戊辰戦争で負けた会津若松藩は実質的に崩壊し、大半の武士は下北半島に追いやられ、彼の地に斗南藩を開いた。これとは別に20名ほどの武士たちは武器商人のドイツ人に連れられて、カリフォルニアのこの地に来た。エルドラドという黄金の地だ。若松コロニーという農場を開き、お茶や桑の木を植えた。1868年のことである。日本人第一号の移民であり、最初の農場だった。しかし三年で農場は破綻し、帰るべき故郷を失った武士たちは散りジリになった。そのドイツ人の子どもの子守として一緒にやってきたのが「おけい」。夕方になると、農場の小高い丘にのぼり、暮れ行く西の方角をじっと見つめ、はるか会津の故郷を思い出していたという。そのおけいは病に倒れ、19歳の若さでアメリカの地に没した。
若松コロニー史跡碑が今はゴールドトレイル小学校になった敷地に建てられ、小学校裏山の上におけいの墓がある。この小学校は会津若松の小学校と姉妹校になっていて、学校の壁には富士山や鶴の絵が描かれている。毎年5月にはOKEI
Festival
が開かれるという。ここで始めた日本式農業がその後、カリフォルニアの農業に広がり、おおぜいの日本人が農業や庭作りに参加するルーツにもなったと言われている。失敗はしたものの種はまかれ、日本人による西部開拓史の始まりの場所でもあるのだ。
ミズリー州のミシシッピー川から太平洋岸のオレゴン州まで2000マイル(3200K)、西部開拓の道は続く。1843年がその第一歩だという。家族で、グループで長い道のりを歩き、牛車に乗って、春に出発、秋に到着の行程で半年かけて歩いた。今、その子孫は西海岸に、道中のワイオミングやアイダホに住んでいる。歴史的なこの道を保存し、末代まで語り継いでいこうというのが、オレゴン・カリフォルニア・トレイル・アソシエイション(OCTA)。会員の大半はこの道をたどってきた子孫たち、白人ばかり。この会に数少ない日本人として私が入ったのは30年前。それからソルトレイクシティ、ペンデルトン、キャスパー、スコッツブラフ、ロックスプリングスと5回の大会に参加し、今回は終着地のオレゴンシティでの開催だ。今回のタイトルは”End
of the Trail and Beyond"だ。
7月23日 フォートバンクーバー
この日の朝、シアトルに成田から着いた。レンタカーでオレゴン州に向かう。大会が開かれるクラッカマスの町までは3時間くらい。高速5号線で一直線だ。偶然にも借りた車のプレートはミズリー州だ。今回のイベントにふさわしい。ミズリーからオレゴンまでが、オレゴントレイルの行程だから。途中2回ほど、レストエリアで休憩し、コロンビア川を渡って、オレゴン州に入った。クラッカマスはオレゴンシティ直前の町、会場の関係でより大きなクラッカマスになったようだ。クラッカマスインに荷物を置いて、会場のホテルに向かい、参加登録した。
記念講演を聴き、昼のサンドイッチを食べ、午後のワークショップは聞いても分からないのでスキップ、フォートバンクーバーに行くことにした。行き方を聞いたら、受付のおばちゃんが自分の車からナビを外してきて調べてくれた。オレゴントレイルのもうひとつの終着点でもあるのだが、対岸のワシントン州なので、あまり関心ないらしい。今朝来た道を戻り、再びコロンビア川を渡って、太平洋に向かって左折した。町を離れ、だんだん寂しくなった所に、フォートバンクーバーの史跡はあった。もともとは、まだこの地がアメリカ領土でもない頃、イギリスのハドソンベイ会社が交易の場所として開いたものという。
その後、西部開拓の人たちが東から来て、コロンビア川沿いのダレスで山越えでオレゴンシティに向かうか、川を筏で下るか選択を迫られたとき、金のかかる筏を選んだ人が着いたのがフォートバンクーバーだった。金持ちルートの終着点なのだ。その後、ここは軍の基地に転換したらしく、広いサイトに軍の施設とハドソンベイ会社の歴史的建物が同居している。ビジタセンターの横に、日本語の石碑があった。「1832年に愛知県知多の漁師、岩吉、久吉、音吉の三人が難破し、アメリカの船に助けられ、ここに着いた。アメリカに来た最初の日本人」ということを記念するものだった。最初の移民の若松コロニーより30年以上前にも日本人は来ていたのだ。
この日の夜、会員ディナーがあった。一昨年のロックスプリングスで仲良くなったJeane & Robert
Watson夫妻と再会、お土産の扇子を渡した。とても喜んでくれた。
本命のオレゴンシティツァーの日。まず行った所が、The End of Oregon Trail Interpretive
Center、最終地〆の博物館だ。それらしく、階段にはオレゴントレイルの主要地点が刻まれている。スコッツブラフ、サウスパス…。この町にはいくつもの開拓者の家があり、それを周るウォーキングも楽しそう。今日はバスで主要なマクローガンハウスなどを周った。昼食は公園の屋根のついたベンチでサンドイッチ。このとき、端のテーブルにバックパッカーのような若い女性が現れ、様子がおかしい。熱中症かもしれないと、誰かが通報したのか、救急車が来た。しかし彼女は乗ろうとせず、押し問答している、そのうちに”シガー、シガー”と叫んで我々のテーブルを周り始めた。手にタバコは持っているので、ライターを欲しいようだ。だが誰も反応しなかった。そのうちにパトカーが来た。救急車とパトカーで話をしたのか、今度はお巡りさんが何か話しかけているが、動こうとしない。業を煮やしたのか、お巡りさん二人がかりで、わめき叫ぶ彼女をパトカーに押し込んで立ち去っていった。のどかな町の静かな公園の思いがけないハプニングだった。
7月26日 プレスリー登場
この夜、The End of Oregon
Trail Interpretive
Center前の広場で、サーモンディナーパーティがあるというので、出かけて行った。広場には舞台が作られ、歌手が歌っていた。
舞台袖にエルビスプレスリーの写真が飾ってある。妻は喜んだ。「プレスリーショーもあるようなことを誰かが言っていた」と言う。それではと、サーモンディナーのあとは、舞台が見やすい高台に椅子を持っていった。OCTAのメンバーだけでなく、町の人がおおぜい集まってくるところを見ると、町のイベントに引っ掛けてサーモンパーティをやったようだ。確かに食べていたのは広場の一角に集まったOCTAメンバーだけだった。待つことしばし、暗くなりかけた頃、プレスリーは現れた。あの姿、あの歌、そっくりさんとは言え、みんな興奮している。妻も、ラスベガスヒルトンのそっくりさんよりずっといい、と手拍子をとっている。確かに若く、動作も似ていて、歌もうまい。中盤からは舞台近くに移動して、まじかに見て、聞く。最後は握手会のようになった。妻にも「行け!」とハッパをかけたが、恥ずかしがって行かない。あとで悔やんだのではないか。