小田山荘・蓼科高原ゲストハウス
 
ゲストハウス
ゲストハウス トップ
山荘はこんなところ
山荘での過ごし方
山荘の設備・備品
交通案内(アクセス)
周辺地図(検索)

蓼科日記

ご利用案内

小田山荘ゲストハウスはワークプレイス・リサーチ・センター(または小田毘古個人)関係以外の方のご利用 はできません
ご利用料金について
ご利用状況
利用申し込み
変更・キャンセル

蓼科の情報

蓼科・東急リゾートタウン
周辺観案光内 (リンク)




ワークプレイス蓼科日記

信州蓼科高原は、標高1450mにあり、夏涼しく、冬寒いの四季折々のリゾートでの楽しみ方ができます。
ゲストハウスは、から松、白樺、クリ、コブシ、モミなどの木などがいっぱい森の中にあります。
シジュウカラ、カケス、ウグイス、イカル、アカハラなどの野鳥やリスたちが、えさを求めて庭にやってきます。
こんなところにワークプレイスがあります。

毎月、ワークプレイスよりライフスタイル(日々の活動)をお送りしています。

<2018年>

 [1月] [2月] [3月] [4月] [5月] [6月] [7月] [8月] [9月] [10月] [11月] [12月]

 <2004年> (2004年分は、こちらからリンクします。)

 <2005年> (2005年分は、こちらからリンクします。)

 <2006年> (2006年分は、こちらからリンクします。)

 <2007年> (2007年分は、こちらからリンクします。)

 <2008年> (2008年分は、こちらからリンクします。)

 <2009年> (2009年分は、こちらからリンクします。)

 <2010年> (2010年分は、こちらからリンクします。)

 <2011年> (2011年分は、こちらからリンクします。)

 <2012年> (2012年分は、こちらからリンクします。)

 <2013年> (2013年分は、こちらからリンクします。)

 <2014年> (2014年分は、こちらからリンクします。)

 <2015年> (2015年分は、こちらからリンクします。)

 <2016年> (2016年分は、こちらからリンクします。)

 <2017年> (2017年分は、こちらからリンクします。)

 <2018年> (2018年分は、こちらからリンクします。)

 <2019年> (2019年分は、こちらからリンクします。)

 <2020年> (2020年分は、こちらからリンクします。)

 <2021年> (2021年分は、こちらからリンクします。)

 <2022年> (2022年分は、こちらからリンクします。)

 <2023年> (2023年分は、こちらからリンクします。)

 <2024年> (2023年分は、こちらからリンクします。)

2018年

12月

12月29日 雪は少ないが、寒さ厳し

山荘を正月に使う人がいるので、その準備に蓼科に来た。このところの寒波で志賀高原など信州北部は大雪になっているので、蓼科も少しは積もっていると思っていたが、あに諮らんや、雪はほとんどない。うっすらと被っている程度だ。いつものこの季節なら、上の駐車場は使えないので、下の4号線の玄関先駐車場を除雪するのにこの手間もない。ただ寒い。ゲストハウスは問題ないのに、自宅の給湯機に通水しない。いろいろとやってみたがダメなので、タウンセンターに電話した。しばらくして来たいつもの設備屋さんがやると一発で通水した。何がちがうのかな?実は帰るとき、今度は水抜きをしようとしたら、水抜き電源盤の水抜きスイッチが入らなくなり、また電話。すぐ来てくれたが、他の別荘の水入れで忙しいので、後でやっておくとのことでそのまま私は帰京した。
正月明けに行くが、直っているかいささか不安だ。冬はこんなことが頻繁に起こるので落ち着いていられないのだ。

     
 写真左・この時期には珍しく山荘直前に駐車 写真右・ 玄関には正月とクリスマスが同居
 

12月23日 後期高齢者になりぬ

今日は私の75歳の誕生日。とうとう後期高齢者になった。健康保険証も代わった。まだ体は動くと思っているが、これからは徐々に弱まってくるのだろうか。今年に入って、左手先がしびれるようになり、診断してもらったら、頚椎からの血管が頚椎の軟骨の圧縮で押されて、指先に血が通りにくくなってしまったのだという。頚椎骨は元に戻らないので薬でしびれを緩和するしかないとのこと。しばらく薬を飲んだが、良くも悪くもならないので、薬もやめた。困ったのはワイシャツのぼたんが止めにくくなり、山荘の布団カバーの止め紐もスムーズに結べなってしまった。
こんなことが、これからは体のあちこちに起こるのだろうなと思う。そして次第に、体が云うことをきかなくなり、寝たきりになり、死を待つのだろうな。あと10年くらいで、自分は終わるのだろうと自覚できるようになった。
後期高齢者の仲間入りするということは人生のエンディングに入ったということであり、人生の最後を予測できる期間に入ったということであろう。あと何年か、山登りやスキーをやれるかを目安にして、日々を過ごしていきたいと思う。

      
  写真左・後期高齢者入りの誕生日     写真右・イチゴは自分で載せるケーキ
 

12月17日 日比谷のクリスマスマーケット

日比谷公園でドイツあたりでよくやっているクリスマーケットが開かれているというので行ってみた。公園の大きな噴水周りの通路に、クリスマス飾り用品やホットワインなどの屋台がいっぱい並んでいた。妻も何か買おうと思って行ったのだが、どれも高い。好きなマトリョーシカ人形もあったのだが、小さなものでも2000円するとかで、あきらめた。ホットワイン一杯を買い、二人で分けて飲んだ。このあと、娘と待ち合せてパエリアを食べに行くので、あまり飲めないのだ。ワイン一杯目はカップ付きで1200円、二杯目からは600円というシステムだが、二杯は飲まないので、マーケットがデザインされたカップがお土産となった。

      
   写真左・ビルの谷間のマーケット      写真右・ マーケット内部
 

12月7日 高齢化のYHPOB会

横河ヒューレット・パッカード(YHP)から日本ヒューレット・パッカードに変わり、その後コンピュータの日本HPと測定器のアジレントに分かれ、その後また、HPはHPエンタープライズとPCとプリンターのHPインクに分かれ、アジレントは分析機器のアジレントと測定器のキーサイトに分かれた。そのあとも小刻みな分裂をやっているようだが、もう何が何だかわからない。そんな歴史の会社にもOB会はある。
もともとのYHPで働いていた人たちが土台となってのYHPOB会だ。途中で吸収したコンパックなどの人たちは入っていない。OriginalYHPの人たちの集まりだと言ってよい。我々のときは退職時に入会申込書が配られ、3万円の終身会費を退職金から引かれて、自動入会のような形だった。今は、統合した他の会社の人も多いので、自発的に言わないと会員になれないので、入会者は少ないのだという。だからOB会に集まってくるメンバーも昔の顔ぶれで、高齢化がいちだんと進んでいる。”YHP後期高齢者友の会”の雰囲気である。しかし、話すとみな若い頃の思い出にとっぷりと浸り、青春真っ只中の様相を呈する。
OB会は八王子の会社の食堂で開催されるので、一年に一度の思い出の地探訪だ。
今年は家から1時間以上かけて歩いて行った。会社の横を通ったとき、境内に「日本HP発祥記念碑」が昔の給水塔を斜めに切って立っているのが見えた。「そんな時代もあったね」と歌を口ずさみながら、ひとしきり感傷に浸った。

