雪ショー

前日の11日の夕方、日野稲門会の幹事の方が訪ねてきた。「新春懇親会の出欠確認かな」と思い、「メールで出席の返事を出しましたけど」というと「それが今日でしてね」と言いながら、折詰弁当、缶ビール、お茶を手渡してくれるではないか。”今日”だということを、すっかり忘れていた。ではいつか?というと定かでない。「あるということは知っていて、それがいつかはわからない」。これは完全なボケである。歳をとるということは、こういうことか。それで急に思い出したのが、懇親会の翌日は稲門会カラオケだ。そこで、今日の参加となった。私はテーマを決めて歌うことにしている。今日はすべて越路吹雪の歌でいくことにする。最初は”ろくでなし”、次はサントワマミー。そして初めて歌う”ミロール”、出だしはまずまずだがセリフのところでつまずく、メロディがついていたような、散文調だか?適当にごまかして切り抜けたが、得意の”ラストダンスはは私に” のキーが合わない。散々な越路吹雪ショーになってしまった。さすがに「愛の讃歌」は「越路さんに失礼」と思い、スキップした。次は加山雄三ショーといくか。

      
   写真左・越路吹雪ベストアルバム       写真右・華やかなステージ
  

2月4日 石川県応援演奏会でのこと

石川県の地震応援のチャリティ・クラシック演奏会があるというので、市民会館に出かけた。クラシックは寝てしまう傾向があるので、ホールの最上段、最後部の席に座った。ここなら寝ても大丈夫と。前の方にひとりのおじさん。端の方の席に中学生くらいの男の子とお母さん。あとは誰もいない最後部の席だった。空いていたのだ。演奏が始まって驚いた。前の席のおじさんが体をくねらせながら聞いている。演奏のメロディ、リズムに合わせ、体を右へ左へくねらせ、時折、前にも体を倒す。指揮者のようだ。でも指揮者の動きとは少し違う。体全体で音楽を聴き、体内にメロディを取り込んでいるようなのだ。右前方の中学生を見ると、演奏に合わせ、両手を前へ 、右へ、左へ振っている。これは明らかに指揮者の動きだ。隣のお母さんは静かに見ている。演奏を聞くどころではない。前のおじさんと、右手の中学生を見ているだけで、すごく興奮してくる。最後のブラームスの円舞曲は最高潮だった。音楽は聴くものではなく、見るものだと知った演奏会である。

      
   写真左・チャリティーコンサート        写真右・最後部の座席から
 

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1 月

1月31日 海外、思い出のドライブ旅・「 オレゴントレイル」
 オレゴン・カリフォルニアトレイル アソシエーション

ミズリー州のミシシッピー川から太平洋岸のオレゴン州まで2000マイル(3200K)西部開拓の道は続く。1843年がその第一歩だという。
家族でグループで長い道のりを歩き、牛車に乗って春に出発、秋に到着の行程で半年かけて歩いた。今、その子孫は西海岸に道中のワイオミングやアイダホに住んでいる。歴史的なこの道を保存し、末代まで語り継いでいこうというのがオレゴン・カリフォルニア・トレイル・アソシエイション(OCTA)。会員の大半はこの道をたどってきた子孫たち、白人ばかり。この会に数少ない日本人として私が入ったのは30年前。それからソルトレイクシティ、ペンデルトン、キャスパー、スコッツブラフ、ロックスプリングスと5回の大会に参加し、今回は終着地のオレゴンシティでの開催だ。今回のタイトルは”End of the Trail and Beyond"だ。 この旅は2013年の夏、先月紹介したカナダ・ロッキー豪華列車の旅の前に、シアトルを起点とした。この旅のあとにカナダへ移動して、列車の旅に参加した。

