2009年 |
12月 |
12月19日 「雪はまり、ブルで救出、初すべり」 |
今年は暖冬予想。12月に入ってパラパラと雪が降るもののまとまらない。
金曜から初すべりの予定なのに、奥志賀は水曜になってもほとんど滑れない状態。行く仲間から「これでもやるの?」と不安の声が上がる。天気予報では週末は寒波とか。それを信じて決行と、金曜夜、東京を出発した。
「すごい降りになっている」とベルサルームズの三輪さんから電話があった。
志賀高原に上るまでは快調、雪道でモタモタしている車を何台も追い抜いた。
焼額から一本のトレースを、フロントグラスに時折かぶさる雪に進路を妨げられながらも、何とか奥志賀のバス停まで来た。ベルサルームズのあるペンション村への道は埋まり、グランフェニックスの玄関へはっきりしたワダチの跡がある。
ホテル玄関を越して行こうと、車を上らせ、玄関から反対側に抜けている下りに入った途端、雪の壁に突っ込み、動けなくなった。同乗の仲間がホテルからシャベルを借りて、雪をかき、往生しているときに、ホテルから助っ人現れ、「ブルトーザー出します」。蓼科のときのJAFといい、このホテルマンといい、こういうときの振る舞いはキビキビして惚れ惚れとする。
ベルサルームズへの道をブルトーザーの先導で進み、ペンションの駐車場まで除雪してくれた。このとき深夜2時過ぎ、歩いても3分くらいの道を、1時間近くかかった。お礼の挨拶をしているところに、後続車の仲間から電話、奥志賀バス停のポストの前で動けなくなったと。ブルトーザーは、次の救出にとって返して行ってくれた。グランフェニックスの井上さん、ほんとうにありがとうございました。
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12月11−13日 「ディズニーリゾート」
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ディズニーシーが出来てから行ったことのないディズニーランドに10年ぶりくらいで家族と出かけた。子供たちが小さい頃はよく連れていったものだ。
久しぶりに家族全員でクリスマスと私のバースディを兼ねて、ここで祝うことにした。ディズニーランドホテルに二泊する豪華版。金曜の夜、娘は仕事や授業を終えたあと、直行して来た。ダイヤモンドホースシューでのディナーショーが今日の夕食だ。ここも20年ぶりくらいかも?カントリウェスタン調の雰囲気は私は好きだ。隣のカントリベアジャンボリーも好きだ。いちばん好きなのはイッツアスモールワールドだ。ジングルベルと♪世界はひとつ♪をミックスしたクリスマスバージョンの歌に自然に頬がゆるむ。
間違って予約していた翌日の「ガイドツァー」は、大混雑の週末では正解だった。ファーストパスで長蛇の列を尻目にタワーオブテラーやスプラッシュマウンテンなど、効率よく楽しむことができたから。ガイドの北村さんに「ミッキーマウスは何人いるの?」と聞いたら、即座に「何をおっしゃるのですか!ミッキーはひとりに決まってるじゃないですか」と切り返された。レストランで愛嬌振りまいていたと思ったら、外のパレードでも手を振ってるし、ゲートでは写真撮影に応じているし…、ほんとかな?
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12月9日 「甲州街道ウォーキング(府中−日野)」
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甲州街道ウォーキングは毎回、何かの発見がある。府中から谷保天満宮の古い甲州街道は湧き水の流れる小川沿いに続いていた。今でも豊富な湧き水が、周りを潤し、武蔵野の面影を残す一帯となっている。
移築された古い茅葺屋根の農家には田んぼもあって、国立市の小学生が田植えをし稲刈りをしているという。昔の道しるべの一里塚は、府中では、NECの構内にあり、守衛付で案内された。昔の甲州街道は広いNECの敷地を横切っていたのだ。
アメリカ西部開拓の道、オレゴントレイルもアイダホ州のヒューレットパッカードの門で途切れる。HPの工場がオレゴン街道の上に建ってしまったからだ。私の勤めていた会社も罪なことをしてくれたものだ。私が住んでいる日野市内に入っても発見があった。江戸から9里目の一里塚がわが家の近く、万願寺のモノレール沿いにあった。ここは今でもこんもりと盛り土が残っている。そしてそこから、雪印工場を通って小児科のお医者さんの前の道が甲州街道だったとは知らなかった。子供が小さいとき、よく医者通いに連れっていった道なのた。
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12月4日 「静かな山荘」
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♪しあわせって何だっけ…キッコーマン、キッコーマン♪という明石家さんまが歌うのをテレビで見るたびに、私も「幸せってなんだろう?」と自問する。
雪がちらつくこの季節、山荘に一人で居て薪ストーブのゆらゆらの炎を見ていると、「幸せだなあ」と実感する。この時間だけは、何も忘れてストーブの炎だけが話相手だからだ。外は凍てつき寒く、ログの10センチの壁を隔てた家の中は20度を越す暖かさ。この断絶感がなんともたまらない。そして物音ひとつしない静寂感。道路に雪が積もるとなおさら静かになる。通る車が減るからだ。「赤い炎と白い雪」が幸せ感の源かもしれない。
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12月2日 「インバウンド乗鞍」
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今日の乗鞍岳は白く雪が冠り、紺青の空に輝いてすこぶるきれいだった。
上高地の西糸屋山荘のご主人、奥原さんの「上高地外人事情」が聞けるとあって、出かけて行った。時間が少し早く着いたので、一瀬園地まで車を走らせ、美しい乗鞍岳の姿を堪能した。
昼食は参加者みんなで鍋の汁にソバを入れザルですくって食べる奈川地区名物の投汁ソバを食べた。そのあと、奥原さんの話。上高地の外人は個人客が多く、圧倒的に欧米からという。昨年まで多かった韓国からの登山客は今年は少ないという。円高と韓国も不況で激減しているようだ。外人登山客の不満は、山の中に入って、迷いそうな所にある標識が英語表示でないことが圧倒的だ。
迷う恐れのないメイン登山道はしっかり英語が表記されているのに、肝心の場所が日本語オンリーなのだ。まだまだ外人さんの日本での山登りには壁が厚いということだろうか?
乗鞍高原でペンションをやってる宮原さんは、アメリカ居住権も持ってられる方だが、奥さんの「日本へ帰りたい」で、ニューヨークでの仕事をやめて、乗鞍に来たという。温泉もない高原の宿にいかに外人の客に来てもらうかの苦労話は奥志賀のベルサルームズにも共通なので、こんどじっくり時間をとって聞きたいものだ。
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11月 |
11月25日 「初冬の一日」 |
11月に入ると、朝晩は零下になるので、帰るときは水道の凍結防止の水抜き、来たときは水入れ作業が必要になる。やっかいなのは水入れで、給湯器の追い炊き機能部分に水を通すのがいちばん面倒だ。手順通りにやってもなかなかうまくいかない。今回来たときも、水が流れず苦労した。給湯栓のバルブの締め具合が微妙な影響を与えるようだ。
水抜きで大変な部分は食洗機と浴室の混合栓の底に残る水だ。そのままにしたら、以前、食洗機は溜まった水が凍り、溶けるまで三日くらい使えなかったし、混合栓のバルブは二回ほど壊れた。やっとわかったのは、いずれの部分も水抜きするにはゴムホースを口にくわえて吸い出すしかない。吸ってみると、結構な残り水がある。風呂の給湯栓はいいのだが、食洗機は捨てる水を吸い出すのだから要注意だ。強く吸うと口の中に排水が入り込む。弱いと吸い出せない。この加減がむずかしい。こんな面倒な仕事を終えて、リビングに戻ると、初冬特有の日差しがダイニングテーブルに斜めに射し込んでいた。いよいよ冬になったと実感した。
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11月19日 「スタイルベイル総会」 |
奥志賀のホテルベルサルームズの経営母体は正確に言うとスタイルベイル有限責任組合だ。株式会社に代わる経営方式として、ペンションを買った2004年に出来た新しい仕組み。たぶん信州中野地区では初めての登記だったようで法務局もわからないことばかりだった。株式会社とちがうのは、損益計算書を出資比率別に作り、出資者は自分の確定申告のときに、これをドッキングさせて申告する。
例えば「給与所得+当組合損益」合算し申告する。組合が赤字ならば、税金が還付され、黒字なら追加して納税する。設立当初は大赤字だったので、出資者8名は税金還付でニッコリだった。だから微々たる黒字だと”もっと三輪さんの給料を上げて赤字にして欲しい。イヤ給与が上がると保育料が高くなるから困る”などのやりとりが出る奇妙な組合総会になる。出資者のひとり、森さんの新宿のオフィスで今年も組合員が集まり、総会を持った。
奥志賀からオーナーの三輪さんも出てきた。前年より、売上が伸びたものの、損益ではまだ赤字ということで、全員ホッとする。これから長期滞在する外人客に重点を置きたいが、昨今の景気状況では不安だ、まだ日本人客に頼らざるを得ない。週末に偏る日本人客中心になると、一週間以上の外人客の需要に応えれない等々、悩みはつきない。これからの戦略を春にまじめに議論しようということで総会は終わった。一年に一回ではあるが、ベルサルームズの今後を議論する機会をもつことは、惰性に流れやすいこの種のビジネスにとって貴重だ。
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11月17日 「甲州街道ウォーキング(芦花公園−府中)」 |
高井戸宿から府中宿までが今月の甲州街道ウォーキング。雨となった。傘をさしての歩きも悪くない。昔の旅人は蓑傘かぶって、ここを歩いたんだろうなと想像すると楽しい。調布周辺の宿場は布田宿を中心に国領、布田三宿、石原と分かれていて、当時は布田が大きな集落だったことがわかる。今では信じられないが。
調布は名のとおり、古代、調布(しらべぬの)という朝廷に献上していた高級布地の産地だったそうだ。歩くことも楽しいが、地名やその街の謂われもわかり、興味が尽きない。大国魂神社は甲州街道最大の神社。来月はここからわが町・日野までの16Kを歩く。楽しみである。
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11月6日 「森さん熱唱」 |
スキーで知り合ったドイツ滞在が長かった森さんは、ドイツ仕込の朗々たる歌声を響かせる。学習院時代、社会に出ても合唱団に所属して歌っているだけに歌唱力抜群だ。シューベルトの冬の旅など絶品である。その森さんがバリトン歌手”河野克典”さんに師事して練習した成果を発表するという機会にお招きを受けた。それもフランス料理つきだ。歌よりフランス料理に目がくらんで、躊躇なく参加させてもらった。
板橋の仏蘭西舎すいぎょく、立派なピアノもあり、ディナーショーにはうってつけの店である。河野さんの教え子5人の発表会だった。習っている方も多士済々、甲府から来られている女性、イタリア歌劇を歌い上げるプロ顔負けの女性など。森さんもうまい。特に歌い終わったときのニッコリと微笑むのは、「幸せだなー、ボカー」の感じが出ていてすこぶるよろし。歌も料理もワインもおいしかった。森さん、ありがとうございました。
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11月3日 「秋の雪」 |
昨晩から雪になるかもしれないとの予報があたり、夕飯を食べている頃から外が白くなり始め、玄関の戸を開けたら、吹雪いていた。これは大変と、車を上の駐車場から下の駐車場に移動させた。上は道路から下がっているので、まだスタッドレスにしてない車なので、雪が積もってしまうと上がれなくなるおそれがあった。
明けて3日文化の日、周りは時ならぬ雪景色。こんなに早く降るとは予想外だった。車が走れるか心配だったが、日ざしが出たら、昼ごろには道路の雪は消えた。それにしても慌てたあまりにも早い文化の日の雪であった。
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11月2日 「黄葉とマツムシソウそして山荘内塗装」 |