         
 写真左・YHPは1963年この地に誕生    写真右・八王子事業所はアジレントと
     それから55年               キーサイトに分割
 

12月1〜2日 異業種という集まり

HP時代の最後の10年間は不動産部という会社の施設を計画、管理する新たな部門を担当した。
日本の施設管理だけでなく、企業の経営を考えての施設計画(ファシリティ)を論理的、経営的、数値的に考えるという米国のファシリティ・マネジメント学をベースとした部門だったので、日本では珍しく、業界の先駆者となり、日本ファシリティマネジメント協会などを通じて、講演や研究会によく呼ばれた。
そんなとき、ベンチマークという「他社のすぐれた点を、自社にどう入れていくか」の考え方実践でもHPは先駆者的な位置にいて、私が主催した異業種ベンチマークという集まりを立ち上げた。ソニー生命、リクルート、アムウェイ、マックドナルドなどの会社が集まり、意見交換と実践を続けた。集まりのあとは呑み会が定例となり、これが私が退職し、10数年経った今でも、そのときの仲間が定期的に集まるのだ。
今年は温泉へ行こうという話が以前出ていて、私は忘れていたのだが、リクルートからアムウェイに移った矢島さんが幹事で、伊豆で実現した。温泉付きの貸ログハウスに数名集まり、温泉そっちのけで夕暮れの富士山を見ながらのベランダでのバーベキュ、そして中でのカラオケ大会と、飲めや歌えやの一夜となった。伊豆の山の上の別荘地の中のログハウス、幸いこの時期はまわりの別荘には人影なし、騒いでも迷惑にならない。みんな定年前後の歳になったが、騒ぐときは若い頃に戻るので、歳を忘れての楽しい忘年会となった。

      
     写真左・みんなで一枚          写真右・ 矢島さん大奮闘
 

【上へ戻る】

11月

11月30日 山岳博物館からの景色

大町といえば、山岳博物館、私のイメージはこれだ。学生時代から何回か来たことがある。前回は10年前くらいだ。そのとき驚いたのが、我々の山登りといえば、「キスリングを背負って」が常識だった。そのキスリングが古い山道具として、展示されていたことだ。あれから10年経った今日は、何が骨董品に、と思っていたが、見るべきものはなかった。変化がなかったということか?ライチョウも閲覧禁止で見れず、何となく物足りない山岳博物館だったが、北アルプスの景色だけはすばらしかった。大きなケルン越しに見える薄く雪をまとった蓮華岳、その左は七倉岳から烏帽子岳への裏銀座へ続く峰々、右は雲の中だが、爺が岳から鹿島槍への後立山連峰。この眺めがここの魅力だ。たまに訪れるにはいい所だ。

      
  写真左・ケルン越しの北アルプス        写真右・ 登山姿の変遷
 

11月29日 星野リゾート 界アルプス

日経ビジネスに星野リゾートの経営の特集があった。社員はひとつの仕事のプロになるのではなく、ホテル・旅館のすべての仕事に精通したプロに育てることだという。フロントをやった翌日はトイレ掃除や配膳係に。お客に何か聞かれたら、何でも答えられるように育てる。こうすると離職率は低くなり、社員の満足度は上がるという。
その実際を知りたくなり、大町温泉の界アルプスの温泉宿に泊った。門の前にコートを着て立っている社員、今日は比較的暖かいが、寒い日はつらいだろうな。車を停めると、さっと荷物をフロントに運んでくれた。なんと若い社員が多いことか、外人の社員もいる。
この人が帰りに荷物を車まで運んでくれた。聞くと、ドイツ人で旧東ドイツから来たという。東欧では考えられないようなサービスを自らやってくれている。星野リゾートは将来、日本式旅館ホテルを外国に展開したいと言っているが、そのときの人材を今から育てているのだろうか?部屋の造りも洒落ているが、ちょっとな?と思うところもある。
しかし社員の振る舞い、サービスはすばらしい。チェックインのとき対応した女性は、夕食の配膳もしてくれて、何かと気が利く。これが星野リゾートの目指す旅館なのだろうか。

      
    写真左・ 界アルプスの玄関       写真右・ 界アルプスの朝食
 

11月29日 冬でもワサビは採れるのか?

安曇野の大王わさび園。久しぶりに訪れた。この季節になるとお客も少ない。水車小屋からわさび畑を廻った。これから苗付けをする畑を作るのか、川の中で砂利を盛ってわさび畑を作っている社員も数名いた。橋を渡って小山を越したら、別のわさび畑が広がり、こちらは青々とわさびが育っている。これから収穫するのだろうか?わさびは育つのに2年かかるという。この青さのままさらに育てて、来年収穫するのだろうか?
きれいな紅葉が広がる丘を越えて、入り口に戻った。わさびがらみのお土産を買って、碌山美術館へ向かった。

      
   写真左・もみじ越しのワサビ畑         写真右・ 水車小屋
 

11月28日 塗装のあとは晩秋の別荘地散歩

山小屋は、2年おきに浴室の防水塗装をする。浴室の壁、天井は木材なので、この作業が欠かせない。幸い、蓼科は乾燥しているので、カビはほとんど生えないが、油断大敵なので、工務店からは毎年やれと言われているが、2年ごととズルしているが、もう14年になるのに問題ない。まずはゲストハウスの浴室に新聞紙を張り詰め、脚立を持って来て、その上に乗って、天井にオスモエクストラ液を刷毛で塗っていく。時々塗装液が落ちて、頭やほおを濡らすので、帽子を被り、作業着を着て完全武装である。
次に壁に移り、すべてを終わるのに1時間、次に自宅用の浴室に移り、同様の作業を終わって、昼になる。妻はその間、床のモップがけなどやってくれる。
次の春にはベランダの塗装が待っている。こっちはいつも雨水を浴びている所なので14年も経つと、塗装では追いつかない所も出てきて、この秋には階段一段の釘が腐って外れてしまった。これは修理が必要だ。お昼のあとは、しらかば4号線の奥へ、妻と一緒にウォーキング、どんづまりには素敵な別荘があり、ここのベランダからの八ヶ岳の景色はすばらしい。晩秋の高原の別荘地には人影もなく、静かな高原散歩ができた。

      
     写真左・風呂場の塗装       写真右・ よその別荘のベランダから
 

11月17日 岳文会幹事終了

岳文OB会の総会日、15年前からやっていたOB会幹事を辞める時がきた。在任期間の大役は50周年の記念行事のまとめ役をやったことだ。寄付金集めに、札幌や名古屋に出かけ、その甲斐あって650万円も集まった。小野講堂や大隈カフェテリアでの記念講演会、パーティも盛大で、大成功したと自負している。そのとき実行委員長だった小宮山さんも副委員長だった加藤さんも、その後、鬼籍に入られた。まだ8年しか経っていないのに、歴史は大きく変わっているような気がする。
OB会にかかわった当時は、岳文会の危機の時代だったことを後で知った。過激な山登りに変わっていった時期に、部員は激減、36期など1名しかいなかった。そしてつぶれそうになった岳文会はアウトドア何でもありに変わり、自転車のツーリングが主流となっていた。そんなことも知らない私は、現役に山登りの楽しさを語り、山の歌を唄わせていた。誰も歌えないのをいぶかしく思っていたが、ツーリングなら仕方がなかったのだ。
合宿で上高地に行くことに疑問を持ったツーリング派の反乱で、分裂、山派はたった2名になり、ここから山登り回帰の苦闘が始まった。40期代の幹事は岳文会中興の祖と言ってもよい。そして今は100名を超す、早稲田最大の山岳サークルに育った。そんな伝統ある岳文会OB会にささやかであるが貢献したことはわが誇りである。退任記念に頂いた花束には涙がこぼれた。

      
    写真左・50周年記念式典       写真右・  記念パーティでの合唱
 

11月15日 早稲田が目指す大学像

朝日新聞が企画した「教育会議」に早稲田が参加し、そのセミナーが茅場町の証券会館であった。テーマは「グローバル」、プレゼンターはOBの長谷川閑史 さん(武田薬品前CEO、経済同友会前代表)、江田麻季子さん(インテルジャパン前社長)、新総長の田中愛治さん。グローバルに活動することの重要性をビジネスの観点から、その期待に応える人材をどう育てるかを大学の観点から話された。
田中総長は自分の経験から、「世界の政治学は昔とちがい数量解析など、科学的な分析が重要になっている。このためには優秀な教員を外国から招聘し、その講義についていける優秀な学生を集めることだ。授業に食いつてこないようだと、先生は契約期間内でも帰ってしまう。政経学部が数学を受験科目に入れたのは、そのような人材でないと、育たないからだ」と言う。早稲田が考えている医学部については、これからの医療には医学だけでなく、生化学、解析、倫理、心理学などの分野が必要、重要になってくるので、それらの分野がない単科医大を巻き込み、早稲田の医学部につなげたいと力説していた。OBとして大いに期待したいところだ。