      
   写真左・ミズーリ州の車のプレート      写真右・この車を牛に引かせて
  

  「フォートバンクーバー」

この日の朝、シアトルに成田から着いた。レンタカーでオレゴン州に向かう。大会が開かれるクラッカマスの町までは3時間くらい。高速5号線で一直線だ。偶然にも借りた車のプレートはミズリー州だ。今回のイベントにふさわしい。ミズリーからオレゴンまでがオレゴントレイルの行程だから。途中2回ほど、レストエリアで休憩し、コロンビア川を渡ってオレゴン州に入った。
クラッカマスはオレゴンシティ直前の町、会場の関係でより大きなクラッカマスになったようだ。クラッカマスインに荷物を置いて、会場のホテルに向かい、参加登録した。
記念講演を聴き、昼のサンドイッチを食べ、午後のワークショップは聞いても分からないのでスキップ、フォートバンクーバーに行くことにした。行き方を聞いたら、受付のおばちゃんが自分の車からナビを外してきて調べてくれた。オレゴントレイルのもうひとつの終着点でもあるのだが、対岸のワシントン州なので、あまり関心ないらしい。今朝来た道を戻り、再びコロンビア川を渡って、太平洋に向かって左折した。町を離れ、だんだん寂しくなった所にフォートバンクーバーの史跡はあった。もともとは、まだこの地がアメリカ領土でもない頃、イギリスのハドソンベイ会社が交易の場所として開いたものという。

  

その後、西部開拓の人たちが東から来て、コロンビア川沿いのダレスで山越えでオレゴンシティに向かうか、川を筏で下るか選択を迫られたとき、金のかかる筏を選んだ人が着いたのがフォートバンクーバーだった。金持ちルートの終着点なのだ。
その後、ここは軍の基地に転換したらしく、広いサイトに軍の施設とハドソンベイ会社の歴史的建物が同居している。ビジタセンターの横に日本語の石碑があった。「1832年に愛知県知多の漁師、岩吉、久吉、音吉の三人が難破し、アメリカの船に助けられ、ここに着いた。アメリカに来た最初の日本人」ということを記念するものだった。最初の移民の若松コロニーより30年以上前にも日本人は来ていたのだ。
この日の夜、会員ディナーがあった。一昨年のロックスプリングスで仲良くなったJeane & Robert Watson夫妻と再会、お土産の扇子を渡した。とても喜んでくれた。

      
写真左・フォートバンクーバー歴史保存地区  写真右・知多から流れ着いた最初の日本人碑
  

  「バローロードは有料道路」

東から来た開拓民は、終着点近くで最後の判断に迫られる。最短距離だが難路のマウントフッド沿いの山道か、それとも金のかかるコロンビア川筏下り。そこで既に到着していたSamuel Barlowが山道を整備し、有料道路を作った。それがBalow Roadだ。
ゲートは今でもレプリカがその地に残っている。有料道路といえども悪路には変わりなく、ゲートでは「こんな道に金払えるか、返せ!」としばしばもめていたそうだ。その道路入り口をじっと覗きこんでいる一匹の犬がいた。歩きたいのかな? 有料だったBalow Roadは、倒木や草に覆われ、それ沿いに造られた車道をハイキングした。
途中、 Woman's Graveという、あと一歩で半年の旅も終わるというのに、この場所で倒れた女性の墓があった。悔しかったことだろう。マウントフッドをきれいに望める所もあった。帰り道、フォスター農場に寄った。このフォスターは、ケンタッキーのフォスターとは関係ないが、バローの企画に金を出し、バローロードを一緒に造ったという。二人は有料道路で当て、広い農場を持てたのだろう。開拓初期の成功者なのだ。

      
   写真左・バーローロード建設記念碑      写真右・林の中の道に吠えている
  

  「滝からマウントフッドへ」

昨日のバローロードの案内書に出ていたMultnoma Falls へ行きたいと妻は言う。ヒストリック コロンビア ハイウェイルート30沿いにある。それならマウントフッドのTimberline Lodgeにも寄ってこようと大会には出ず、出発した。Multnoma Fallsはこの辺りの名所らしく、いっぱい観光客がいた。落差200mの滝は2段に分かれていて、その分かれ目にビジタセンターがある。メインの滝には遊歩道があり、それをたどっていくと二段目に流れ落ちる所に橋がある。橋を渡ったら、滝の上に行く道があった。行ってみることにした。
ところがこれが意外と長かった。下から見るとすぐなのに、山を大回りして登っていくので長い。やっと着いた。そんなに水流は多くないが、滝になるとかなりの水量になるのだ。滝見物のあと、昨日のバローロードを反対側から上る形のマウントフッドへの道を走った。Timberline Lodgeはまさに森林限界を越えた2500mの高さにある。マウントフッドの山頂がまじかに見える。まだ雪が斜面に残り、今でもリフトが動き、スキーができる。
アメリカのスキー選手の夏季トレーニング地でもある。一泊くらいしたい美しい所だった。