マツムシソウは7月のニッコウキスゲが終わると咲き出し、8月は八子ヶ峰を彩る花だ。ほとんどは9月にもなると花を落としてしまうが、頑張ってこの頃まで咲き残っているのもある。カラマツの黄葉と共存するものもある。ここまで頑張られるととてもいとおしく、雪にも負けないで咲き続けろと励ましたくなる。
今年も、小津映画祭も終わり、一段落した。しばらくはお客も来ないこの頃をねらって、風呂場の塗装をする。木のログ壁なのので時々、防水カビ防止の塗装である。オスモカラーの塗装液は臭いがあるので、しばらくは窓を開け放しにしておかなければならない。だからあまり寒くなるときびしい。しばらく使わない今頃がよい。新聞紙を敷き詰め、脚立を立て、天井塗装で液体がおちてきたときの用意に安全メガネをかけ、帽子も冠り、刷毛で塗っていく。妻はフローリング床のラッカー塗りを担当した。すべてを塗り終わると、1年が終わったような気がする。ご苦労様でした。
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11月1日 「古くて新しい小津映画」 |
蓼科高原・小津安二郎映画祭。必ず上映される小津作品、今年は「彼岸花」だった。佐分利信演じる父の一家の結婚話を中心とした物語である。娘(有馬稲子)には良家の息子との見合い話があり、父親はその気でいるし、母(田中絹代)はまとめに忙しくしている。そこへ娘の恋人の男(佐田啓二)が突然、父の会社に「娘さんと結婚させてほしい」と訪ねてきた。驚いた父親、「どこの馬の骨かわからない男にやれない」と拒否。そこから葛藤が始まる。妹(桑野みゆき)は「お姉さんがつきあっている人は、しっかりした素敵な男性、あの人なら大丈夫」と姉を援護する。そこへ京都の知り合いの娘(山本富士子)が、お母さん(浪速千恵子)と喧嘩して家出してきたと、佐分利信に相談する。「好きな画家がいるのに、母は勝手に大坂大学の医者と結婚させようとしている。どう思いますか」、「それは自分で決めること、あなたの人生はお母さんが決めるものではない」と答えた途端、山本富士子は有馬稲子に「お父さんは自分で決めなさいと言ってるわよ」と電話する。二人の策略芝居だったのだ。
この話、古いが今でも通じる話だと思った。進学でも、就職でも、結婚でも、親が子供の希望を「なんやかや」と説得しにかかっているのは昔も今も同じである。それにしてもこの頃の山本富士子、有馬稲子、久我美子、桑野いずみがなんと若く美しかったことか。
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10月 |
10月28日 「秋の山荘周辺」 |
日増しに秋が更け行く。カラマツがまっ黄色に染まり、ハラハラと舞い落ち、車の窓ガラスに貼りつく。雨の翌朝、八ヶ岳の横岳や赤岳が白く輝いている。
いよいよ冬への助走が始まった。隣の戸田さんのドウダンツツジが真っ赤になり、それを借景に撮った山荘は絵葉書になる。朝晩は零度近くにも下がるのでストーブが欠かせない。薪ストーブを燃やし、灰はバケツにかき出し一日置いてさましてから庭の木や花々に撒く。ストーブ脇の薪が無くなったら、玄関横の薪を家に運び込む。そこも少なくなったら、ベランダ下に積み上げている薪の山から、ベランダ上に移動させる。この作業が日課となる。一年でいちばん美しくもあるが、あわただしい季節でもある。そして確実に冬はやってくる。
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10月25日 「車動かず」 |
昨日、温泉に行った女性たちを迎えに行こうと山荘駐車場の車のエンジンを入れようとしたが、キーがロックされエンジンがかからない。先日からブレーキ板に異常な音が出ていた。冬、雪道に撒かれた塩の影響で車体下をこまめに洗わないとブレーキ板がさびつき、異常音を発生させるという事態は以前もあった。
これに懲りて冬から春にかけての洗車は下部清掃をきちんとやっていたはずなのに、また発生した。そのまま走っているとエンジンがロックされ、動かなくなるおそれがあるということも聞いていた。
「とうとうやってしまったか」、みんなが帰って落ち着いた頃を見計らって、JAFに電話した。待つこと小一時間、レッカー車が諏訪から上がって来た。「あら、一昨日のお客さん!」とサービスマン、「あれまあ、またお世話になります」と私。
実は、一昨日、山の下の酒屋に入ろうとしたとき、左後ろのタイヤバンパーを側石に引っ掛け、バンパー角が壊れ、その部分がタイヤに刺さってあっという間にパンクした。「ガツン!ジュー!」という音が重なり一瞬、何が起きたかと思った。ジュー!はタイヤから一気に空気が抜ける音だった。予備タイヤは装備していなかったので、JAFを呼んだ。救援車に載せて、イエローハットに運んでもらい、そこでタイヤを交換した。そのときのJAFのサービスマンと同じ真野さんが山荘に来てくれた。ロックはハンドルを切りすぎて停車したことが原因で、ブレーキ板の問題ではなくすぐエンジンがかかった。真野さんは、「ブレーキ板もチェックしましょう」とタイヤをジャッキで上げて外して診てくれた。他のメカ回りもチェックし、「ブレーキ板は早急に換える必要があります。他は異常ありません」と診断、在庫の有無を茅野周辺のトヨタ販売店に電話してくれた。山荘からいちばん近いトヨタカローラが夕方までに部品を取り寄せるOKと返事があった。「もし移動中にトラブルあったら、遠慮なく電話ください」と言って真野さんは帰っていった。
同じサービスマンに一日置きに二回もお世話になり、彼のテキパキとした作業ぶりと思いやりのある親切な対応はまさにプロフェッショナルと感動した。車は動かないと、どうにもならいお荷物だが、”地獄に仏”とはこういうことと実感した日であった。車のブレーキ板は、夕方できるだけブレーキを踏まないようにゆっくり車を山から街へ走らせ、無事交換できた。
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10月24日 「山荘のカルテット」 |
秋の夜のコンサートも4回目、昨年は聴衆3人と寂しかったが、今年は聞く人は8人に増え、山荘は満員になった。フルートとヴァイオリンの伴奏でみんなで歌うプログラムも加わり、華やかになった。
チェロ片貝さん、ヴァイオリン荻島さん、渡辺さん、フルート風田川さんの4名の演奏者は昨年と同じ。9月にはみんなで練習したという。昼は、八子ヶ峰に登った観客も夕方6時には山荘のホールへ集合。クラシックから始まった演奏も、「出船」や「月見草の花」など、日本の歌曲も増え、腕前も確実に上がっている。
これまでの時々突拍子もない高音が飛び出したりするハプニングもほとんどなく、スリル感がなくなったのは寂しい。音はずれも聴く方にとっては楽しみだったのに。「幸せなら手をたたこう」、「この広い野原いっぱい」などポピュラーソングを数曲、みんなで合唱した。中でも「里の秋」は季節といい、山小屋といい、ピッタリで歌いながらジーンときた。
歌が終わって宴会は鴨鍋メイン、酒と会話で盛り上がり、再びのアンコールに風田川さんフルートの定番「小諸馬子唄」に初めて参加した人はビックリ、本人も今日一番の出来というだけの、心に沁みるメロディが山小屋に響いた。
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10月20日 「甲州街道高井戸へ」 |
甲州街道ウォーキングツァーの2回目は、新宿から高井戸宿までの約10キロ。京王線の駅沿いだ。旧街道もこの区間は今の20号線と同じ所を通っていたので、高速道路沿いの道としては味気ない。笹薮の中の一里塚なので「笹塚」、1082年・後三年の役のときに源義家が旗揚げした谷が「幡ヶ谷」、高い所にあった不動尊堂がなまって「高井戸」とか、名前の由来が興味を引いた。
明冶大学和泉校舎は江戸時代から明冶にかけて弾薬庫の敷地だったという。その隣の本願寺別院は関東大震災のあと檀家を築地から引越しさせた所で、樋口一葉、古賀政男、水谷八重子の墓所だ。佐藤栄作の墓もあった。
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10月18日 「秋たけなわ」 |
蓼科の秋は、八子ヶ峰の山の上は10月中旬から始まり、山荘周辺は20日過ぎ、そして麓へは下旬に下りていく。カラマツの黄葉は遅く、下旬から11月始めが盛んである。しかし今年は全体的に一週間ほど早く、今頃が高原全体の彩りが鮮やかのような気がする。
妻と二人で、晴れた日の昼過ぎ、カラマツの小路をたどってタウンセンターに下りていった。夏、あれほどにぎやかだった別荘地もこの季節はほとんど人気がない。珍しく滞在している家から交響曲が聞こえてきた。紅葉を愛でながら楽しんでいるのだろうか。木々が赤や黄に染まり、落ち葉が柔らかい小路はなんとも気持ちよい。誰もいないパターゴルフ場からは、グリーンの向こうに南アルプスの山々が墨絵のようなシルエットで浮かび上がっている。少し汗をかいた頃、タウンセンターに到着。新聞を買い、ソフトクリームを食べて、上りのバスに乗って帰ってきた。高原生活で幸せを感じるひとときだ。
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10月10日 「きのこ狩り」 |
結果からいうと、今年のきのこは不作であった。昨年採れた「これは」というきのこは何もなかった。跡形もないと言ってよい。
たくさん、いろいろな種類が集まったが9割は食用に適さずで廃棄、かろうじてイグチ系がほどほどに集まり、きのこ鍋ができた。参加者が途中で減り、4人しかいなかったのが結果的に幸いした。
今年は梅雨明けが8月中旬で、その後晴天が続き、9月にほとんど雨が降らなかったのが原因という。マツタケも不作で、マツタケ狩り農園は閉鎖に追い込まれたり、きのこ祭りでみんなにきのこ汁を振舞う予定が無理なので「紅葉祭り」に切り替えたなどの話が信州をにぎわわせた。中々連のお囃子方が三味線、太鼓、笛とそろい、きのこ鍋のあとは、お囃子練習会になった。山の歌のCDをかけたところ、所属していた山岳会の会歌があったりして、三味線の高須さんはしばし、昔の山の歌に浸っていた。
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10月8日 「台風がくれた楽しい旅」 |
明日10時日野駅できのこ狩りに蓼科に行く人をピックアップする予定なのに、台風接近で飛行機は今日は飛ばないという。私はまだ札幌にいる。急遽、列車で函館〜青森〜八戸経由で帰ることにした。10時半特急北斗で札幌を発った。
南千歳から満員、立っている人も出た。列車に切り替えた人も多いようだ。北斗では粋なサービスがあった。東室蘭までに注文すると、長万部の出来立てカニ飯か手打ちソバの駅弁を客席まで運んでくれるという。札幌駅で買ったやまべ寿司があるが、手打ちソバも食べたい。長万部までにやまべ寿司を片付けようと発注した。長万部を出てからしばらくして、たくさんの駅弁を抱えて販売員がソバを届けてくれた。結構買う人もいるようで、人気のサービスになっているらしい。
駒ケ岳は台風風雨のため見えず、雨降りしきる函館では八戸行きの特急白鳥に乗り換えた。白鳥は昔、大坂から青森へ行く特急だった。北海道と本州を結ぶ特急として復活していた。青函トンネルに入って津軽海峡を越えた。ところが白鳥は青森で運転打ち切り、弘前から来る特急つがるに乗り換えろという。
それも青森では1時間待ちだ。連続して買った八戸からの新幹線はやての指定券はどうなるのだろうと思いつつ青森駅の連絡線名残りの長いホームを小走りに急ぐと、駅員が何人も並んで、持っていた指定券と引き換えに2枚の指定券をくれた。それがこれから乗るつがるとはやての指定券だった。握りしめて青森駅で途中下車、青森名物を買い込んでまたホームに戻った。
超満員のはやても指定席で八戸祭り寿司とビールで乾杯!東京駅に着いたのが夜10時半、12時間の旅だった。でも、いろいろな駅弁も食べれたし、津軽海峡台風景色も見れたし、楽しい旅ではあった。
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10月7日 「札幌岳と岳文OB会」 |
私は岳文会創立50周年記念事業の寄付金担当をしている。その寄付お願いで各地の有力者を回っている。先週は名古屋に行った。今週は札幌だ。せっかく行くのだからと、山登りも入れた。
札幌岳、名前の通り、札幌市南区、定山渓温泉の近くにある。秋たけなわの北海道の山登りだ。同行者は岳文先輩の小野さんと、この6月に蓼科の山荘に来られた佐藤さん夫妻。
札幌市内とはいえ沢沿いに登り詰め、途中の北海学園の山小屋からは”北海道三大急登”と勝手に名づけた急坂を登り上げ、しばらく熊の足跡も残る尾根道を上がって頂上にたどり着く。登り3時間の長い行程だ。山は紅葉、特に岳樺の黄色が映えて美しい。頂上からは札幌市内が眼下に広がり、昨年登った空沼岳も見える。隣の山なのに遠い感じがする。風もなく、寒からず、穏やかな秋の陽が注ぎ、さわやかな山登りとなった。今宵の泊りは佐藤さんの弟さんの会社が持っている定山渓の温泉付きリゾートマンション、山のあとは温泉に限る。定山渓周辺は秋真っ盛りの赤、黄の美しい世界が窓に広がっている。温泉のあとは買ってきた寿司や奥様の料理で酒が進む。来年の内地の山登りは、紅葉シーズンにしようと約束した。