      
      写真左・大隈講堂           写真右・田中愛治総長
 

11月1日 晩秋の八子ヶ峰

連休に使う人がいるのでその準備に来た。今日はすばらしい秋日和、準備の仕事は後回しにして、久しぶりに八子ヶ峰へ登った。カラマツの黄葉も終わりに近づいている山道は落ち葉が多く、サクサクと踏みしめる足音も心地よい。登るに従い、御嶽山が見え、南アルプスの北岳も顔を覗かせた。蓼科高原越しには、黒々とした八ヶ岳連峰。車山の向こうには雪景色となった乗鞍や穂高、槍ヶ岳。晴れた日の八子ヶ峰の見慣れた景色だが、いつ来ても、この景色に会うと、心が癒されるのだ。白馬などの後立山連峰は雪が降っているのだろうか、雲の中だった。柔らかい陽射しの中を、美しい山並みを見ながら歩むのは至福のときである。

      
   写真左・ススキの先に八ヶ岳         写真右・ カラマツ秋色  
 

【上へ戻る】

10月

10月29日 予想外の早慶戦

秋の早慶戦は4年生にとって最後の試合になるので、選手も応援席もしみじみとしたものになる。特に慶応は勝ち点を上げれば優勝なので、下級生は優勝で4年生を送り出したいと思っている。
下馬評も慶応優勝は確定的という。ところが初戦は慶応が圧倒し、2戦目は早稲田の逆転勝ち、そして3戦目の今日、慶応にはまだ余裕がある。早稲田の応援席に来た慶応の応援指導部の面々も笑顔で、「今日は優勝させてもらいます」などと言っている。試合も慶応ペースで進み、4−2とリード、8回に早稲田が1点差にしたが、それでも早稲田の倍近い応援席は明るいものだ。最終回表、早稲田が1点とって同点、続いて捕手岸本のヒットで逆転したら、悲鳴に変わった。その裏、慶応も必死に食い下がるが3者凡退でゼ・エンド。慶応の応援席に選手が頭を下げたあと、数名の選手がそのままグランドに泣き崩れた。4年生を優勝で送り出したかった下級生の涙であろう。
タナぼたは法政だ。早稲田が勝ったことで優勝してしまった。 早慶戦の後は閉会式、優勝の法政の後に早稲田が続いた。早稲田も慶応を抜いて2位に、いよいよ来春からの小宮山監督に優勝の期待がかかるおぜん立てができた。

      
 写真左・早慶戦の後は野球部も一緒に校歌斉唱    写真右・ 閉会式
 

10月27日 ビル屋上のバーベキュー

HP時代の中間の頃、私はサポート業務を担当していた。アフターサービスのセクションだ。その当時の部下が定年を迎え、その祝いと激励を兼ねてバーベキューパーティをやった。立川駅前のルミネの屋上だ。ここにバーベキューエリアがあり、ガスバーナーや食器など用意されている。材料と飲み物を持ち込めばバーベキューが楽しめる。
昔の仲間が数名集まり、肉を焼き、焼きそばも作り、ビールやワインを飲んで楽しい時間を過ごした。みんな老けたが、昔の話題になると、話は盛り上がった。2時間のパーティのあと、もう一軒で飲み、カラオケに行って別れた。日野駅からバスに乗って、帰途についたのに、最終バスで乗り越して、高幡不動からタクシーで帰る始末。バーベキューが終わったのは午後2時過ぎ、それからどうして夜の10時過ぎの最終バスまでになってしまったのか、不思議である。

      
    写真左・バーベキュー会場         写真右・みんなで一枚
 

10月21日 秋の戸隠神社

志賀高原でのキノコ狩りが終わり、秋の陽が降り注ぐ山道を上がって、戸隠に来た。新そばを味わい、宿坊に泊る目的だ。その前に戸隠神社奥社に行った。杉並木の長い参道を歩き、奥社に着いたときは夕方だった。おおぜいの参拝客がいた。家族の平安を祈願して、宿坊・久山館へ入った。
ここはお寺だったそうだが、明治の廃仏毀釈令でお寺を辞め、宿屋に変わったそうだ。中には拝礼の間があり、戸隠神社に拝礼するのだが、横には弥勒菩薩と千手観音が鎮座している。神仏混合の拝礼であった。
戸隠を去って、鬼無里経由で小川村に行った。アルプス展望の村として名高いが、噂に違わず、高原の村の展望台から、鹿島槍、五竜など後立山連峰が秋の青空の中に浮かび見え、すばらしい景色であった。一度、泊まってみたい村であった。

      
     写真左・奥社への参道        写真右・小川村からアルプス展望
 

10月20日 奥志賀のキノコはムキタケとナメコ

奥志賀は紅葉のまっさかりだったが、生憎天気は雨模様。それでも秋山郷に下りて行く奥志賀渓谷の道に入った。昨年、見つけた大滝入り口近くのブナハリタケの木を目指したが、既に先客にきれいに採られていた。その近くの藪の中をさまよっているうちに、同行の西尾さんから、「なめこいっぱい!」の声。枯れた木の下に大きなナメコがびっしり生えていた。
翌日は竿、脚立を持って、ムキタケ採り、ハーモニカの滝への道を下りてムキタケが生えている木に到着。脚立を立て、西尾さんに上がってもらい、竿でムキタケをつつき、落とす。今年は少ない。「もうこの木は終わりかな」と吉田先生は言う。その後、藪の中に入り込み、枯れ木を探していたら、大きなムキタケがいっぱいついている木を発見した。ここは上ではなく、地面に近い所に生えていた。千切れぬように、慎重に根元から押し上げて収穫した。ブルーエの夕食に、これを焼いたものが出てきた。醤油をつけて食べたら、香ばしくておいしかった。

      
   写真左・なめこ群落と西尾さん         写真右・きのこ鍋
 

10月16日 運転認知症テスト何とか合格

75歳の後期高齢者になると、運転免許更新も厳しい。更新手続きの前に認知症テストを受けなければならない。家の近くの多摩コースに行き、テストを受けた。
「今日は何年何月何日ですか?」の単純なものもあるが、16枚の絵を見せられ、「絵は何だったか、すべて書き出せ」との問題は8枚の絵しか思い出さなかった。次のそれぞれの絵のヒントが書いた問題はすべてわかった。「果物」のヒントで、「葡萄」をすぐ思い出した。ヒントがあれば易しいのだ。試験の結果は84点。
76点以下のときは次の試験が別コースになり、50点以下なら、医者の診断書が必要ということだったので、かろうじて問題なしという結果だった。後日、小学校の同級生と電話で話したら、彼は76点未満だったので、次の更新講習が3時間になると言ってぼやいていた。認知症の自覚もあるというから、止むおえないのかも?
 