      
    写真左・美しいマウントフッド  写真右・バーローロード有料入り口
  

  「End of the Oregon Trail」

本命のオレゴンシティツァーの日。まず行った所が、The End of Oregon Trail Interpretive Center、最終地〆の博物館だ。それらしく、階段にはオレゴントレイルの主要地点が刻まれている。
スコッツブラフ、サウスパス…。この町にはいくつもの開拓者の家があり、それを周るウォーキングも楽しそう。今日はバスで主要なマクローガンハウスなどを周った。昼食は公園の屋根のついたベンチでサンドイッチ。このとき、端のテーブルにバックパッカーのような若い女性が現れ、様子がおかしい。熱中症かもしれないと、誰かが通報したのか救急車が来た。しかし彼女は乗ろうとせず、押し問答している、そのうちに”シガー、シガー”と叫んで我々のテーブルを周り始めた。手にタバコは持っているので、ライターを欲しいようだ。だが誰も反応しなかった。そのうちにパトカーが来た。救急車とパトカーで話をしたのか、今度はお巡りさんが何か話しかけているが、動こうとしない。業を煮やしたのか、お巡りさん二人がかりで、わめき叫ぶ彼女をパトカーに押し込んで立ち去っていった。のどかな町の静かな公園の思いがけないハプニングだった。

      
 写真左・End of Oregon Trail Historic Site     写真右・Oregon Trail 博物館
  

  「プレスリー降誕」

この夜、The End of Oregon Trail Interpretive Center前の広場で、サーモンディナーパーティがあるというので出かけて行った。広場には舞台が作られ歌手が歌っていた。舞台袖にエルビスプレスリーの写真が飾ってある。妻は喜んだ。「プレスリーショーもあるようなことを誰かが言っていた」と言う。それではと、サーモンディナーのあとは、舞台が見やすい高台に椅子を持っていった。OCTAのメンバーだけでなく、町の人がおおぜい集まってくるところを見ると、町のイベントに引っ掛けてサーモンパーティをやったようだ。確かに食べていたのは広場の一角に集まったOCTAメンバーだけだった。待つことしばし、暗くなりかけた頃、プレスリーは現れた。あの姿、あの歌、そっくりさんとは言えみんな興奮している。妻も、ラスベガスヒルトンのそっくりさんよりずっといい、と手拍子をとっている。確かに若く、動作も似ていて歌もうまい。中盤からは舞台近くに移動して、まじかに見て聞く。最後は握手会のようになった。妻にも「行け!」とハッパをかけたが、恥ずかしがって行かない。あとで悔やんだのではないか。

      
 写真左・クロージングパーティとエルビスショー 写真右・エルビス プレスリー
  

1月26日 1年ぶりの白樺高原スキー

志賀高原のスキーで右半身の痛みがなくなったので、腰と膝を動かすスキーは神経痛によいのではと思いながら、蓼科に帰ってきた。そこで、またスキーがやりたくなり、白樺高原に滑りにきた。ここは急斜面もないので安全だ。ただ人工雪なので、ゲレンデが硬いのが気にいらない。でも仕方ない、スキーが雪の硬さで流されないように膝を曲げ、スキーをおさえながら滑る。スノーボードの技術検定会をやってるらしく、いちばん好きなスロープは立ち入り禁止になっているのも気にいらない。甲信越ブロックの検定会らしいが、甲信はいいが越後新潟県からここまで来るには骨でないかと心配する。ゴンドラから見ていると、大半はきれいに滑っているが中にはこれで検定受かるかな?と思われるレベルの人もいる。スキー検定受験者は減って、若者はみんなスノボーに流れるのでは?と危惧する。ゴンドラとリフトを6回乗って滑ったら、「もういいや」となり、帰ってきた。鹿山の湯に久々に入り、コーヒー牛乳を飲んで満足した。

      
  写真左・スキー場からの北アルプス遠望  写真右・スノーボード検定前の練習か?
 