翌日は、今回の旅の目的の寄付金お願いで先輩の森さんを訪ね、快く引き受けていただき、夜はすすきので北海道在住のOBによる懇親会を開いた。北海道には10名のOBがいるが、そのうち7名が出席してくれた。年代はだいぶ違うが、ワセダの岳文会で青春の一時期を過ごしたという共通項が、初対面でもあっという間にうちとけ、二次会まで繰り出した。”よきかな青春のあの日あの時”が話題の中心になる。
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10月3日 「こんな日もある」 |
日ごろ、山荘に来ると結構あわただしい。ゲストハウスを使ってくれた人が帰ったあとに来ることが多いので、掃除、洗濯、ベッド替えなどでほぼ一日はつぶれる。それに草刈り、薪割り、山荘周辺の後片付けなども加わり、いつも何かに追い回されている感じだ。
原稿書きや読書など、いつもたくさん持ってきてまた東京に持ち帰る始末だ。
それでも、雨の日が続くと外の仕事ができないので、パソコンの前に向かう時間が多くなる。しかし、持ってきた宿題のような仕事にはなかなか向かわず、インターネットであれやこれやらを検索していて日が暮れることも多い。ままならないものだ。たまに頼まれた原稿を書き終えて、ベランダに出て、お茶を飲んだり、新聞を読んだりすると、たいしてやってもいないのに、大仕事を成し遂げたような気がするのは不思議だ。周りのゆったりした環境がそんな雰囲気にさせるような気がする。
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9 月 |
9月28日 「インバウンド飯田」 |
長野県へ外人客をもっと呼ぼうという信州インバウンドサミットの今月の企画は飯田観光公社訪問。台湾を中心に農家体験&滞在プログラムを積極的に行っている。国内の中学校などの学生も受け入れていて、不良学生がこの体験で立ち直ったという話など、感動的だった。民泊農家で地の物の昼食を頂き、この宿のおかあさんの苦労話などを聞いた。若い人や外人が泊ってくれると、家族全体も若くなり生活の張り合いが出たと、苦労より得るものが多いようだ。
りんご園や天竜下りの発着場を回った。
ドイツで盛んなグリーンツーリズムの日本版だ。今は団体客しか受け入れていないようだが、ドイツのように夏休みを中心に、長期滞在の個人客にも喜ばれると思う。日本人はお膳立てされたプランでないと休んだ気がしない向きがあるが、外人の個人客はいろいろな体験プログラムメニューを用意すると、自分で
選んで積極的に参加するので、飯田のような農業体験プログラムは面白いと思う。
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9月28日 「庄野潤三さんの葬儀」 |
第三の新人といわれた庄野潤三さんが亡くなった。庄野さんの小説が縁で知り合った今村邦雄さんの奥様のお父さんだ。小説に出てくる生田の山の上にある春秋苑で葬儀が執り行われた。妻と一緒に参列した。
今村さんも奥様の夏子さんも、よく蓼科の山荘に来てくれる。巻き割りやストーブ炊きを指南してくれたのは今村さん、夏子さんには庭のアナベルを植えて育てていただいた。この山荘には欠かせない恩人だ。葬儀のあと、メールを送った。「新聞の追悼記事を読んで、自分が庄野潤三さんの小説を好きになった理由付けが理解できました。[小説にはどんでん返し、争い、葛藤、悲しみ、別れなどが付き物なのに 庄野さんの小説にはそれがない。平穏な家庭とその周りの日々が淡々と 描かれているだけだ。この安らぎが、この作家の特色であり、独自の世界で、追随する作家は他にない。多くの読者はこの平和な日々を愛しているのだ]と。私も40台の半ばに図書館から何気なく借りた庄野さんの一冊から、「こんな幸せな家庭が世の中にはあるものなのか。自分のこれからもこうありたい」と感じました。そしてそれからはまりました。ですから、以前、夏子さんから「頭を悩ますようなことは、父の耳に入れないように気を使っている」とお聞きしたときには、小説の世界を維持するために、身内全体ですごく努力されていることを知り、驚きました。頂いた「けい子ちゃんのゆかた」のあとがきの夏子さんの文章にも、介護してくれるいろいろな方々が「いい人」として描かれ、介護が楽しくなるような感謝の気持ちがあふれています。みごとに父潤三さんの世界が、夏子さんにも乗り移っていました。
実際には、ここ二三年、みなさん、大変なご苦労だったと思います。まさに小説と同じように平和な最後だったということをお聞きし、みなさまも悲しみよりも安堵の気持ちが強かったのではないでしょうか。とてもすばらしい弔辞も聞かせていただき、印象深い告別式でした。妻ともども、出席させていただき、良かったと思っています。今年は無理でしょうが、落ち着かれたら、来年の春、桜かタンポポが咲く頃、蓼科においでいただければと、期待しております。」
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9月27日 「八ヶ岳山麓ロングトレイル」 |
八ヶ岳を一周するウォーキングルートを整備しようという”八ヶ岳山麓ロングトレイル”のトレッキングに参加した。黒曜石の巨岩を見て横谷渓谷を歩くコース。思いの他、90名もの参加者がいた。麦草峠に近い冷山の森の中に、黒百合ヒュッテの米川さんの先導で入っていく。獣道のような藪を、木にぶらさげてあるテープを目印に進む。黒曜石は和田峠が有名だが、ここのものは純度が低いため、採掘されず巨岩のまま残ったという。コケに覆われていて、これが黒曜石と言われなければわからない。所々、露出していて、キラキラと光っている。さらに藪の中のルートを下り、横谷渓谷に出た。いくつもの滝がかかり、美しい場所だ。10月の紅葉のときなら、もっときれいなことだろう。参加者の多くは年配のおばちゃんだが、みんな元気がいい。脱落者もなく、6時間のトレッキングは終わった。
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9月26日 「キツツキに壁つつかれて」 |
”ドドド、ドドドド…”という大きな音がゲストハウスの上の方から聞こえてきた。何事かと二階の洋室の窓から見たら、屋根の庇の下に直径5cmくらいの穴が
開いてるではないか。キツツキの仕業だ。天井と屋根が一体となっている内部からはガサガサと音が聞こえる。中にもぐりこんでいるキツツキもいるようだ。棒でドンドンと叩くと静かになる。巣でも作られたら困る。
大工さんに来てもらったら、高すぎて足場をかけないと塞げないという。CDなど光るものをぶら下げると予防になるというので、とりあえず軍手片手をまるめ、それに紐にぶらさげたCDを輪ゴムで止めて、枝切りバサミの先につけて、穴に押し込んだ。応急処置はうまくいくか?
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9月19日 「甲州街道ウォーキング」 |
甲州街道は日本橋から甲斐、信濃へ抜け下諏訪までの220キロの街道だ。
中仙道と諏訪大社でぶつかり終わる。この道を毎月22回にわたってつないで
行くウォーキングの案内が新聞に出ていた。
私の住んでいる日野もその宿場、蓼科の麓の茅野も通る。働いていた当時、
オフィスがあった高井戸も宿場だった。縁深い甲州街道を歩きたいと思っていたので良い機会と、参加することにした。
初回は日本橋から新宿までの10キロ。半蔵門、平河町、お岩稲荷など、点でしか知らなかった場所が甲州街道という線でつながると、歴史的な発見もあり面白い。甲州街道、最初の宿場は元々、高井戸だったが、日本橋から結構距離があるので、その後、新たな宿場を設けた”新宿”が今の新宿。高遠藩の江戸屋敷は現在の新宿御苑、藩主内藤家の菩提寺も近くにある。伊勢丹前の追分は甲州街道と青梅街道の分岐点。などなど興味深い発見があった。このウォーキングツァーはだんだん江戸から遠くなり再来年の3月まで続く。全部参加できるかわからないがチャレンジしてみたい。
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9月15日 「秋の棚田は美しい」 |
上山田温泉の帰りは更埴から高速道路に乗ろうと思っていたが、途中”姨捨”という標識を見て気が変わった。
日経の土曜版で「下りてみたい駅」No.1が姨捨駅だったからだ。松本から長野への高地をスイッチバックしながら汽車が走り、姨捨駅のホームからは”田毎の月”で有名な棚田が広がり、その先に善光寺平が見下ろせる。収穫前の黄金色に染まる棚田は美しい。昨日は上山田温泉に行く前に、上田の稲倉棚田にも立ち寄った。ここも金色の稲穂が秋の日差しに輝いていた。信州は山の国、棚田は多い。先月行った”日本のチロル・下栗”も棚田の村だった。昔からの田んぼの風景が守られていることは心強い。大切にしたいものだ。
(右は稲倉棚田)
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9月14日 「タイラーさんの亀清旅館」 |
信州インバウンドサミットのリーダー・タイラーさんが若旦那として頑張っている上山田温泉の亀清旅館に、奥志賀ベルサルームズの三輪さん一家、それぞれの両親と私たち夫婦の四組が集まった。
去年からこの夏までの慰労会も兼ねた温泉旅行だ。外人客対応の極意をタイラーさんから聞くのも目的のひとつ。タイラーさんは、この旅館の娘さんと結婚しシアトルで働いていたとき、亀清旅館を閉めるという話を聞き、「もったいない」と、温泉宿再興に日本に来た。確かに建物や設備は古いが、今の時代は、この古さが見直されているという。特に、外人客には人気が高い。おもてなしの心で接すれば、古くてもなじみ客が増える。タイラーさん手作りの露天風呂もあり、大旅館にはないハートフルな宿であった。
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9月13日 「暗闇の一夜」 |
まだ外の明るさが残る山荘の夕方6時前、電灯がパカパカしたと思ったら停電した。そしてすぐ点いた。そんなことが、二、三回続き、そのあとの停電は長かった。雷もなく、台風も来ていない、雨は降っているものの、停電になるような天候ではない。だんだん暗くなってきて、以前、台風用に用意していたローソクを皿に三本立てた。下の娘が小学校の工作で作った蛍光灯の懐中電灯を台所に立てて、妻は夕食の準備を始めた。IH調理器は使えない。卓上ガスコンロで煮炊きする。そのままコンロを使う湯豆腐にメニューを切り替えた。こんなことは20数年前、日野の家で大雪で二日間、電気が点かなかった以来だ。ローソクの灯の中での夕食は、クリスマスの雰囲気だ。
管理センターにやっとつながった電話によると、どこかの電柱の変圧器に原因あるらしく、中部電力が一本一本、点検中だという。いつになるかわからないとも。こんな状態ではどうにもならないので、片付けを終えて、早めに寝ることにした。布団に入ってすぐに、電灯が点いた。すこぶるまぶしい。約三時間の暗闇の一夜だった。
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8 月 |
8月29−30日 「"中々連”初めての高円寺阿波踊り」 |
今月初めの中目黒からほぼ一ヶ月経ち、高円寺の阿波踊りの日がやってきた。一晩30万人もの観衆が集まる関東最大の阿波踊りだ。80以上の連が参加する。わが中々連も、初日はルック商店街からスタート、約30人の踊りは、3人のちびっ子を先頭に、奴、女踊り、男踊り、お囃子の隊列で進む。
外国の取材班が、われわれの前で延々とカメラを回している。提灯持ちの先頭の私の進路が遮られるほどだ。踊ってるうちに判ってきたのは、踊りのうまさではなく、隊列の組み合わせがカメラにはピッタリのようなのだ。まずちびっ子が可愛らしく先頭で踊り、次に奴踊りの女性、そしてその後ろに菅笠姿の女踊りの集団。他の連は男踊りが先、女踊りが先頭でも子供はいないなど。最初は提灯の私も対象かと思っていたが、そうでないと悟り、子供たちが写りやすいように端によけて先導したほどだった。翌日は、パル商店街から始まったが、次の南演舞場で待っているときに本降りになり、そこの踊りで切り上げることにした。大人たちはみんな中止でホッとしたようだが、三人のちびっ子は「もっと踊りたい」と泣き出したのに驚いた。大人より子供の方が雨でも一生懸命だったのだ。早めに終わったので、着替えでお借りした久保島邸が急きょパーティ会場となり、”焼酎中々”で乾杯した。中々連の初めての高円寺は、雨に降られたものの、パーティで盛り上がり、楽しく終わり、大成功だったと思う。