10月10日 銀座の絵画展

岳文会先輩の石塚さんの絵の展覧会の案内をもらっていたので、OB幹事会の前に寄ってみた。
京橋の画廊、いつもこの展覧会にはふたつの水彩画を出している。ことしは山の景色ではなく、日比谷公園の絵であった。少し、山の絵でなかったので寂しかったが、これはこれでいい。近くの他の人の絵が尾瀬ヶ原の景色でこちらも良かった。二人の絵を見比べながら楽しんだ秋の夕暮れの銀座だった。

      
     写真左・石塚さんの絵2点         写真右・近くの尾瀬の絵
 

10月6日 蓼科のキノコ狩りで危うく遭難に

今年の秋はきのこの当り年とかで、いつもより山に入る人が多いらしい。そして途中で道に迷う人も多いという。既に全国で20名を超す死者を出している。信州も多いらしい。今日は蓼科でのキノコ狩り、いつもの八子が峰への尾根に入った。ハナイグチが採れる場所なのだが、さっぱり目にしない。庭では先月半ばに結構目にしたのに、今日はダメだ。遅かったのかもしれない。森の中を上へ上へと行ったら、チャナメツムタケがいっぱい採れた。この季節はこれが当たりキノコなのかもしれない。そこそこ収穫したので、帰ることにした。
下がっていけば作業用の林道に出て、ここを下ると、別荘地裏の登山道にぶつかり、ちょっと登れば車を停めてある所だ。との頭で進んでいくと林道に出た。あと少しと下ったが、なかなか登山道にぶつからない。「おかしいな?」と思いながら、さらに下っていくと木が倒れて林道がふさがれていた。それを乗り越えたら、今度は崖崩れで林道は消えている。違う道に入ったらしい。そこへ、吉田さんから電話が来た。「どうも麓への道にまちがって入ったようだから、麓の集落に出てから帰る」、「そこから元来た道を戻れ」。少しやりとりしてから、戻ることにした。どんどん下ってきた道を戻っていくのは、息切れもして苦しいが仕方ない。しばらく上がっていったら、吉田さんが倒れた木に腰かけて待っていてくれた。そこをちょっと登ったら、本来、ぶつかるはずの登山道があった。私は、そのぶつかる交差点のかなり下の林道に出ていたのだ。だから下っても下っても、あるべき道がなかった訳だ。きのこ遭難というのは、こんなことで起こるのかもしれないと自戒したのだった。

      
     写真左・私が迷った林         写真右・チャナメツムタケ
 

【上へ戻る】

9 月

9月28日 生島足島神社

上田から丸子へ抜ける通りに生島足島神社がある。「イクシマタルシマ」神社と読む。金足農業を私は最初、カナタル農業と読んでいたのは、この神社の読み方から来ていた。前々回の御柱のとき、この神社でも御柱祭が行われ、柱が倒れてけが人が出たというニュースで、生島足島神社の存在を知った。
てっきり諏訪神社系列と思っていたが、諏訪社はいくつかの神社系列のひとつで、その他の系列にも入っている、いわば多角経営の神社だった。だから御柱も境内の片隅にひっそりと立っていた。このエリアでは大きな神社らしく境内には立派な社があり、人を恐れぬ白鳥も丘にあがって遊んでいた。カメラを向けるとそっぽを向いてしまう愛嬌なしの白鳥だ。真田三代に庇護された神社でもあるようだ。戦国の世から現世までの歴史をこの地で見てきた由緒ある神社なのだ。

        
     写真左・生島足島神社         写真右・泰然自若の白鳥
 

9月28日 ウイリアムモリス展

英国のデザイナーでもあり、思想家でもあり、多方面に活躍したウイリアム・モリス。この名前を知ったのは一昨年、イギリスを旅したとき、コッツウォルズのバイブリー村、「イギリスでいちばん美しい村」と彼が讃えたという。
確かに美しい村だった。そのウイリアム・モリスの美術展が上田美術館で開かれているというので、彼のデザインを愛する妻のために出かけていった。彼の壁紙やカーテンのデザインはとても落ち着いた絵柄で私も好きだ。そんな美術展を、なんで上田でと思っていたが、行って納得、上田に育ち、ウイリアム・モリスの考えに共鳴した美術家・山本鼎とのつながりがあったからだった。美術の大衆化、民衆芸術運動という点ではウイリアム・モリスの思想に近かったのだ。
モリス展を見終わると、山本鼎展に自動的につながっていた。信州の小都市上田でこんな大々的なウイリアム・モリス展が開催できるのは、このつながりがあったからだ。それにしても美術館が入っているサントミューゼという施設はすごい。美術館だけでなく、劇場もあり、建物の立地、デザイン等、地方都市の施設としては図抜けている。上田市はすばらしいモノを作った。

      
 写真左・ウイリアム・モリス展への階段    写真右・モリス作タペストリの前で
 

9月28日 松茸小屋

9月から10月にかけてはマツタケの季節だ。昨年は信州四賀村の松茸山荘に泊りがけで行って松茸料理に舌鼓を打ったが、今年は上田の美術館に行くついでに別所温泉近くの松茸山に寄って、松茸昼食とした。
山小屋二幸園というこの季節だけ、自前の松茸山に開設する店だ。1時半に予約していたが12時過ぎに着いてしまい、前倒しを頼んだら、ほどなく案内された。松茸鍋、土瓶蒸し、姿焼き、天ぷらなど、ひとり1万円のコースは豪華だ。車なのでビールが飲めないのがはなはだ残念。土瓶蒸しの汁はそんなにマツタケの香りが強くない。去年の松茸山荘の土瓶蒸しはマツタケの香りが強烈だった。「ああ幸せ」と思ったものだ。しかし去年は松茸の凶作の年で、輸入物に頼らざるを得なかったと聞いた。今年は豊作なのに、その土瓶蒸しはマツタケはほんのりと香るだけ。ここでわかった!「去年の土瓶蒸しはマツタケのお吸い物を使っていたんだ!土瓶の中に浮いていたのはエリンギでなかったか?」。本物の松茸の土瓶蒸しはそんなに香りは強くないのだ。土瓶の中にも小さいながらも本物の松茸が入っているではないか。

      
    写真左・鍋には大きな松茸が       写真右・ 松茸小屋二幸園
 

9月25−28日 蓼科高原映画祭

ここ二年ばかりご無沙汰していた小津安二郎記念蓼科高原映画祭、今年は回数券4枚・2セットを買って、妻と見ることにした。いつも土曜、日曜の二日間で、朝から晩まで何本もの映画を立て続けに見なければならなかったが、今年は一週間やっているので、毎日1本、4日かけて4本見ればよいので、ゆっくりだ。
ちょうどこの期間にウイリアム・モリス展にも行けるので、妻も喜んで来た。見た作品は「ハチ公物語」、「ザ・グレイテストショーマン」、「Destiny鎌倉物語」、「妻よ薔薇のように 家族はつらいよV」。最初の3本は、昼の2時から、最後の1本は、ウイリアム・モリス展から帰ってきて、夜の7時から。毎日、自分の都合に合わせて、時間を選べるのはとてもよい。1週間つづけての映画祭ができるようになったのは、新星劇場が映画館営業をやめて、簡単に言うとツブレたおかげなのだ。映画館はそのまま残っているので、映画祭のときは、一般営業に気兼ねすることなく、いつでも使えるからなのだ。新星劇場にとっては残念なことかもしれないが、われわれ観客にとってはありがたいことだった。

      
    
写真左・ 蓼科高原映画祭       写真右・新星劇場の画面(蓼科湖)

 

9月24日 深田組ゴルフ

岳文会の6年後輩の深田君の仲間の恒例ゴルフが今年も24、25日に蓼科の東急ゴルフコースであった。
このときはいつも山荘に来て、ひと晩、飲み語りつくす。今年は7名、岳文12期〜14期で、山を忘れた人も多いが、宴会は学生時代の山での珍事の話で盛り上がる。私は聞き手に回るが、山での生活の失敗談は我々の時代と同じで聞いていて楽しい。今回は、私は別室で寝ていて知らなかったのだが、二階で寝ていた喬太郎さんが、真夜中に階段から落ちて、肋骨を折ったという。すごい音がしたと1階で寝ていた平原君は言う。何でそんな夜中に2階から下りようとしたのか、トイレは2階にもあるのにな?と思ったが、それにしても階段から滑り落ちた人は久しぶりだ。できて間もない頃、落ちた人がいたので、滑り止めをステップに貼ったが、既に10年以上経過し、滑り止めの効果も薄れてきてしまったのだろう。すぐに貼り換えねばならないことを悟った私だった。