1月25日 荒野に希望の灯をともす

アフガニスタンの医療奉仕に尽力し、後半は荒野を灌漑で緑野に替える仕事に注力し、志なかばで凶弾に倒れた中村哲医師の記録「荒野に希望の灯をともす」映画会が茅野市民館であった。
これが見たくて、昨日、志賀高原から蓼科に帰ってきて、前売券を買いに行ったら売り切れ、当日券も買えるか?という人気だという。元々は3回の予定だったが、人気で2回増やしたというので、その増えた昼過ぎの回に入るべく早めに山荘を出た。市民館に行くと、もう数十人並んでいる。これなら大丈夫と思って並んだら、前の回で100人あぶれているのでそちらが先で、「みなさんはその次」と言うではないか。整理券をもらったら136番、300人収容なのでこれなら入れるだろう。係の人に、「なぜ千人以上入れる大ホールにしないのか?」と聞いたら、「まさかこんなに集まるとは思わなかった」と。
会場に入ったら、茅野市の敬老大会と思うほどのじいちゃんばあちゃんの集まりだった。映画は期待通りのすばらしいものだった。最初、医療に専念していたが、病気のもとは住民の食生活が貧弱なことだとわかり、作物を育てられる緑野を作ることが第一と考えた。そこで砂漠を畑に変えるべく、灌漑で水を引き、森を育て、水田、畑を作っていった。それにより、米、野菜が作れるようになって、住民の食生活は徐々に改善していった。さらに灌漑工事を広げる途中の暗殺だった。目標半ばでの中村医師の死は大きな損失だったが、その遺志をペシャワール会が継ぎ、団体で継続しているという。ただアフガニスタンの政治情勢で思うように進まない悩みもあるそうだ。中村哲医師の功績は、ノーベル平和賞に相当するのではないだろうか。

    
  写真・茅野市民館コンサートホール(映画会場)
  

1月24日 雪の少ない蓼科

暖冬のせいか、蓼科の雪は極端に少ない。庭の大半の地面は出ている。ここ二三日の雪で、少し覆われたものの、陽が照ると消えてしまう。この繰り返しで、なかなか積もるまでいかない。こんなことの繰り返しでこの冬は過ぎていくのだろうか? 新潟県に近い、奥志賀はそれでも雪が降ると、ひと晩で30センチくらい積もるが、この冬はまだ1mもないのではないか?やはり、冬はそれなりの雪が降ってほしい。冬らしい景色もそうだが、夏の水不足も心配だから。

      
 写真左・この日は雪が降った、翌日は溶けた  写真右・これで積雪は10cmくらい
  

1月22-23日 日野稲門会スキー

80過ぎのおじいちゃんばかりの日野稲門会スキーが、この冬も奥志賀で開かれた。八王子早稲田会(ここは稲門会とは言わないんだね)から、青木さんが参加され、まだ71歳の若者である。青木さんが言うには、スキー仲間も年とったら行かなくなり、今はひとりで白馬や志賀に来ているという。70でも歳なら、80は完全に要介護者だ。みんな歳だなと感じることがいくつかあった。昨年も来ていたO夫妻は、旦那さんの調子が芳しくなく、あまりスキー場まで歩きたくないということで、シャモニーに泊った。ブルーエと数十メートルしか離れていないのにと思うが...。Tさんは、夕食中に意識を失いかけ、「救急車!」との騒ぎになりかけたが、安楽椅子に座っているうちに平常に戻り、また食事に復帰した。次の日の法坂へスキーツァーの途中、もうひとりのTさんが「あんまり気分がよくない。ここで休んで宿に帰る」と言って、ダイヤモンドゲレンデでリタイアした。80過ぎの先輩が、次から次へと不調を訴えるのは、やはり老化なんだろうか? 明日は我が身である。