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8月26日 「日本のチロル」 |
私のヨーロッパでいちばん好きな所はチロルと言ってもよい。急峻なアルプスがチロルまで来ると、日本の北アルプスのような山容に変わる。それでもあちこちに氷河が残っている。麓の村から続くアルム(牧草地)が急峻な山へと続き、その斜面に牧畜の農家が点在している。雪に覆われている氷河の高峰と緑のアルム、ベランダに花があふれる家々、このバランスがみごとな絵になっているのだ。”日本のチロル”下栗は塩見岳登り口の大鹿村のすぐ近くだ。行ってみた。確かに本場チロル以上の急峻な斜面に村がある。村の向こうに南アルプスの聖岳から光岳への高峰が連なる。道路は狭く、前から車が来るとすれ違いに苦労する。アルムはないが、ソバ畑が狭い斜面に広がっている。雰囲気は確かにチロルだ。しかし、大きなちがいは、家々が貧しく、朽ちかけた建物も多い。瓦代わりに古タイヤを屋根に置いている所も多い。電柱もじゃまだ。集落に統一性がないのだ。観光地として村の建物や花々にも気を配っている本場のチロルと比べるのは酷だが、もう少し何とかならないものか。ロケーションとしては悪くはない。家々と電柱に気を配れば、もっと観光客が来るのではないかと思った。
泊った高原ロッジは村の最上部、村の小学校があった場所だ。昭和39年に建てたられた小さな体育館が残っていた。体育館の中には、校歌や夏と冬の学校風景の絵が昔のままにかかっていた。ここでは最盛期に200人の学童が急峻な道を通ってきていたそうだ。耳を澄ませば、昔、校庭だった広場から、子供たちのさんざめく声が聞こえてくるようだった。私が通っていた村の塩野町小学校を思い出し、旧き昔を偲んだ。下栗の村より、この学校跡地に深い感慨を覚えた。
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8月23−25日 「最後の”未踏峰”塩見岳」 |
一昨年、御嶽山に登って、日本の三千米の山はすべって登ったと思っていた。塩見岳が三千米あるとは思いもよらなかった。だから何としても来たかった。
去年は、すべて準備して「さあ出かけよう」としたときに大雨になり、出鼻をくじかれやめた。今年はお盆の梅雨明けになり、しばらく晴れが続くとの予報で、出かけた。
鳥倉林道に車を置き、山伏峠から塩見往復で制覇しようと考えた。山伏峠の小屋に泊り、朝早く、塩見岳に向かった。なかなか森林限界を抜けきらず、そのまま塩見小屋まで来た。そこからは三千米の山らしく岩場が現れ、頂上に着いたのはまだ朝の8時半。その先の北荒川岳方面を見ると、伸びやかな尾根が広がり、アルペンティックな雰囲気だ。このまま三伏に戻るのももったいなく、時間的にも早い気がした。思い切って、先の熊の平の小屋まで行き、そこで泊って戻ってきても悪くないと考えた。塩見岳西峰から急で長い北荒川岳への稜線を下った。途中、熊の平の小屋を朝早く出た登山者に数組会った。塩見の登りのここまで約4時間半っかかっていると言う。明日はそれをプラスして帰ってくればよいと思った。北荒川岳を過ぎると、潅木帯になり、お花畑も現れ、木の間越しに見える北岳の峻峰が美しい。かなり先の森の斜面に熊の平小屋の屋根が見えた。塩見の頂上から4時間半かかって小屋に着いた。ここも以前から来たいと思っていた所だ。山腹から流れ出る冷たい水で体を洗い、ひと息ついた。
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ひと息ついてビールを飲んだ。そこで考えた。明日、同じ道を10時間もかけて戻るのは能がないと。しかし車が林道に停めてある。調べてみると、北岳を通って、広河原までなら歩き8時間、戻るより短い。持ってきた地図はここまで。この先は地図なしだ。天気予報は明日もよさそう。ということで、翌朝、5時に熊の平を出て、間ノ岳へ向かった。
三峰岳までは結構岩場が続く。ガスの切れ間に間ノ岳の頂上が覗かせるが、かなり上に見える。途中のお花畑がきれいだ。ひとつひとつ岩峰を越えて間ノ岳。北岳はスキップして、八本歯のコルから広河原に下りたのが午後1時前、広河原小屋で生ビールを2杯飲んで、北沢峠行きのバスに乗った。峠から旧長谷村バスに乗り換え、伊那市に行くことにした。戸台から高遠へは村営バス、高遠から伊那市へJRバスに乗り継ぎ、伊那市駅前のビジネスホテルに入った。
お風呂に入り、フロントでサンダルを借りて、伊那名物のローメンを食べに行った。
翌朝、一番列車で飯田線・大島駅に行き、そこから一日二本だけの鳥倉林道行きの登山バスに乗って、林道に停めてあった車の前で下ろしてもらった。
結果的には縦走して一周まわって、戻ってきた。これだったら、最初から縦走で歩いてもよかったのに。
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8月16日 「久しぶりの車山」 |
日経土曜版で「○○ベストテン」紹介記事があるが、この土曜版では「ロープウェーで登る親子向けの山」。近くの車山がベスト3に入っていた。
白馬がNo.1、木曽駒ヶ岳が2位とベスト3はすべて長野県の山、ピラタスは圏外。そんなわけで、夏らしい天気に誘われて、妻と車山に行ってみた。5年ぶりくらいだろうか。シンガポールのモックさんと来たのは春だった。
蓼科からすずらん峠を越えて、白樺湖へ、真夏の日差しの中に緑がまぶしい。車山へのリフトは日経の影響か、家族連れが圧倒的に多い。リフトから見る白樺湖、蓼科山、八ヶ岳の峰々は、伸びやかで、山麓の草原は牧場のように見える。チロルの風景と重なり合う。晴れていると、こんなにも美しいのか。頂上からは反対側の霧ヶ峰の草原も美しく輝き、この一帯の美しさを再発見した。
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8月15日 「開会と同時に雨”諏訪湖花火大会”」 |
「ただいまから諏訪湖花火大会を開催します」と市長の開会宣言と同時に、それまでポツポツだった雨がザーと傘を広げなければならないような降りになった。次々とうち上がる特大のスターマインもビニールシートに流れ込む水を気にしながらの落ち着かない見物となった。50万人もの人出で、諏訪湖周辺は大混雑だ。長岡の花火に負けない人気だが、雨では楽しさ半分。超特大の最後のスターマインも傘越しに見る始末。昨年の諏訪湖新作花火大会も雨だった。花火はやはり晴れた夜空を仰ぎたい。花火が終わって山荘に帰ってきたときは雨は上がっていた。花火の時間帯だけを狙い撃ちにしたような雨であった。
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8月14日 「初めての廃材片付け」 |
山荘を建てたとき、余った材木を薪や何かの用にと、ベランダ下にビニールシートをかぶせて置いてあった。6年も経つと、ビニールの下が気になる。シロアリに食われているのではないか? 湿気で腐っているのではないか? そこで思い切って、シートをはがし整理することにした。恐る恐る覆いをとってみると、一部は地面に直置きになっている木はアリに食われていた(ただシロアリではなさそうでホッとする)。大部分は、きれいなままで、薪にするにはもったいない材木もいっぱいあった。とりあえず、焚きつけ以外に使い道のなさそうな薄くて長い板をチェーンソーで切ることにした。その途中でチェーンソーの調子が悪くなり継続不可。そこで雨にあたらない範囲に材木を固め、積んでその上に剥いだばかりのビニールシートを裏返しで囲った。何のことはない、ベランダ下の置く位置を変えただけの作業に終わった。しかし、無傷の廃材を確認しただけでも今日の作業の収穫はあったか。
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8月13日 「やっと夏が来た、もうマツムシソウ満開」 |
今年の夏はおかしい。8月に入っても雨の日が多く、盆入りになって、ようやく晴れの日が続くようになった。今日も朝からきれいな青空が広がった。
妻と一緒に八子ヶ峰に登った。先月はじめて歩いたこぶし3号線からの緩やかなコースを採った。林の木漏れ日が夏の森になっている。尾根に着いたら、マツムシソウがもう満開だ。山の上はもう秋の気配だ。梅雨から夏を通り越して、初秋の風情になっている。ハーベスト本館への道を下り、あかまつ1号線から、山荘に直接戻ってきた。車を使わず、八子ヶ峰を縦走できることを知った。
あかまつ1号線を歩いているとき、車から下りてきた人を見て、妻が「あ、小児科の先生!」と声をあげた。昔、子供がよく世話になった近くのお医者さんの別荘が、わが山荘のすぐ上にあることを初めて知った。世間は狭い。
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8月5日 「インバウンド諏訪・上山田」 |
海外からの観光客を長野県にもっと呼ぼうと、インバウンドサミット信州という組織があり、私もこれに参加している。今日は、”青い目の若旦那・タイラーさん”がやっている上山田温泉の亀清旅館での会合に行った。
タイラーさんは上田の英会話教室で教えていたこの宿の娘さんと結婚し、若旦那になった。その影響で外人客が多い。この日も若いアメリカからのお嬢さん二人が、近場の名所を聞いていた。ほとんどの外人は座禅、忍者、剣道、芸者など日本古来からの風俗などに興味を持つのだという。そういうものを紹介すれば、自分で行くという。すべてお膳立てする必要はないそうだ。興味ありそうなものや風習、イベントの情報をいかに多く集めて提供するかが、外人集客のポイントのよう
だ。
先月は、諏訪の真澄酒蔵で会合があった。ここにはセイコーエプソンで働いていたアメリカ人が日本酒の魅力にはまり、転職してきて、海外マーケット担当になっている。蔵元の奥さんの話が興味深かった。「彼が来てから、酒の売り方が変わったんですよ。おいしい酒を造ることが使命と一生懸命でした。彼は、酒の楽しみ方、パーティと酒の組み合わせなど、場作りの情報を海外のお客さんに紹介した。そうしたら売れ行きが伸びたんです」。旅館も酒屋も、味や設備だけでなく、お客に場の楽しみ方を提供してあげることが、海外からのお客様には大切らしい。(写真は諏訪でのもの、真澄酒蔵と御柱木遣りデモ)
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8月1日 「中目黒阿波踊り」 |
中々連を結成して初めての夏が来た。新人も多いことだし、場慣れも必要と、中目黒の銀座商店街の夏祭りの阿波踊りに参加することにした。
高円寺でしか踊ったことがなかったので、まず観客の少なさに驚いた。この日は横浜で花火大会もあったので、同じ東横沿線でかち合い、さらに少なかったのだろう。主催者のサービスは、高円寺にない親切なものだった。おにぎりや飲み物もたくさん、子供にはお菓子やジュースなどを出してくれた。
踊る連も18連と少なく、その割りに八の字周りのコースは結構長く、待ち時間もあまりなく、2時間半、ほとんど踊り続けていたような気がする。初めての人はとても疲れたようだった。まずはこれまでの練習の成果が少しは出たような気がする中目黒の阿波踊りだった。
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7 月 |
7月30日 「変な天気に鳥も変な所に巣作り」 |
梅雨明けが早かったのに、そのあとの天候不順が長く続く。今週来た岳文会の同期のメンバーも、北八ヶ岳トレッキングをあきらめ、先週に引き続き、またもの中仙道鳥居峠とあいなった。雨のときは中仙道に限る。帰ってきて、電気のメーター辺りから鳥が飛び立つのが見えた。鳥の巣ができているではないか。
せっかく2400円も出して買って吊るした立派な巣箱には見向きもしない。
鳥も立派な家より、ホームレスのような場所が好きなようだ。変な気候のときは、鳥も変な行動をとるのだろうか?それにしてもなんとも不可思議な7月だった。(右・高級巣箱、左・メーターハウス)
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7月18日 「もどり梅雨
驟雨の中の峠越え」 |
例年より梅雨明けが早いと思っていたが、案の定、もどり梅雨だ。
北八ヶ岳を歩こうという日に、昨日までの梅雨明けの空とうって変わって朝から雨。そこで急遽、中仙道鳥居峠に変更。昔の旅人は雨の日も歩いたのだから、という理由をつけて、奈良井宿に向かった。駅に車を停め、次の薮原宿までは電車で行き、そこから鳥居峠を越えて奈良井に戻ってくる。京から江戸への道中となる。