      
     写真左・山荘での宴会          写真右・ゴルフ会のメンバー
 

9月8日 六大学野球開会式

いよいよ秋の東京六大学野球リーグ戦が始まる。今日が初日、開会式の日だ。閉会式はいつも早慶戦のあとなので見る機会はあったが、開会式は見たことがない。各チームが母校の応援歌演奏に乗って入場してくる光景が好きなので、今日は朝早くから出かけていった。内野席上段に陣取り、開会式を待った。
一塁側に各校の校旗を持った応援団が並び、春のリーグ戦の成績順に選手が自校の応援メロディとともに一塁側から入ってくる。と同時に、横に寝ていた母校の校旗が立ち上がる。まず「若き血」メロディに乗って、慶応大学、次に「立教健児」で立教、「紫紺の歌」で明治、「紺碧の空」の早稲田、「若き日の誇り」で法政、最後はいつも「闘魂は」の東大だ。横一線に各校が並び、慶応から優勝旗の返還があり、連盟会長挨拶、選手宣誓で終り、退場も成績順に出て行くのだが、このときは二校ずつ歩き出すので、応援メロディは3位の明治まで後はなし。やはり優勝、悪くても上位3位以内に入らないと開会式や閉会式では寂しい思いをすることがわかった。この日は続いて1回戦があったが、ワセダは法政に負けてしまった。今シーズンも思いやられるな。

      
      写真左・開会式         写真右・開会式後の早稲田応援席
 

9月6日 白駒池から八千穂自然園へ

台風明けの日が続いたので白駒の池から八千穂の白樺園地に行くことにした。麦草峠はこのところ冬しか来たことがなかった。車で通過する峠は味気ない。白駒の池は久しぶり、9月の平日とはいえ、まだ夏の名残で人は多い。メルヘン街道から白駒の池へ入る登山道の森は、最近、苔の森として有名になった。JR東日本のポスター・吉永小百合がたたずむ森もこの辺か?白駒荘は新築工事中だった。完成すると古い方は解体するのかな?
大学に入って初めて山登りに来て泊ったのがここだった。あのときは斉藤忠義とふたりで来た。途中で忠義が「もうだめだ、帰る」と言って、躊躇していたとき、専修大学の山岳部がゆっくりゆっくり登ってきて、「あのくらいゆっくりでいいんだ」と悟って、また一緒に歩き始めたのだった。岳文会に入る前だったので、本格的な山登りを知らなかった頃だった。そんな昔を思い出しながら、白駒の池を後にして、八千穂自然園に向かった。
ここは10年以上前に家族連れで来た所だ。そのとき、白樺林の美しさに目を奪われたことを思い出す。今回、行ってみたらそれほどでもない。あの一面の白樺林はどこへ行ったのだろう。他の木々が増え、淘汰されたのだろうか?白樺は成長は速いが、寿命は2,30年というから、あの頃がピークでその後枯れていったのだろうか。もう数年経てば、新しい白樺の息吹に会えるかもしれない。それまで生きているだろうか。

      
      写真左・ 白駒の池           写真右・白樺の森
 

9月4日 鷲ヶ峰ヒュッテ

7月に極楽スキーメンバーと鷲ヶ峰に登り、そのとき気になっていた鷲ヶ峰ヒュッテをネットで調べたら、泊まれるらしい。それもフランス料理とある。そこで、上高地からの帰りに寄ってみることにした。ところが台風22号最接近の日にあたってしまった。上諏訪から霧ヶ峰への登り道は風雨が激しくなり、高原は雨風が舞っていた。ヒュッテに着いたときは強い雨、2階の和室に通されたときは、窓に打ち付ける風雨がもっとも激しかった頃だ。信州に台風が最接近した時間帯だった。
夜6時半からの夕食は二組、メインはビーフシチュウ、前菜の魚のムニエルのようなものも美味しかった。ビールはドイツのものしかないという、それも中瓶より少し大きめのサイズを長いグラスに一気に入れる。結構な量だが、料理がおいしいので飲める。そのあとシャブリの白ワインを一杯。楽しくおいしい食事だった。部屋に帰ると風雨が収まり、窓を開けると、前方下に諏訪の町灯りが見えた。明日は台風一過の良い天気になりそうだ。

      
   写真左・鷲ヶ峰ヒュッテの夕食      写真右・ヒュッテ内のラウンジ
 

9月3日 「前穂高に祈る」レリーフ

徳澤に二泊するので、この日は岳文会5期の林さんのレリーフに寄って、横尾まで行くことにした。1964年(昭和39年)の夏、岳文会員、初めての遭難事故があった。林 洋さん(5期)が同期の浅田泰生さんと前穂高東壁をロッククライミング中、上で登攀していた近畿大学のパーティが滑落、それに巻き込まれての死亡事故だった。
慰霊のレリーフ建設は遺族の方と友人一同で行った。
当時、穂高での遭難は多く、特に奥又白池からの前穂東壁は人気もあった。奥又白へ通じる今のパノラマコース沿いの登山道脇にはいくつもの遭難碑がある。井上靖「氷壁」のモチーフとなった「ナイロンザイル切断事件」のレリーフもここにある。レリーフだらけになることを危惧した地元は個々の遭難碑建設禁止として、上高地バス停近くにそれに代わる「慰霊の塔」を作り、新たな遭難はそこに集約することにした。そんな過度期に林さんのレリーフは1965年の夏に新村橋からパノラマコースにほどなく入った沢対岸の森の中の岩にはめ込まれた。いわば世間の目に触れぬようにひっそりと建てられたのだ。

      
  写真左・ 「前穂高に祈る」レリーフ      写真右・この堰堤を渡る
 

それから50年以上経った今、どうなっているのか。遭難後の数年は同期やその近辺の期の岳文仲間が訪れていたが、徐々に少なくなり、岳文会40周年記念山行の途中、私と8期の三木さんが訪れたときは、しばらく誰も来ていないことが見て取れた。その後、数年前に行ったときは、レリーフの岩場へのルートが営林署の巡回路になったようで、途中の木々に赤いビニールテープが巻き付けられて、わかりやすくなっていた。「これはいいや」と思っていたが、今年の9月、徳澤に行った折に寄ったところ、もう巡回路の役目は終わったようで、踏み跡も消え、テープも剥がれ落ちつつあった。そしてたどり着いた岩場は前回、来た時のまま、この間、誰も来ていないようだった。
遭難時のパートナー・浅田さんも体の問題もあり、レリーフに参ることも叶わず、命日に林さんの家にお参りに行くのが唯一の機会と言っていた。また林さんのお母さんも近年、亡くなり、お参りに行くことも終ったようだ。そしてこの遭難を知っている年代の岳文OB・OG も高齢化で、遭難レリーフが忘れられていくのも時間の問題だ。

        
  写真左・新村橋から前穂東壁を望む     写真右・レリーフへの道しるべ
 

9月2日 涸沢やめて徳澤へ

この夏は山登りができなかったので、暑さで散歩もおぼつかなく、体がだいぶなまっていることに気づいていた。少し暑さも和らいできたので、せめて涸沢くらいまで歩いてみようと思った。妻も行ったことがないし、涸沢程度なら歩けるだろうと声をかけたら行く気になった。それではと計画したら、台風接近の情報、それも涸沢に滞在する日が雨がひどいようだ。そこで芳しくなかったら徳澤泊りにしようということで出かけた。上高地を出るときは晴れていたが、涸沢の日はやはり雨、あきらめて徳澤に決定。妻はその方が歩かなくて済むと喜んでいる。徳澤なら余裕がある。
着いた徳澤園にチェックインしてから、草原をひと歩きして、ベンチで昼寝などしてくつろぐ。徳澤の宿は、風呂もあり気持ちよく、夜の食事がメニューも豊富でおいしい。我々は旅館部に泊ったが、山小屋部の方も以前の大部屋がカプセルホテルのような個室仕様になっていて近代化されていた。山小屋部の料金も12000円と山小屋より高くなっていた。これも時代の流れか。