      
    写真左・日野稲門会スキー       写真右・奥志賀エクスパートコース
  

1月13 変わった所での中々連新年会

池袋「スタンドバイミート」で新年会、「おッ!洒落た所でやるではないか」と期待して行った中々連の新年会。駅から歩くことしばし、「このあたりかな?」と探すが、管板もない。通りの反対側に連長が苦笑いしながら立っていた。「ここ」と指さす所は通り側に張り出したビニールテント。テントの隙間から中を覗くと、狭いコンクリート敷きの上にテーブルがあり、26人分の箸と皿がびっしりと並んでいた。「ネットで調べて予約したらここだった」と言う。避難所での新年会の雰囲気だ。宴会の途中で、テントの外にヒョウが音を立てて降りだし、隙間から冷たい風が吹き込み、あわててザックを隙間に置く始末。「こんな所で盛り上がるのかな?」と思っていたが、酒が進んだら、いつのまにか大宴会になっていた。最後は鉦の音に合わせての阿波踊りをテントの中と奥のビル内の店を往復しながら踊り狂った。ネパール系の店員も笑いながら見守っていた。変な場所で変な感じの新年会もまたよきかな。(下の写真の宴会場はガラス張りだが、これは開店当初ではないか?道路にはみ出しているか何かで、テント張りに変わったのではないか?、枝豆の写真はつまみに出たもの、皮のまま食べれて美味であった)

          
 写真左・ガラスのような、ビニールのような? 写真右・意外とおいしい枝豆煮物
  

1月10日 豪徳寺参拝

久しぶりに川島夫妻と夕食を食べる前に、妻と一緒に世田谷豪徳寺をお詣りに行くことにした。高幡不動から下高井戸に出て、東急世田谷線に乗換え、チンチン電車のような車両で進む。宮の上という駅で下車、数分で杉並木がお寺に続く参道を歩いてすぐ豪徳寺の門に入る。この寺は。彦根藩井伊家の江戸菩提寺でこの一帯は井伊家の藩地であったという。寺のかなりの部分には井伊家の歴代藩主の墓が並ぶ。あの桜田門外の変で命を落とした井伊直弼侯の墓もある。その墓と共に有名なのは招き猫である。井伊直孝の時代、鷹狩の帰途、とあるお寺の前で猫が中に入るよう手招きをしていた。猫に従って中に入ると、大雨が降り、危うく難から逃れられたことから、豪徳寺を建てるとき、招き猫を守り神としたそうだ。寺では大小さまざまな招き猫を売っていて、それを買って、寄進すると福があるという。境内の一角には多数の寄進された猫が並んでいる。私たちも小さいものを2体買い、1ケは川島さんに上げた。「福がありますように」

      
   写真左・寄進された猫がびっしり        写真右・井伊直弼の墓
  

1月4日 「海保機進入許可なし」で思い出す「太郎小屋に人影なし」

元旦から、能登地震、羽田の事故と大事件が続き、大変な年明けとなった。羽田の事故では、着陸したJAL機、離陸しようとした海上保安機のいずれかのミスではと調べていたが、4日の朝日新聞に「海保機侵入 許可なし」の見出しで、事故の究明記事が出た。海保機の解釈違いが事故の原因らしいが、管制官の指示表現にも誤解を招くきらいがあるとのことで、今後、表現を変えるようだ。この記事でパッと思い出したのが、「太郎小屋に人影なし」の見出しだ。同じ朝日新聞の60年前、昭和38年(1963)1月の記事である。私が高校3年のことである。愛知大学山岳部13人が正月合宿で薬師岳に入ったまま、帰ってこなかった。この冬は大雪で捜索隊も難航、登山基地となる太郎小屋へなかなか近づけなかった。そして1月22日、朝日新聞のヘリコプターから本多勝一記者が太郎小屋に強行着陸して、誰もいないことを確認した。遭難が確実となったときの記事見出しである。全員遭難、最後の遭難者が見つかるまで、その後数年かかったという大事故であった。「許可なし」と「人影なし」には、おなじような悲劇の影が漂う表現である。

      
   写真左・  「進入許可なし」        写真右・「人影なし」
 

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