歩き始めた頃には、雨もほとんど上がり、しっとりと濡れた石畳の道は風情がある。しかし滑りやすく危険な石畳でもある。徐々に上るにつれ時折日差しも出て暑くなる。ちょっと汗をかいた頃、森林測候所跡の休憩所で、夕べ各自が作ったアメリカンサンドウイッチをほおばる。今回のはキャベツとベーコン、卵炒めの具が塩味もほどよくおいしい。
御岳遥拝所や木曽義仲出兵の硯水など歴史を偲ばせる場所にみんな興味深そう。鳥居峠からは下りになる。長い石畳の道を下りると奈良井宿は近い。わらじ履きの旅人と同じように、宿場に入る所に流れている宮の沢で冷たい水で喉をうるおし、五平餅で一服。みんな初めての奈良井で、この宿場の雰囲気を気に入ったようだ。タイムスリップの3時間の山旅だった。
山荘に帰ってきて、恒例の溝上さんの広島焼きパーティ。彼の腕前と味は年々上がっている。厚く重ねたお好み焼きをひっくり返す妙技に歓声が上がる。歩いたあとの空きっ腹に大きな広島焼きが、ビール、ワイン、日本酒とともにどんどん吸い込まれていく。楽しいパーティは深夜まで続いた。
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7月14日 「東急トレッキングコース」 |
先日、こぶしの小径を歩いたとき発見した八子ヶ峰への正規な登り口、いわば東急トレッキングコースの王道を歩いてみたいと思った。これまで登っていたのは”良いとこ取りコース”と言われるショートカットのコースだった。正規なトレッキングコースは長く時間がかかる。ショートカットは登りと下りが急だが短かい。それで敬遠していた王道はこぶしの小径とは逆に尾根に登り上げて行く所から始まる。山荘から登り口までは遠く、車で行くと下り口がちがうので車まで戻るのがむずかしいとあきらめていたが、車を鹿の湯駐車場に置き、循環バスで登り口近くまで行き、下り口のハーベスト本館から鹿の湯まで歩くのはそれほどの距離でないことがわかった。
循環バスで自分の山荘を通り過ぎるときは奇妙な感じがした。登り口からすぐに森林に入り、ゆるやかな森の道が続く。雰囲気のよい白樺やぶなの林の新緑が美しく、ショートカットの急な道より歩きやすい。45分ほど汗をかいたら、いつもショートカットで来る分岐に出た。そこからは歩き慣れたアルビレオヒュッテへの道、そして八子ヶ峰・東峰から西峰へ。今日は梅雨明けとか。遠く山梨県の山の向こうに入道雲が見えた。ニッコウキスゲの黄色い花も咲き出した。いよいよ今年も夏がやってきた。夏の装いの八ヶ岳から北アルプスを頂から見渡す。下りはハーベスト本館へ森へ入ったり抜けたりしながら、下っていく。左手にいくつかの別荘の裏手を過ぎてハーベスト本館に着いた。車まで歩いた時間は3時間半。ショートカットより1時間長いだけだ。コース案内では5,6時間と書いてあるのも敬遠する理由だったのだ。これなら、正規コースの方が楽しいではないか。
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7月12日 「アナベル」 |
先日、サマーランドで買ってきたアナベルの挿し木を庭に植えた。
山荘ができたとき、今村さんの奥様がお祝いに植えてくれたアナベルが6年経った今、立派な大輪の白い花を咲かせてくれる。これがいい。春に咲く花は多いのだが、お客がほとんど来ない。
夏になり絶え間なく山荘を利用する季節には肝心の花がない。シモツケソウ、キンバイやエーデルワイス、松虫草など夏に咲く花を植えてはみたが、すべて1年で終わってしまう。どうも雑草の勢いに負けてしまうようだ。アナベルは咲いてる期間が7月から10月までと長いのもいい。そこでアナベル主体にしてみようと思う。5月に挿し木をしたのは早すぎてダメだった。梅雨の頃が敵期らしい。
そこで何本かの茎を植木鉢に挿し木してみた。来年の春過ぎまで植木鉢で育て、それから庭に植え替えると園芸書には出ていた。これでやってみようと思う。うまくいくか?
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7月11日 「こぶしの小径」 |
山荘のある東急リゾートタウンは広く、いくつもの散歩道がある。よく使うのはあかしあの小径。山荘から歩いていけるし、ゴールは温泉。帰りのバス時間に合わせて行動するのがポイント、温泉に入ったあと上がってくると、また汗をかいてしまうから。こぶしの小径はスタート地点が遠いので行ったことがなかった。
近くまでバスを使い、妻と歩いてみることにした。午後2時45分頃、山荘前を通る循環バスを停めた。小径の入り口は薄暗く、少し荒れた感じだ。
何回か別荘地の支線を横切りながら下に歩くにつれ、きれいな流れのそばにちょっとした休憩所があったりして、雰囲気がよい。途中からからまつの小径に入り、東急リゾートホテルが終点。500円のソフトクリームをホテルのラウンジでゆっくり食べ、バス時間まで過ごす。このルートと楽しみ方も悪くないと思った。新しい発見。
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7月10日 「草刈十字軍」 |
6月半ばにやったというのに、もう草ぼうぼうになっている。
新緑が終わると、緑は急激に増え、庭は草に覆われる。再び草刈機の出動だ。雨が降ってきそうな空模様だが、庭に出て階段から始め、林の中に刈り込んでいく。草刈機の鋭い歯がうなりをあげてバッサバッサと草を刈っていく様はまさに草薮に攻め込んでいく感じで、昔、森林の草を刈るアルバイトの学生を”草刈り十字軍”と言っていたが、この言葉の意味、よくわかる。草を制圧して庭をきれいに整える正義の味方のような気分になるからだ。勢いあまって、せっかく花をつけようとしていたルーピンまで刈ってしまいガックリ。誤爆もある十字軍だった。
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7月7日 「朝顔市」 |
聖蹟桜ヶ丘の駅前で朝顔市をやっていた。初めて鉢植えの朝顔を買った。
リングが付いていてツルが伸びるのを手助けできるようになっている。
妻と二人で蓼科にしばらく来るので日野の家から山荘に持ってきた。心なしか、花の咲きが弱い。涼しすぎるのかと夜は室内に入れ、朝、ベランダに出した。赤と青の花が咲いた。まだいくつものつぼみがあるので、もっと咲いてくれそうで楽しみだ。朝顔をビニールの袋に入れぶら下げて駅から家路についたとき、「友がみなわれより偉く見ゆる日よ、花を買いきて妻と親しむ」という啄木の歌をふと思い出した。そんな感傷に浸るには朝顔が似つかわしい。
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7月1日 「剣岳”点の記”」 |
新田次郎の小説”点の記”が映画化された。剣岳初登頂を目指す、陸軍測量部と日本山岳会の登攀競争の物語だ。
柴崎芳太郎率いる剣岳に三角点設置が目的の測量隊は長次郎谷の名を残す山案内人のガイドで雪渓を詰め、ようやく頂に立つ。そこには、千年も前の錫丈があった。修行者が以前登っていた。初登頂ではなかったことを陸軍は恥と思い、登山そのものをなかったことにしようとした。物語はざっとこんな感じだ。
ストリーはいささか平板だが、すべてロケ、CG、空撮なしの、剣岳の頂上までカメラを担ぎ上げた映像の迫力はすばらしい。10年前に二回も行った秋の仙人池や池の平からの裏剣の紅葉が映し出され、あのすばらしい紅葉が蘇ってきた。日本の山の紅葉ベストワンを上げるとしたら、私は躊躇なく仙人池・池の平を上げる。どこから入っても二日は歩かなければ着かない僻地だが、お薦めの紅葉名所ではある。そこまで無理な人、山好きな人には「点の記」を見ることをお薦めする。
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6 月 |
6月24−30日 「札幌からのお客様」 |
小野さんは学生時代の岳文会の2年先輩、それ以来の山とスキーでの付き合い。この歳まで山もスキーも忘れず、人生の楽しみとして続けてきたのは少数。ほとんどの同僚も先輩もゴルフに走り、少しは山かスキーのどちらかをかろうじてやっている程度。小野さんは高校の先生として登山部の顧問、今は北海道山岳連盟の重鎮でもある。スキーも私と一緒にヨーロッパへ二度も出かけ、新雪やバックカントリー好きの本格派だ。市民山岳講座の先生もやっていて、佐藤さん夫妻はその山登りの教え子。この三人がはるばる小樽からフェリーで新潟経由で蓼科にやってきた。昨年9月に札幌近郊の空沼岳に一緒に登ったのが縁で、「内地の本格的山陵を歩く」になった。これから一週間、信州の山を一緒に歩こう。
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6月25日 「八ヶ岳(赤岳)」 |
まずは蓼科に一番近い八ヶ岳。やはり主峰・赤岳を外せない。美濃戸にいる岳文会後輩の三木君を誘い、リーダー格で案内してもらうことになった。彼も今は、山に復帰し、武蔵野市の山岳講座のリーダーをやっている岳文OB少数派だ。赤岳鉱泉を経由して、行者小屋から地蔵尾根の急登に挑んだ。それまでの新緑したたるのどかな山道から、岩肌ガリガリの尾根は階段、鎖が続く。一気に700m上げるだけあって、佐藤さんも苦しそうだ。やっと稜線に出てひと息つくと、頂上小屋まで行こうと、さらに2900mの赤岳まで登り上げることになった。途中、オヤマノエンドウのブルーの美しい花にしばし憩うものの、そこからの鎖の岩は、「北海道の山とはちがう」と佐藤さんもバテバテ。9時間の登りだった。山小屋に泊るのも初めてらしく、すべて珍しそうだった。食堂から広がる下界の安曇野の夜景にうっとり。ことの他、山頂からの光景には感激していた。
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6月26日 「八ヶ岳(阿弥陀岳)」 |
頭がぼーとして船酔いみたいと佐藤さんご主人は言う。軽い高山病らしい。小野さんも同じようで朝ごはんをかなり残していた。今日も良い天気。赤岳頂上直下は急傾斜で鎖やはしごの連続。やっと中岳ののびやかな草つきの鞍部に着き、ホッとする間もなく中岳、阿弥陀岳の急な登りに挑む。遠くに富士山が雲間に頭を見せ、北岳も甲斐駒の左にその秀峰を覗かせている。そんな憩いのひとときも、岩続きの鉄梯子やらの緊張で吹っ飛ぶ感じだ。あとで佐藤さんご主人が述懐するには、阿弥陀の登りがいちばん怖く、足がすくんだと言う。奥さんは、そのあとの阿弥陀から御柱山への下りのロープ道が怖かったと言う。ガラガラに崩れる砂利混じりの岩場の急斜面に延びるロープに頼っての懸垂下降は初めての体験だったことだろう。
長い下りの途中にある不動清水の冷たい水で小屋で作ってもらった酢飯で昼食。岩から流れ出す清水の冷たさに感激。ここは天竜川の源にもなる場所だった。御柱山からまちがった道標で境界見回りの一直線に下っている道に迷い込むハプニングもあったが、三木山荘で冷たいソバを頂き、八ヶ岳登山は終わった。「内地の山は違うね。すごいね」が佐藤さん夫妻の感想だった。
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6月27日 「穂高変じて、蝶ヶ岳へ」 |
涸沢からザイデングラードを上がって、奥穂高岳へ登ろうというのが当初の計画。涸沢ヒュッテに電話したところ、ザイデンから上は12本爪のアイゼンと、頂上付近はピッケルが必要とのこと。四本爪と六本爪までは用意していたが、それ以上は必要とは思っていなかったので、急遽、槍穂展望台の蝶ヶ岳に変更した。上高地まではこの冬と同じく、蓼科から沢渡まで行き、アルピコタクシーの車庫に車を置いてもらい、タクシーで往復した。冬は1台しかないタクシーも、シーズンの今は20台以上で、活況を呈していた。徳沢で昼食の後、長塀山の道に入った。この登りは、30年前に、上の娘が一才足らずのとき、背負子で家族で登って以来だった。名前の通り、頂上近くまで見通しが利かない4時間半の登りは、途中から雪道も出てきて、佐藤さんの奥さんにはきつかったよう。小屋に着いたときは相当バテていた。小屋の屋根が見えてきた頃、稜線に出て、槍ヶ岳から穂高の連なりが見えた。みんな歓声をあげる。700円のビールを数本買って、北アルプスはじめての佐藤さん夫妻に乾杯。小屋では二階の一角をわれわれだけで使え、ゆったりと寝れた。
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6月28日 「回想の道」 |
あいにく朝の稜線はガスって槍穂のパノラマが見えず残念。横尾への下りで、木の間越しに前穂の岸壁や涸沢が見え、途中の切り開きでは槍ヶ岳が真正面に見えた。この下りは、30年前、雷雨に会い、滑って転んでは背負子の娘に一大事と踏ん張って下りたら、膝がつって歩けなくなった所だ。昨日の長い登りと今日の急な下りを見て、よく30年前には子供を背負って歩けたものだと自分でも驚く。あのときは蝶ヶ岳の小屋には泊らず、徳沢から一日で歩いた。やっぱり若かったんだなあ。そのときの娘も30歳、今では山に見向きもしない。頂上でのヨチヨチ歩きを見て「ウワー、こんな小さな子も登っているよ」と周りから驚かれたものだった。99%は私の背中だったのだが。