           
      写真左・徳澤に憩う            写真右・新しい大部屋     
 

【上へ戻る】

8 月

8月26日 酷暑の中の高円寺阿波踊り

毎日尋常ならざる暑さが続いていたが、台風が来て、ひとまず落ち着いたが、過ぎたら再び酷暑。そんな日の阿波踊りになった。夕方5時前にスタート地点の南演舞場に着いたが、踊る前から大汗だ。夕方なのに32℃、それでも鉦と太鼓が打ち鳴らされ、スタートしたら一瞬暑さは飛んだ。しかし踊るにつれ額から目に汗が染み入ってきた。目立たぬように汗をぬぐい、踊り続けた。個人賞候補の星野さんがいないのに気付いた。中央演舞場待ち合いで周りに聞いたら、足がつって踊れなくなり、ギブアップしたそうだ。
東演舞場に入る角で誰かが倒れ込んでいった。三味線の安斎さんが足をつって倒れたことを翌日知った。三味線も壊れてしまったが、師匠の高須さんが直してくれたそうだ。よかった。ハプニング続きの阿波踊りだった。帰り道、私も足が猛烈に痛く、つりそうだった。今年の踊りはこの日一日だったのがよかった。二日続けていたら倒れただろう。
それにしても我らが中々連は女踊りも増えて大きな連になった。総勢100名近くいたのではないか?打上げのパーティも大盛況、とうとう椅子が足りなくなって、立って飲む人もいたほどだ。当然、〆の踊りは賑やか、壮観であった。来年までさようなら。

      
    写真左・出発前に勢ぞろい        写真右・踊り前の待ち時間
 

8月18日 意外と涼しい西武球場

娘の景がファンクラブに入っている西武ライオンズと日本ハムの試合を西武球場に見に行った。娘は日ハムが贔屓なのだが、西武戦があるとき、優先的に良い席で見るために、ライオンズファンクラブにも入っているのだ。だからテーブル3人席で食事つきの特等シートだ。周りはライオンズファンばかりなので、日ハムがヒットを打っても、拍手は控え目にしなければならない。
夏の西武球場はめちゃくちゃ暑いと聞いていたが、台風が来ているせいか、気温も下がり、汗が出るほどの暑さにはならず、ホッとした。ビールを2杯飲み、心地よかった。
8回裏のライオンズの攻撃のとき球場を出た。試合が終わると、大混雑になるというので、早目に退出。西武遊園地行きの小型の電車に乗って、遊園地駅からは国分寺への多摩湖線に乗り換えた。西武球場前駅でグランドから大歓声が聞こえてきた。ライオンズが逆転したらしい。日ハム応援の我々にとって、早目の退出は正解だった。

      
    写真左・西武球場の夕焼け      写真右・7回裏ライオンズの攻撃風船

 

8月16日 小淵沢にも北欧料理

数日の蓼科の避暑から帰京する日、昼食は行ったことのない店でと、小淵沢から須玉へ抜ける道沿いを走ってみた。以前、走ったとき何軒かのレストランを目にしていた。
小淵沢の道の駅から左へ曲がってほどなく走ったら、森の中にこざっぱりした店を発見、北欧料理と出ていた。北欧料理というと”ガムラスタン”のイメージしかなかったが、「こんな所にも」と早速入った。店内は広くて小奇麗だ。ランチは1800円と高め、妻は肉団子、私は白身魚のムニエルを頼んだ。本格ランチなので前采があり、ニシンの酢漬けだった。これはおいしい。メインも薄味だが上品だ。妻の肉団子は大きな塊が3ヶもあり、食べきれないというので1ヶもらった。こちらは濃い目の味付けで食べごたえある。いい値段だったが、ボリュームもあり、パンともどもおいしかった。

      
    写真左・妻のランチは肉団子       写真右・北欧料理メーラレン
 

8月14日 恵泉蓼科ガーデン

恵泉女学園大学が「園芸と結びついた自然とのかかわり」をテーマに蓼科三井の森に3200坪の蓼科ガーデンを持っている。ここではイングリッシュガーデンの四季折々の花を咲かせている。バラクラのイングリッシュガーデンと趣は同じだが、一般には公開していない。たまたまこの日は一般開放のオープンガーデンというので、イングリッシュガーデン好きの妻には外せない。入り口に着くと、なんと川合さんがいるではないか。それも今日の係員として。蓼科ガーデンのすぐ近くに住んでいるHP時代の同僚・川合さんは庭つくりのとき、この恵泉に頼んで、指導と植栽をしてもらったと言っていた。その後も、メンテナンスを頼んだりしているようだ。彼の庭も恵泉ガーデン並みに立派なイングリッシュガーデンに成長した。そんなよしみで、この日の手伝いを頼まれたようだ。ガーデンに入り、ホールでスライドで四季のガーデンの説明を受け、庭を一周した。何気ない花がいっぱい咲いているのがイングリッシュガーデンの特徴だ。妻はさらにもう一周すると行ってしまった。私は木陰の椅子で休んでいた。なかなか戻ってこない。やっと見えたら、途中で花の植え替えの講習会をやっていたとか。講師にいくつか質問して、収穫あったと喜んでいた。

      
    
 写真左・広いガーデン          写真右・花を愛でて…

 

8月13日 白樺湖でピーターラビット展

今日は景がひと足先に東京に帰る。茅野駅に送る前に、白樺湖へ行くことにした。ピーターラビット展をやっている。一昨年、イギリス旅行したときに寄った湖水地方にある作者ビアトリクス・ポターの家、そこから見る田園地帯とその先の湖水はまさにピーターラビットの世界だった。そんなことを思い出しながら見る展示会はお土産中心の催しだったが、楽しかった。遅めの昼食をと、白樺湖の周りをドライブしたが、適当な店がない。
そこで茅野駅まで行って、映画祭のときよく行くレストラン古時計へ行くことにした。サラダそばを私は頼んだ。景はオムライス、妻はいつものカレーライス。あずさの発車時間までここで時間をつぶし、改札まで見送って、妻と私は山小屋へ戻ってきた。こんなゆったりした時間を過ごせるのも山の生活の楽しみのひとつだ。

      
   写真左・ ピーターラビット展   写真右・ ピーターラビットの向こうには湖…
 

8月12日 松本からのビーナスラインは遠かった

景はまだ松本城へ行ったことがないと言うので、今日は松本へ。松本へ着いて、城内へと向かったら、城に入るには50分待ちだという。炎天下をそんなに待つのはしんどいとお堀越しに城を見て、近くの喫茶店でスパゲティを食べて帰ることにした。時間もあるし、扉温泉からビーナスラインへ抜けようと思った。扉温泉近くまで来たら、道が二つに分かれていた。右の下り道は温泉の方向、左は上り道、山へ上がって行く。ビーナスラインは扉峠でぶつかるのだから、上りだなと判断し、前に走っている車もあるしと左の道に入った。舗装された山道をぐんぐん上がっていく。ナビもしばらくはその方向を指していたようだったが、そのうちに道が表示されなくなり点だけが移動していく。もうそろそろ峠ではないかとの辺りで急に下り始めるではないか。おかしいと思ったが引き返すには来過ぎてしまった。下り道を進むことにした。しばらくして下から上がって来る道にぶつかった。ここでナビに霧ヶ峰を入れたら、右折の指示が出たので進んだ。また上りが続き、和田峠に出て、ここでやっとビーナスラインに合流した。完全に道をまちがえていたのだった。ニッコウキスゲも終った車山は駐車場も空いていたが、素通りし、蓼科に帰ってきた。今晩は呉竹坊の寿司だ。3人なので、上寿司3人前を頼み、夕方取りに行った。漬物やら、煮物などいっぱい付録をつけてくれて、家族3人の夕餉は豪華だった。

      
    写真左・係員に撮ってもらう        写真右・喫茶店のランチ

 

8月11日 夕方5時のハーベストで夕食

昨日、家族3人で蓼科に来た。そして今晩はハーベストのバイキングに行くことにした。いつもは夜8時頃だった。毎回真っ暗で、レストランから八ヶ岳連峰の展望が見えなかったので、今回は夕方5時にした。4時45分に迎えに来てもらった。ハーベストとホテルは送迎してくれる。ハーベストのロビーからは八ヶ岳が見えるはずだが、今日はあいにく曇っていて長い裾野が見えるだけだった。それでも雄大な景色だ。バイキングでかつ飲み放題だ。そしてシニアは中学生と同じ料金なので、アルコールを飲まない娘がいちばん高い。料理も和洋中折衷、種類豊富で食べ甲斐がある。ホテルもバイキングをやっているが、ハーベストの方が豪華でおいしい。少しずつ暗くなっていく、窓外の景色を楽しみながらの夕食は楽しかった。