徳沢手前の新村橋を渡り、奥又白に逝った岳文会先輩の林さんのレリーフに参った。レリーフの前には昨夏、小野さんと行ったとき置いたキリンのロング缶があった。それから誰も来ていないということだろう。横尾で買ったスーパードライに切り替え、呑めなかったという林さんの代わりに、小野さんと私で頂いた。保冷袋に入れてきただけあって、まだ冷えていておいしかった。今までレリーフの前で飲んだビールではいちばんのおいしさだった。合掌。
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6月29日 「レンゲツツジ満開の霧ヶ峰」 |
蓼科の山荘最後の日も晴れた。日差しの角度に合わせて、テーブル、椅子を移動させて、ベランダでの朝食も日よけシェードの下。静養を兼ね、ビーナスラインのドライブとなった。霧ヶ峰はレンゲツツジが満開、草原一面が赤に染まり、ニッコウキスゲの黄色とは違った雰囲気だ。今年は、ツツジの当たり年とか。そういえば一昨年は「キスゲの当り年」と聞いたような。毎年、何かの当たり年にしているのでは? ツツジ越しに昨日登った蝶ヶ岳の稜線、その先に、槍ヶ岳、穂高、反対側を見ると、三日前に登っていた赤岳、阿弥陀の険しい山並みが見える。佐藤さん夫妻も、苦しさと楽しさを思い出してか、感慨深そう。美ヶ原まで車を走らせた。霧ヶ峰と美ヶ原は日本百名山に入っている。昨日までの苦労もなく、二つ片付いた。帰りは中山道、和田峠への道や和田宿を横に見ながら帰ってきた。「内地の山だけでなく、歴史も学べた」と喜んでいた。(次の日、黒四ダムを見て、再び新潟から札幌にフェリーで帰って行かれたが、なんと蓼科は雨になったのに、黒四はまだ晴れていて、その足で行った室堂からは剣岳まで見えたとか。天候に恵まれた人たちだった)
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6月〜30日 |
6月23日 「カナダからのお客」 |
6年前に山荘ができて間もなくやってきたシンガポールのMokさんの奥さんの弟Kahさん夫妻が、バンクーバーから奥志賀にやってきた。Mokさんから、「信州はいいよ」と聞いたので、日本の高原も歩いてみたいとのこと。前日、長野駅で待ち合わせ、善光寺、小布施、地獄谷の猿のおきまりコースを廻って、ベルサルームズに入った。翌日、志賀山、四十八池のトレッキングをした。昨日までの雨が消え、久しぶりの青空が戻ってきていた。志賀山への登山道は滝のような流れになっている所もあって、つらかったが、裏志賀山からコバルト色の大沼が見えて、カナディアンロッキーにも同じ色の湖があると感激していた。「日本の山は緑が美しい」とも言い、ベルサルームズのおにぎり弁当を味わいながら、周りの景色に見入っていた。帰りの熊の湯も、初めての露天風呂だったらしく、私以上に長い時間、湯に浸り、日本ならではの旅を楽しんでいた。カナダは信州以上の山と湖の国だが、「日本の山は雰囲気がちがい、温泉という日本独特の文化もあり、すばらしい」との感想を残し、バンクーバーに帰って行った。
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6月16日 「思わぬ雪?」 |
高
草刈りを終え昼飯を食べくつろいでいた頃から、空模様はおかしくなっていた。ゴーというトタン屋根を打つ雨音でテレビも聞こえなくなり、新聞を読みながらそのまま眠ったらしい。しばらくして目覚め、外を見て驚いた。緑の庭が真っ白に雪に覆われている。駐車場へのステップも雪化粧だ。軒下などたっぷりと積もっている。この季節に何事かと、長靴はいて外に出てみると、雪より粒の大きい、ヒョウがうず高く軒下に溜まっていた。高原の春から夏へ切り替わる儀式の日だったかもしれない。
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6月13日 「盛況「奥志賀倉重塾」」 |
昨年に続いて倉重英樹さんを迎えて奥志賀でのセミナー。評判を聞いてか、昨年より30名も多い80名の方々が奥志賀に集まってこられた。今年は森の音楽堂でセミナー、パーティは高原ホテルバンケットルームに分けたので時間にも余裕があった。セミナーは日経の坪田知己さんの話も入り、”日本の未来は「新しい働き方」にある”と題し、「人」に焦点をあてた。倉重さんの「自分を語ろう」というセッションは初めて聞く話も多く、興味深かった。パネルディスカッションはほとんどが質疑応答になってしまったが、若い人から次々と飛び出す、「そうは言っても」発言に、二人の講師はとても示唆に富んだ回答をされたと実感した。パーティのあと、会費千円の二次会にも大半の人が参加、奥志賀高原ホテルのラウンジは夜遅くまで、熱気に包まれた。まだそのあともベルサルームズで三次会をやったメンバーもあり、深夜まで倉重塾の余韻は広がっていった。
このセミナーでのまとめ的な内容を記すと、「自分の仕事を見つける」ことは「個の確立」であり、そのためには「自立・自律」が必要。「会社人間卒業」し、会社の枠にとらわれない生き方をすべき。しかし、それは会社を否定することではない。「会社ほど、ひとりでは経験できない多種多様な機会を与えてくれる所はない。自立学習の場所と考え、ここで修練することは必要」、会社を離れるのも良し、会社でがんばるのも良し、いずれの場合も「自立・自律した自分が納得できる生き方」をすることが重要。
昨年の参加者を加えると奥志賀倉重塾のメンバーも100名を越す。いろいろな分野や階層にまたがるこの集まりはとてもユニークだ、同窓会を作り、今回共催者のBPIA(ビジネスプロセス革新協議会)とも一緒に、東京でも集まる機会を広げようかとも考えている。
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5 月 |
5月23日 「みんなで山菜摘みに野に出る」 |
よく晴れた春の一日、極楽スキーの仲間8人が山菜パーティに集まった。まずは庭のタラノメ採りで山菜の摘み方実習をした。先生は山菜博士の吉田さん。
昨年の花の木連山菜採りに引き続いて来てもらった。軍手を通して突き刺すトゲに悲鳴をあげる人もいる。
スキー場へ繰り出し、ワラビ採り。ワラビは回りの緑と同化しているので、目をこらさないと見つけられない。先着がいたらしく、昨日確認しておいた一帯は採られていて少ない。昨年はゼンマイばかりだった斜面に行ってみると、そこがワラビの宝庫だった。いくらでも採れる。ワラビはゼンマイより後に出ることがわかった。トレッキングコース入り口近くの小さな清流にはセリがあった。そしてワサビ菜、コゴミとかなりの収穫だった。みんな山菜採りの面白さを実感し、ワサビ菜やワラビを家へのおみやげにした。
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5月23日 「ゴマ和え、天ぷら、手打ちソバ」 |
タラノメ、ワラビ、ワサビ菜、セリ、コゴミ、いっぱいの収穫で今晩のパーティの材料はそろった。平野さんはアナゴや海老を築地まで買いに行って持参、天ぷら粉まで持ってきた。自ら揚げてくれた。天ぷらの巨匠である。飯森さんは北海道のそば粉で手打ちソバを作ってくれた。昼の山歩きスタイルから麺打ちの匠に衣装も一新した。荒木さんはコゴミのゴマ和え、上尾さんはくるみとワサビ菜のサラダと分担してパーティの準備はでき、あとは「おいしい、おいしい」で酒とともに夜は更けていった。
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5月18日 「スイセン満開、山アジサイも順調」 |
久しぶりに晴れた。この週末はベランダのペンキ塗りに来たのに、今日までできなかった。ペンキ塗りの終わったベランダから晴れた庭を見ると、今村さんに植えていただいたスイセンが満開になり、庭はタンポポも咲き、花盛りになった。チューリップは残念なことをしたが。桜は今年もチョボチョボで花より葉が先に出てきてしまう。どうしたことだろう?連休のとき買ってきて植えた山アジサイも白い花がまぶしい。ベランダの階段を下りたところに植えた山アジサイとルーピンは萎れてしまった。この場所は花にはダメらしい。そばには小さなタラノメが元気なのに。庭の枕木のステップ沿いのスイセンも、下の池に近づくほど元気がない。周りが湿っぽいので、地下水の通り道になっているらしい。花にはどの辺りが適しているのか、だんだんわかってきたような気がする。
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5月10日 「アルビレオヒュッテ」 |
春霞のかかる暖かい日。春の日差しに誘われて妻と一緒に今年初めての八子ヶ峰へ登った。山荘の周りのカラマツは芽吹き始めたが、標高高い尾根のカラマツはまだ裸、春の光が林の中深く射し込んでいる。霞がかかってアルプスは見えず、八ヶ岳から蓼科山への稜線がぼんやりと見えた。天国の庭と呼ばれる草原とその先に建つアルビレオヒュッテの三角屋根が美しい。ヒュッテには珍しく管理人がいて布団を干している。この連休にはそれなりのお客がいたのだろう。外壁がきれいに塗り替えられていて、これまでなかった英語の表示が大きく書かれていた。管理人に聞くとお客がペンキも塗って、小屋名も書いてくれていったという。それにしてはプロ並みの技術だ。このヒュッテには八子ヶ峰を愛し、この小屋を愛する根強いファンがいるということを知った。
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5月10日 「タラノメ天ぷら」 |
山から帰ってきて、山荘の周りに生えている食べごろのタラノメを採ったら、結構な量になった。妻は天ぷらを揚げるのが苦手とかで、家ではあまりやらない。
カラッと揚がらずベタッとなるという。こんどの山菜パーティの予行演習も兼ねて天ぷらにトライすることにした。天ぷら粉と水は1対1、玉子は入れない。
油は180度c、IH調理器はこの温度を設定するとキープしてくれるので便利だ。
タラノメを水洗いして衣をつけて油に落として、浮いてきたら上げて紙を敷いた皿に並べていく。簡単じゃないか。意外とカラッとして、今晩のは成功の部類らしい。IH調理は天ぷらに適しているのかもしれない。タラノメのトゲトゲも油を通すとしんなりして気にならなくなる。おいしい。
みんなが来る2週間後はタラノメは二番芽が出ていることだろう。予行演習でまずは安心。翌日の昼食も残った天ぷらで天ザルソバと相成った。
楽しくおいしい一日。
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5月8日 「善光寺ご開帳」 |
善光寺の御開帳とは、奥の院安置されている誰も見ることができないご本尊の身代わりとなっている前立ち本尊の阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三体を七年に一度だけ公開し、拝むことができるというありがたい催しなのだ。
全国から信者だけでなく、観光客がいっぱい長野に集まってくる。長野県に住まいを持つとしては行かねばならぬ。妻と連れ立ってお参りに行った。前立ち本尊は有料ということもあってか、それほど待たずに拝顔できた。みんな真剣にお参りしているのでわれわれも家内安全、健康維持、極楽往生、一攫千金(宝くじ)などまとめて祈った。欲張りすぎたかな?もうひとつの人気は回向柱という木の大きな柱に触るとご利益があるとかで、こちらは無料ということもあって長蛇の列。こっちはあきらめて、代わりにお守りを買い、七味唐辛子を買い、ソバを食べて帰ってきた。来年はこれもまた七年に一度の諏訪御柱祭りがある。信州は七年に一度が好きらしい。
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4 月 |
4月29日 「小鳥はポストがお好き」 |
毎春、玄関の小屋型の木製のポストにオオルリが巣を作る。昨年は初夏の頃まで木の皮をポストに運んで巣を作っていた。途中でポストを開けて移動したりすると、危険を察知してか、そのあと来なくなる。途中まで作っていた巣が放置されていたので、巣作り防止も兼ねて、冬の間もそのままにしておいた。ところが春になって開けてみると、その上に新たに草やコケを積み重ねて、新たな巣作りが進行していた。結果として、営巣短縮に貢献したようなものだ。