      
     写真左・八ヶ岳は雲の中        写真右・食べ放題、飲み放題
 

【上へ戻る】

7 月

7月29日 阿波踊り練習佳境

高円寺阿波踊りに向けて、中々連の練習も佳境に入ってきた。と言っても、年たった3回の練習ではタカが知れている。技術より踊ったあとの酒の楽しさを求めているのだから。今日は2回目、池袋の大明小学校での練習だ。今年の高円寺の参加者は74名で申し込んだそうだ。中々連の初めごろは30名もいなかったと思うが、こんなに大きくなるとは隔世の感がある。武蔵中々連という姉妹連もでき、ここは若手が多く頼もしい。練習も年中やっていて、本家中々連で物足りないと思う人は武蔵中々連の練習に参加している。「踊りがうまくなりたい」と思う人は武蔵:::へ練習に行けと割り切っている。
今日も50名くらいが集まり、狭い音楽室はすし詰め状態、輪になって踊るのだが、なかなか前へ進まない。それでも演舞場での演技の練習もやり、何となく満足するのだ。お囃子のみんなも音合わせに余念がない。あと1回の練習で本番を迎えるが、昼食後、武蔵中々連が出る武蔵小金井阿波踊りに参加すると言って、10名余の人たちが、そそくさと出かけて行った。頼もしい。

      
  
    写真左・踊り練習           写真右・お囃子練習
 

7月27日 かけもち宴会は久しぶり

昼は中学時代の同級会、夜は大学時代のクラブ後輩との呑み会と二つの呑み会があった。
サラリーマン時代は時々、宴会かけもちもあったがリタイアしてからは初めてでないか?体力も弱まり、酒にも弱くなった今は、かけもちはきつい。昼の宴会は銀座、8名の予定が、幹事のお母さんが当日の朝、急死で7名になった。これも我々年代の宿命だ。夜のことを考えるとあまり飲んでもいられず、途中からノンアルコールビールに切り替えて抑えた。中学時代のいろいろな仲間の話が出たが、亡くなった人も多い。明日は我が身と身震いする。
夜は千歳烏山、新宿に戻って京王線に乗る。鳥誠の店に入ったら、もうほとんどの人が集まって盛り上がっていた。もともとここで英会話学校の経営をしていた後輩が主催の呑み会で、時々お声がかかる。
ルート66の写真を見せて話すと興味を示す。英会話経営者は特に「行ってみたい」と写真に見入り、何かと質問攻めだ。中学同級会ではルート66を知っている人は少なく、あまり反応がなかった。これが大学と中学の差なのかと思った。

           
     写真左・中学の集まり          写真右・千歳烏山の鳥誠

 

7月20日 酷暑の夏、蓼科は?

今年はことさら暑い夏だ。熊谷は41.1℃と日本記録を塗り替えた。さすがの冷涼な蓼科も暑くなった。17日には室内でも27℃までいった。こうなるとモヤっとした暑さが漂い、扇風機に涼しい風を運んでもらった。しかしその後は下界では40℃近い日が続いているのに、山荘は25℃で落ち着き暑いというほどではない。
建物も暑さに慣れてくるのか、ほぼ正常な状態を保っているようだ。二階の昼間は暑く天窓を開け、すべての窓と扉を開けて涼しい風を通すようにしている。夕方になると北から涼風が吹き、玄関から浴室から涼しくなってくる。日暮れると風を寒く感じるときもあるほどだ。下界は災害と呼んでもよい暑さというが、幸い蓼科は外の気温は30℃になっていても、室内に入ると25℃と快適な生活環境がまだ保たれているようだ。お盆を過ぎると秋めいてくるのももう間近だ。

      
     
写真左・今はこんな感じ          写真右・ 秋になると
 

7月16日 帰ったあとの風景

宴のあとの山小屋はその片付けに忙しい。まずは洗濯。シーツ、枕カバー、タオルを、2台の洗濯機をフル稼働して洗ったら、晴れているときは1階と2階のベランダに満艦飾で干す。極楽トレッキングは3連休の真ん中の日で終り、朝食後みんな帰る。なのでこの日は洗濯して終わり、掃除や次の用意は3日目の休みの日に行う。
洗濯したら足りないものを買い出しに行き、新聞を買ってきて読みながら昼寝だ。これでこのイベントの疲れをとる。翌3日目は、朝からトイレ、ふろ場、洗面台の掃除。ここをしっかりときれいにしておくのが重要だ。他の貸別荘で経験したのはトイレの裏側が汚かったり、シャンプー、石鹸の補充がされていなかったり、こんなことが印象を悪くする。そのあとはベッドメイキング、そして床を掃除機で清掃。ベッドメイキングの前に掃除機をかけると、その後また清掃しなければならないことを経験で知った。すべてをやり終えるとグッタリする。これに加えて庭の花の植え替えや草刈が加わるとほとほと疲れる。それでも次に来た人が「きれいですね」と言ってくれるとれは吹っ飛ぶ。

      
     写真左・解散前の朝食         写真右・帰ったあとの風景
 

7月14日 驚異の広島焼き

極楽トレッキングのもう一つの目玉は溝上さんの広島焼きだ。広島出身の溝上さんの腕前はプロ級でいろいろな具材をてんこ盛りにして焼き上げる広島焼きは絶品だ。小麦粉を溶かし薄地にして、そこにキャベツを敷き、ネギ、卵、焼きそば、ホタテ、イカ、豚肉、むきエビ、イカフライ、餅をてんこ盛りにして青のり、カツオ粉をかけて、10cmは優に超す高さにして焼き、裏返して焼く時のひっくり返しの技は見ものである。じっくりと焼いたのにおたふくソースとマヨネーズをかけてアツアツで食べる。冷たいビールとの相性は抜群だ。以前は他の参加者も挑戦したがなかなかうまくいかず効率悪いので、最近は下ごしらえは女性軍がやり焼きは溝上さんひとりでやるようになった。こんなにボリュームのあるお好み焼きは、本場の広島でも見られないのではなかろうか。大きさ、具材の多さ、焼き加減など驚異の溝上さんの広島焼きである。

      
    写真左・焼く前に乾杯           写真右・驚異の広島焼き

 

7月14日 低い割にはいい山・鷲ヶ峰

極楽スキー仲間は毎年7月の海の日連休に山荘に集まってトレッキングをしている。この日も八島湿原のそばにある鷲ヶ峰に行くことにした。以前は蓼科山や木曽駒ヶ岳など少しハードな所に行っていたが、高齢化で歩けない人も出てきたので、だんだん軟弱な山になってきた。去年は高ボッチだった。今年は1時間も歩けば頂上に着く鷲ヶ峰だ。昔は美ヶ原から蓼科山への縦走ルートにある山で、麓には鷲ヶ峰ヒュッテもある。八島湿原から鷲ヶ峰に登る。すぐ鹿止めの柵があり鍵を開けて入り、また閉める。これは八島湿原の花や植物を守るための柵のようだ。八島側にはニッコウキスゲがいっぱい咲いていたが、柵を越えた鷲ヶ峰側には一本も咲いていない。
頂上へ続く道は石道で照り返しが強い。ゆっくりゆっくり登っていく。酷暑の夏の太陽は強く汗がしたたり落ちる。石道を抜けると灌木地帯に入り、陽射しもさえぎられホッとする。そこから尾根道になり、草原に道が延びている。三角点のある手前の頂を越え少し下り、林の中を上り切ると鷲ヶ峰の頂上だった。見晴らしはよい。南に車山から霧ヶ峰に続く草原の山、その向こうに蓼科山、右に目を転ずると八ヶ岳連峰、甲斐駒や北岳の南アルプス、さらに西方向には中央アルプス、御嶽もうっすらと見え、北に動くに従い乗鞍。穂高は雲の中だった。北方向の真正面には和田峠から美ヶ原に続く山々。左下には諏訪湖が見え、下諏訪や岡谷の町も眼下だ。すてきな眺望を眺めながら昨夜作ったサンドイッチと赤飯のおにぎりをほおばった。頂上は日陰がないので、食べたらそそくさと帰り支度だ。眺めのよい山道を「♪今日は野を越え、明日山越えて・・・♪」と口ずさみながら、山を下りてきた。