ひんぱんに開けたり閉めたりしたので、今年も巣作り中断かと思っていたら、ポストの中から「チチッチチッ」という音がして、少し草が動くではないか。干渉を乗り越えての雛鳥誕生になりそうだ。こうなると春のポストは小鳥の家に明け渡さなければならないようだが、何とか本来の巣作りをしてほしいと、今日、暖かい春の日差しの中で、新しい巣箱をカラマツ林にひとつ架けた。できればこちらに移ってもらいたいのだが、もう遅いか。
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4月25日 「一週間早い今年の桜」 |
今年の桜は、3月末から寒かったものの、結果的には昨年より一週間早まった。いつもはゴールデンウイークに満開となる、蓼科聖光寺のソメイヨシノも25日でほぼ満開になった。昨年行って見ごろだった北信濃高山村の枝垂桜は、同じ4月25日に行ったがほとんどが葉桜になっていて、黒部のコヒガン桜が唯一落花盛んの様子だった。今年は、中学時代の同級生と行った。高校一年のとき同級だった飯沼君が、高山村でリンゴ園をしていることを知って、みんなで押しかけた。去年も雨だったが今年も雨、桜も散っていては所在ないので、温泉に入り、早々に奥志賀のベルサルームズに向かった。今晩は高原で同級会。志賀高原に上がるにつれ、雨がミゾレに、そして高天原のあたりでは雪に変わった。桜と雪が同居の春の一日。(左・聖光寺、右・高山村)
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4月23日 「チューリップ無残、スイセンは開花」 |
去年の秋に今村さんの奥さんが植えていってくれたチューリップ、先週来たときは葉が長く伸び、ゴールデンウイークは花盛りだなと楽しみにしていた。
ところが今日来たら、葉は根元からぷっつり、跡かけらもない。いくつかの球根はほじくり返され、土の上に転がっている始末だ。ガックリ。鹿かカモシカの仕業だ。片や、近くに植えたスイセンはすくすくと葉を伸ばし、枕木沿いの日当たりのよい場所は、もう咲き始めていた。こちらは無傷。
スイセンは動物に毒ということをわかっているらしい。これから、花や植木を選ぶときは、動物が食べないものを選ぶようにしなければならない。そういえば、いつも車で通るいっぱい花が植わっている手入れのよい別荘のチューリップは、柵に囲まれた花壇に咲いていたことを思い出した。
(左・無残やな、右・生き延びたスイセン)
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4月18日 「春スキー、最高!」 |
シーズン締めくくりの春スキー。まだ雪豊富の奥志賀は、春の日差しに輝き、低めの気温でザラメの雪も滑りやすい。本数は少なくなったものの、定期バスにリフト券で乗れるというのはうれしい。
奥志賀でひとしきり滑ってから、焼額スキー場にバスで移動、ダイヤモンドから一ノ瀬まで足を伸ばした。ここのBコースはほとんど人が入っていないようで、荒れてはいるが締まった春の雪をノンストップで滑った。「最高!」の歓声がみんなから上がった。一緒に来たオーストリアのクラウディアさんが「サイコーって、どういう意味?」と聞く。”Very
good"と答えたが、”Excellent”がよかったかな? マクドナルドの坂口さんからもらった「ハンバーガーをナメているすべての人たちへ」のジャンパーを着て、白川郷で買ったテンガロンハットをかぶって滑った。テンガロンハットは頭にピタッと入り、風にも飛ばされず快適だ。滑っているとき、私の背中を見て笑っている人もいて、注目度は高いが、少し恥ずかしかった。
クラウディアさんからは、マックに勤めているのか?と聞かれた。
夜はベルサルームズで焼肉パーティ。去り行く冬を惜しみ、到来する春、夏に楽しみを引き継ぐ夜であった。
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4月15日 「春の高山祭り」 |
飛騨の春の高山祭りに出かけた。14日は終日雨で、すべてが中止になり、ことの他、宵の屋台練り歩きが見れなかったのが残念だった。
15日は曇りから晴れて、満開の桜の中、宮川を渡る屋台が美しかった。
三番叟など三組のからくり人形舞台にはおおぜいの人が集まったが、外人がとても多い。カラクリの案内も英語から始まるほどだ。12台の屋台が夕方、それぞれの町に帰って行く光景も春の夕日と桜に映え、幻想的だ。楽しい祭りだったが、昼食の高山ラーメンの店でデジカメを失くしてしまったことが心残りだった。前日の白川郷の思い出がすべて消えてしまった。
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4月5日 「花見で阿波踊り」 |
一昨年まで踊っていた花の木連が解散し、阿波踊りのない夏をすごした昨年、誰からともなく”寂しい”の声があがり、”中々連”という新たな連を再結成した。
3月の末に、老人ホームで慰問、そして進発式をやって、今日は、井の頭公園でのお花見。当然のことながら、桜の下で踊ることが目的だ。
鳴り物は、鉦、太鼓、笛、三味線と豪華勢ぞろい。中々連のメンバー20名集まり、踊りも子供や他の花見客も飛び入り、だんだん輪が大きくなる。本来、音出しと踊りはダメらしいが、警備員も「私の背中が遠くなったらやってよい」と粋な計らいで大目に見てくれた。
青空の中、桜も満開、日曜とあって人出も最高。桜の下の阿波踊りはとても楽しかった。次は、夏の高円寺だ!
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3 月 |
3月29日 「バックカントリー草津」 |
この冬は雪が少ないというので不安だったが、今年も志賀高原観光協会のバックカントリーに数人の仲間と一緒に参加した。昨日までは暖かく雨模様だったが、よく晴れて気温も下がり、雪も締まって渋峠からの滑りは快適だった。前とはちがう芳ヶ平小屋の裏側へ下りていくコースは、潅木の間や、結構広い斜面があり、心地よい滑走だった。思いのほか雪は多く、草津に近づいた所で数十m、スキーを外して歩いた以外は、草津温泉のヘリポートに待っていたバスの横まで滑っていけた。どうも雪不足でスキー場閉鎖などと、一部だけ強調されて報道されているが、志賀高原や草津などは例年並みの雪が残っている。おかげで三月に入り、ペンションの客も減ってしまい、風評被害が出ている始末だ。迷惑な話ではある。
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3月1−7日 「ツェルマット」 |
極楽スキー仲間とチューリッヒ空港で別れ、ひとりツェルマットスキーのパッケージ旅行に参加した。日本からはJTBのツァーのようだったが、私は現地参加、フライト抜き。現地にある日本人向けの旅行会社が企画し、フライトだけを日本の旅行社がつけて販売している。だからJTBだけでなく、HISや近畿日本ツーリストなどもここを使っているようだ。日本から参加された方に聞いてビックリしたのは値段、ひとり37万円。私は現地へスイスフラン振込みだったが、約14万円、これにスイス航空のチケットを足しても20万円ちょっとで済む。
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「スイスの象徴」 |
マッターホルンはスイスのシンボル。この山が見えないときのツェルマットはつまらない。5日間いて晴れたのは二日、天候はサンアントンよりマシだったが帰る日は大雪になった。ここも、この冬は雪が多いという。ヨーロッパと日本の気象配置が今年は逆転したようだ。晴れた日にマッターホルンを横に見ながら滑るツェルマットのスキーはさすがにすばらしい。ゲレンデの大半が、森林限界を越えた草原や氷河にあるので、見晴らしは抜群。高いところではイタリア国境の標高3800mクライネマッターホルンまでロープウェイが架かっている。その広がりはフランスのヴァルディゼールの雰囲気だ。スロープの傾斜はそんなにきつくなく、楽しく滑ることができた。
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「新婚旅行のときの宿」 |
35年前の6月に新婚旅行でツェルマットに来たことがある。重いトランクを抱えてツェルマットの駅に下り立った所で、客引きに誘われてできたばかりのホテルに泊った。安旅行だったのっで、値切ったら、マッターホルン側でない部屋だったため、山を見るにはベランダの横に乗り出さなければならなかったことを覚えていた。携帯メールで妻にホテルの名前を聞いたら「ホリディ」と言う。このスキーツァーで他の人たちが泊っている名前もホリディだった。まさかと思いながら、そのホテルへ向かったら、だんだん35年前の記憶が蘇ってきた。ホテルのすぐそばにリフトがかかっていたこと、小高い斜面に建っていたこと。リフトは地下ケーブルカーに変わっていたが、そのすぐ近くにホリディはあった。レストランが増築され、30年以上経った建物は古くはなっているが、ベランダに昔の面影を残していた。部屋には小さなキッチンが付いていて、煮炊きしたら、換気扇を回せとメードさんが飛んできたことなど思い出した。今はキッチンはないと、泊っていたツァーのメンバーの人は言っていた。(右は35年前の案内書)
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「切れたザイル」 |
新婚旅行のとき閉っていて見れなかったマッターホルン初登頂のときのウインパー隊の「切れたザイル」をやっと見れた。1865年7月14日、ウインパーは仲間数人とツェルマットのガイドを連れて、それまで未登だったマッターホルンに挑み、みごと全員登頂に成功した。しかし悲劇はその帰りに起こった。前を下っていた仲間が岩を踏み外し、ザイルでつながれていた途中で切れ、三人の仲間がマッターホルンの岸壁に消えていった。まだ一人の遺体は発見されていないという。そのときの切れたザイルが山岳博物館に展示されている。長野県大町市にある博物館には、井上靖の「氷壁」のモデルになった前穂高岸壁の「切れたザイル」が展示されているが、ツェルマットのザイルはもっと古く150年も前の話である。こんな細いザイルに命を託していたとは信じられなかった。今日もその岸壁は雪煙に覆われていた。
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「スキーを持って列車はつらい」 |
ツァーとはちがうオーストリア航空のフライトだったため、私はみんなより一日早く、チューリッヒへ列車で移動しなければならなかった。ツェルマットからヴィスプまで登山鉄道で下り、そこからスイス国鉄の特急だ。ツェルマットを去る朝は大雪で、村は真っ白だった。駅前のホテルだったのでガラガラとトランクを引っ張っていけば簡単なのに雪ではそうはいかず、トランク、スキーと靴を二回往復して汽車に乗り込んだ。ヴィスプ駅での乗り換えはもっと大変だった。隣のホームに行くのに、エレベータやエスカレータはなく、乗換え用スロープをトランクを右にスキーと靴を左に抱えて下ろし、反対のホームへは引っ張り上げる。上りがだんだんきつくなり、大汗をかいた。特急に乗ったときはヘトヘトだった。ビールやスナックを売っているラウンジカーに行ってビールを買い、二階のソファ席で移り行くスイスの景色を眺めながら喉をうるおした。車内を見回すと、寿司を食べている人がいた。ラウンジには売ってなかったから、乗る前にスーパーで買ってきたのだろう。ランチに寿司が人気らしい。
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2 月 |
2月21−28日 「レッヒ・サンアントン」 |
今年の極楽スキー仲間の海外スキーはオーストリア・アールベルグ地方のレッヒ・サンアントンだった。サンアントンはオーストリアスキーの発祥地、隣のサンクリストフには国立スキー学校がある。いわば私のようにオーストリアスキーにかぶれていた者にとってスキーの聖地でもある。このエリアはレッヒ、ツールズの地域とサンアントン、サンクリストフの地域に分かれていてその間をスキーバスやポストバスがつないでいる。リフト券は共通だ。私たちはレッヒに1週間滞在した。レッヒは、英国、オランダ、スウェーデンなどのヨーロッパ王室が冬のバカンスで毎年スキーを楽しむ村で谷のどんづまりにある。村と言っても、グッチやプラダのブランド店がある高級リゾートだ。そんなヨーロッパ王室が滞在する村を見てみたいというミーハー的な興味もあり、レッヒにした。男女半々の8名のミーハー軍団は、チューリッヒから一路、オーストリアの山奥の村を目指した。
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「雪、雪、雪」 |
今年のヨーロッパは大雪だ。レッヒの村も2mを超す雪の中に沈んでいた。道路もスキー場もひんぱんに雪かき車が走っている。サンアントンにつながるアールベルグ峠を越す一本道は、除雪が間に合わなくて、朝など閉鎖されていることもあった。今まで、暖冬が続いてスキー場閉鎖に陥るほどだったヨーロッパのスキー場には久しぶりの大雪の年となったが、降りすぎることに面食らっているようでもあった。6日間滑って、晴れた日は一日だけ、あとは雪、雪、雪であった。新雪たっぷりのゲレンデなのだが、晴れていないと雪面が見えにくく、おいそれと新雪に飛び込むこともできず、切歯扼腕の日が続いた。たった一日の快晴の日は、サンアントンに行く日にあたり、明るい陽光の中に、小野さんや、菅野さんはくっきりとシュプールを刻んだ(左の写真・滑走中の菅野さん、右のシュプールは小野さんのもの)
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「五ツ星王室ホテルの味」 |
レッヒのレストランは正装しないと入れないという噂があった。そこで男性はブレザー、女性はワンピースくらい持参というオフレを出したところ、女性陣は相当悩んだらしい。せっかく準備したのだから、「ちゃんとしたレストランには一度は行きたい」ということで、ダイアナ妃はじめ英国王室御用達のホテルアールベルグに正装して最後の晩餐に出かけて行った。ホテルのレストランはイタリア料理だが、出てくる一品それぞれがすこぶる上品な味、それまで外で食べていたものが、しょっぱくて、これがチロルの味なんだろう、昔はオーストリアの僻地だった山奥のチロルは、日本で言えば秋田県「ハタハタ、ショッツル、きりたんぽ」などと言っていた概念をくつがえす薄味だがおいしい。さすがは五ツ星ホテルのレストランではあった。正装女性軍も満足な一夜であった。
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「スウェーデン軍雪上車で行ったレストラン」 |
もうひとつユニークなレストランへ行った話。到着した翌日の夜、ホテルのフロントで予約してもらったレストランに行った。そこはバスに乗って終点の村はずれから雪上車で3キロほど森の中にある。バス終点の雪道に、その雪上車は待っていた。後ろの車両に乗れと言う。その車両は窓もなく密閉されたまさしく護送車だった。われわれ日本人とドイツ人のグループがギューギューに詰め込まれ、キャタピラの激しい振動を受けながら雪原を疾駆していくようだった(窓がなく、外も暗くほんとうのところはよくわからない)。第二次大戦で負けた日本とドイツの捕虜のような気分に陥ったものだ。あとで聞いたら、まさしくこの雪上車はスウェーデン軍の払い下げとのことだった。こんな思いを抱きながら着いたレストランはカントリ風の田舎の一軒家で、雰囲気すこぶる良し。チロリアン風味のご馳走もおいしかった。少ししょっぱかったけれど。この店に行くために待っていたレッヒのバス停で、「日本の方ですか?毎年、ここに来ているが、日本人と会ったのははじめて」という上品な夫妻に声をかけられた。あとでわかったのだが、ご夫妻は私のオーストリアスキーの歴史にとても縁の深い方だった。
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「一日おきのクッキング」 |
Filomenaというアパートメントホテルをレッヒでは借りた。ヴァルディゼールやドロミテで借りたアパートよりすこぶる高級、値段も高かったが、設備やフロントの対応はそれ相応にきちんとしていた。ソバやうどんはいつものように持って行ったが、今回はカレーライスに挑戦することにした。挑戦とは大げさと言うかもしれないが、カレールーはともかく、8人分のご飯を西洋の鍋で炊くことが至難なのだ。昨秋のウイーンでは真っ黒になべ底がこげ、これを落とすのに四苦八苦、金ダワシを買ったほどだった。このときの試練で覚えたのは、「はじめチョロチョロ、なかパッパ」ではなく、「はじめチョロチョロ、なかチョロチョロ、赤子泣くともフタをとれ」だった。米の量が格段に多く、不安だったが、この流儀で炊いたところ、カレー用においしく炊けた。カレーもプルーンやら香辛料やら、太田明子さんが持参した魔法の調味料を入れたら、とても良い味となり、福神漬やラッキョウも味を引き立て、楽しいカレーパーティになった。翌朝は、余ったご飯はチャーハン、カレーはカレーうどんにして、余すところなく食した。ああ美味かな。
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「優雅なご夫妻」 |
方のレッヒのバス停で声をかけられたご夫妻に翌日、同行の渡辺さんが再び通りで会い、みんなでお茶をすることとなった。指定された五ツ星ホテル・ポストのコーヒーショップも格調高い所。このホテルはオランダ王室御用達。コーヒーを注文するにも緊張する。ご夫妻は久米さん、「日墺協会会長」の名刺をいただいた。スイス、オーストリア、ドイツで外交官生活をされ、ドイツ大使で退官された(これは帰国後、インターネットで調べてわかったこと)。学生時代からスキーが好きで、雲取山から奥多摩へも滑ったことがあると聞いてたまげた。そんなスキー好きの久米さんにとって、スキーが国技のオーストリアでの生活は快適だったことだろう。杉山進さんや黒岩達介さんなど国立スキー学校の卒業生や奥志賀グランフェニックスの田島さんやらで作っているサンクリストフの会のメンバーで、奥志賀にもよく行くという。そして奥様は、福岡孝行さんのお嬢さんと聞いてまた驚いた。私が学生時代に学んだオーストリアスキーメソッドの教程本のほとんどは、当時、法政大学の教授であった福岡先生の監修や翻訳によるものだった。まさに私のバイブルの師のお嬢さんが目の前におられるのだ。夫妻は毎年、2週間ほどこのレッヒに滞在し、スキーを楽しみ、日本では奥志賀が多いと言われる。まさにわれわれにとっての理想の生活をされていた。レッヒに日本人が少ないのは、たぶんスキーのパッケージツァーにレッヒがないからだと思う。このエリアのツァーは結構あるのだが、すべてがサンアントン泊なのだ。これは、このあと行ったツェルマットでその感を強くした。
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「ひざ掛け」 |
大雪の日、Stubenというスキー場に行った。リフト乗り場に面白いものを発見した。キルト仕立ての紺の毛布のようなものが山積みになっている(左の写真)。??と思ったら、一枚ずつ持ってリフトに乗っていく(右の写真)。そしてリフトの上ではひざ掛けにして足に巻きつけて長いリフトに揺られていく。寒さを和らげ、雪にも濡れないようにとの配慮のケットなのだ。リフトを降りたら返す。なんという温かい心遣いだろうか。膝したにケットを巻きつけていると、なんだかコタツの中に入ったままリフトに乗っているような気分になる。降りしきる雪の中、そのままずっとリフトに乗っていたい気分だった。大雪のスキーもまんざら悪くない。
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2月7日 「神々しい上高地」 |
この表現がぴったりの、これ以上望めない冬晴れの中に輝く白銀の穂高連峰は格別に美しかった。蓼科の山荘から沢渡まで2台の車で学生時代の山仲間9人で向かった。沢渡から釜トンネル入り口までタクシー。新しい釜トンネルは所々、照明がついていて広く歩きやすい。トンネル内の上りが、河童橋まででいちばん傾斜があったように感じた。大正池に近づき見えた穂高に息を呑む。ここから田代池に入り、静寂の冬の上高地を満喫する。河童橋のベンチでまずワインで乾杯、夕べ作ったサンドイッチとスープ、コーヒーと雪の穂高を垣間見ながらゆっくりと昼食。思いのほか人は多い。最近は団体バスで冬の上高地に来る人も多いようだ。前日、役場に確認したら、雪上にはきちんとトレースがついているので、晴れていればスノーシューはいらないという。そこでわれわれも登山靴だけで入山した。すばらしい冬の上高地ハイキングを終え、蓼科に帰ってきたのは夕方5時過ぎ、温泉のあとは恒例の鴨鍋パーティで、今日の幸運を祝い、高原の夜の山荘に笑い声が絶えなかった。
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1 月 |
1月31日 「ボケ防止によいスキー」 |
先日の朝日新聞の「ひと」欄に、私が青春の頃、憧れていたスキー・デモンストレーターの平沢文雄さんが紹介されていた。校長を勤めていた浦佐スキー学校は、今でもスキー技術志向の人たちの聖地でもある。あの平沢さんも74歳になり、最近は「団塊過ぎたらスキーを」と呼びかけている。
「スキーは全身運動でバランス感覚やとっさの判断力を養える。高齢者の体調管理に最適です」と伝道している。信州大学の先生も「ルートをどうとるかなど考えさせるので、スキーはボケ防止にも適している」とも言っている。
カービングスキーの曲がりやすさも加わり、今まで以上にうまくなるのも速くなり、安全性も高まった。私もそれは実感する。
今年の極楽・奥志賀も総勢34名、うち還暦越えが数名と元気だ。技術を追うスキーではなく、横手山のボルシチや、丸池の坦々麺を目指してひたすら滑っていくという食い意地主体のスキーだし、夜はペンションが歌声喫茶に変わるなど、スキーは老若男女をネットワークでつなぐ手段になっている。
10年前数名で始めたこの集まりも、ひとつのペンションに収まらない規模になった。まさにスキーパラダイスである。
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1月12日 「次女の成人式」 |
次女の景が成人になった。犬小屋に犬と一緒に入って遊んでいた頃の姿から思うと、今日の晴れ着は信じられないくらいだ。私も65歳、生まれたときは45歳だったので焦った。でもそれが、自分のその後の人生計画を真剣に考えるキッカケを作ってくれた。その意味では「人生の恩人」でもある。
私は、昨日まで札幌にいて、最終便近いフライトで帰ってきて、今朝は美容院や成人式会場への送り迎えに精を出した。本当は、休日なので、今日まで滑っていたかったのだが、人生に一度しかないイベントに粗相をすると後々までうらまれることを実感しているので、無理やり帰ってきた。
彼女が生まれたとき、私は一晩中呑んでいて、翌日、産院に行き、「遅い」と大ひんしゅくを買った。誕生も人生では一度しかないからね。
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1月9−11日 「スキーは札幌、ビールも札幌」 |
札幌は日本でいちばん、ヨーロッパタイプのバカンススキーが楽しめる所だ。
スキーはバカンスの手段であり、アフタースキーをサウナ、ディスコ、ショッピングなど楽しむスタイルがヨーロッパである。札幌にはすべてがそろっている。
そして札幌発着のスキーバスもいろいろなスキー場に行けて楽しい。
今年は、ルスツとフラノへ行った。フラノはリフト券込みで3,900円。
現地でリフト券を買うと4,000円。バス代込みの方が安いという不思議さもたまらない。ススキノで海鮮料理を味わい、そのあとは行きつけのスナックというのが定番になっている。札幌はビールの街でもある。ひたすらビールを飲む。
ビールだけだったのに、スナックの途中からは記憶が消え、気がついたらホテルのベッドで朝を迎えていた。
みんなに聞くと、「スナックのあと、ちゃんと別れの挨拶もしていましたョ」と言う。何も覚えていないのだ。それでも楽しい、札幌ステイスキーだ。
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1月4日 「雪のないお正月」 |
正月に山荘を使っていた家族が帰り、後片付けを兼ねて、妻と山荘に来た。
暮れに帰ったときは、ウッスラと雪化粧していたので、ある程度は積もっているだろうと予想していたのに、まったくない。すべて消えてしまっている。
こんなことは、山荘開設以来、初めてだ。やはり雪に覆われていない蓼科は味気ない。晩秋が年越ししたようだ。晴れた日に舞うダイヤモンドダストがなつかしい。いいこともあった。暮れにやり残していた薪のベランダ下からストーブ近くの玄関への移動が年明けでもできたことだ。いつもの今頃は雪が深くて、ベランダにも近づけないのに。季節には季節なりの装いが大切を実感した今年の蓼科の正月だった。
この季節のもうひとつの風物詩は、洗濯物風景だ。晴れていても外は寒く冷たい。干したとたんに凍りつくこともある。だから室内、特に薪ストーブ周りは物干し場と化す。ちゃぶ台や座椅子も洗濯物に埋もれてしまうほどだ。薪ストーブは火が落ち着くと、とても暖かく、大きなシーツもあっと言う間に乾いてしまう。冬の洗濯乾燥は室内にかぎる。
(その後、雪が降り、1月末にはいつも並みになっていた)
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