      
     写真左・鷲ヶ峰の頂上           写真右・鹿除け柵
 

7月13日 ひな鳥は巣立っていなかった

7月初めの「高原便り」でポストに巣を作ったヒガラは巣立ったと記したが、よく見るともう一羽のひな鳥がまだ残っていた。黒くうずくまっていたのでわからなかった。それから一週間後来てみると、ひな鳥はいなかった。無事育ち巣立っていったようだ。残った草のしとねに小さな卵が2つ残っていた。もうこれは孵らないのだろう。親鳥も姿を見せなくなった。そしてさらに一週間後草の巣をポストから除き、ようやく本来のポストに戻した。山小屋ができたばかりの頃同じようにポストに巣を作られたが、開け閉めをやるので危険と思ったか翌年からは作られなかった。
そして10年以上経って、また作られた。同じ鳥ではないようだ。以前のはセキレイのような黒い尾羽が長い鳥だった。ヒナも2,3羽いて、ポストの中でピーピー鳴いていたものだった。今回は泣き声は聞こえなかったが、出入りする親鳥も違っていた。山小屋に来た鳥好きの人が言うにはヒガラだという。ヒガラは過去の経過は知らないから、ここは安全と思ったのだろう。来年はどうなるか、今から楽しみのような不安のような微妙な気持ちである。

      
   
  写真左・最後のひな鳥       写真右・ 巣立ったあとのポスト巣

 

【上へ戻る】

6 月

6月7〜28日 アメリカ・ルート66ドライブの旅

ルート66はシカゴからロスアンゼルスまで約4000Kの米国初の自動車道路だ。1920年代に開通し、インターステイト・ハイウェイに代わるまで、第二次世界大戦後もアメリカ中部と西部をつなぐ国道として使われたマザー道路とも呼ばれる、いわば日本なら国道1号線に相当する大動脈なのだ。イリノイ、ミズーリ、カンザス、オクラホマ、テキサス、ニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニアの8州を貫いている。
スタインベックの「怒りの葡萄」では、砂嵐で穀物が壊滅したオクラホマ州の農民家族がぼろ車に家財道具一式を積み込んで、果物が実るカリフォルニアを目指した涙と苦難の道路として描かれている。そんな歴史ある道路も今は通る車も減り、沿線のガソリンスタンドやモーテルはつぶれたものも多く、その残骸が歴史の跡をしのばせる。古き良き時代をなつかしむ人たちが、最近はこの道を辿ることも多くなり、日本の街道歩きに似た現象が起きている。妻にとってもルート66は大好きなエルビス・プレスリーが売り出し中の頃、カリフォルニアへ通った道でもある。後期高齢者直前の私にとって、長距離ドライブの最後の機会と考え、全線走破に挑むことにした。

         
 写真左・ルート66は1926−1964     写真右・B ルート66標識バイク用
 

 借りた車は日産アルティマ

ルート66を走るに四駆が望ましい。なぜなら舗装が完全でないダートの道や坂道も多いからというが、レンタカーで四駆を手配するのは至難なので、二駆を手配した。当日、渡された車は日産アルティマ、コンパクトではあるが、日本車なので安心だ。この車は本当によく走ってくれた。途中、アリゾナでダートで猛烈な凸凹道にはまり込んだときは、何度もお腹を打って、どこかに穴が開くのではないかと思ったが、大丈夫だった。パンクもせず、最後まで障害なしに、ルート66約4000K、途中のペイジ、セドナに立ち寄ったり、ルート66後のヨセミテやシリコンバレーを廻ったのが約2000K 、計6000Kを無事走ってくれた。さすが、アメリカ生産ではあるが日本車だ。返す前に40ドルも払って洗車したが、借りる前よりきれいになって、返すことができた。

      
  写真左・こんなダートの道も走った     写真右・日産車で6300K走破

 

6月7〜8日 シカゴからセントルイスまで・イリノイ州

羽田からANAでシカゴに着いたのが7日の朝、早速レンタカーで五大湖のひとつミシガン湖に面するシカゴ中心部のジャクソン通りに向かった。NAVI が導いてくれた。昔はこの通りがルート66の起点になっていたが、今は一方通行でお終点になってしまい、隣のアダムスが出発点である。Historic Route66 Startの標識を探したが、見つからず、やむなくジャクソン通りにあったEndの標識を写真に撮った。
最初の日なので、今晩の宿はルート66沿いの郊外にあるベストウェスタンのモーテルを予約しておいた。ルード66を走るための道路詳細が載っているガイドブックを事前に入手していたが、走ってみると、細かい曲がり角など、ガイドブックには書いてあると思うが、運転しながら読むことができない。NAVIは目的地への最短ルートを示し、ルート66を通るとは限らない。ルート66専用のNAVIもあるのだろうけれでも入手できなかった。こんなわけで、最初から思うようにルート66を走れないのだ。所どころにHistoric Route66の標識もあるが、十分でない。そこで作戦変更、ポイントをNAVIで指定して、そこへ行ったら、しばらくはルート66を走り、??になったら、次のポイントを指定するやり方で走ることにした。今日の宿はベストウェスタン・シカゴカントリサイド

             
   写真左・Endとなっているが始発点    写真右・最初の宿はBestWestern

 

ハイウェイ55を走って、ポイント方式でOdellで下りてルート66を少し走ると古いガソリンスタンドがあった。今は土産物屋になっていて、ルート66グッズを売っていた。プレートを買った。そのまま旧道を走ると、Pontiacの村に入り、Old Log Houseという食べ物屋があり、雨の中を走って入り、ここで昼食。食堂にはルート66関連のいろいろなものを並べていたがその中にKorea Chapterの写真があった。ハーレーダビットソン関連の韓国の団体らしい。日本人のバイク仲間での旅も写真にあったが、オートバイでのルート66の旅もはやっているらしい。
リンカーンが大統領になった当時、住んでいたスプリングフィールドの町をちょっと見て、今日は雨でもあったのでセントルイスまで行くことにした。これで一日稼げるので、後が少し楽になる。夕方のセントルイスのハイウェイはおびただしい車が走り、中心部を抜けるのに苦労したが、ルート66方向の郊外にやっと出て、ホリディインを発見、ハイウェイを下りて行ってみたが満員、通りの反対側にDrury Inn&Suitesという初めて見るモーテルがあり聞いたらOK,しかも夕食も出るという。ビールもタダで飲め、コスパが高い。ここはよい。

      
  写真左・Odellのガソリンスタンド       写真右・Old Log Cabin
 

6月9日 ミズーリ・スプリングフィールズへ

セントルイスで西部開拓モニュメントのタワー・ゲートウェイアーチに上った。ここから西部開拓の歴史が始まった。ミシシッピ川対岸のカンザス州インデペンデンスが馬車や牛車時代の西部開拓の始発点、オレゴントレイルが始まる。この歴史の道は既に何度か旅して、オレゴンまで制覇している。
今日は車の旅の歴史だ。ハイウェイ44でスタントンで下りた。ここには”世界初の銀行強盗ジェシージェームズが身を隠していたという洞窟がある。今は観光地として人を集めている。大きな鍾乳洞もあり、面白かった。
スプリングフィールドという町に宿をとった。ここはプレスリーがよく使った宿で、玄関前には彼の愛車のキャデラックが置いてあった。部屋の絵もプレスリーを描いたもの。妻はすこぶる満足の宿になった。宿もプレスリーを売りにしているらしく、看板下の電光掲示板には”Elvis Stayed here 1956"と出ている。彼が売り出した頃、まだ飛行機はポピュラーではなく、車でこの道を通ってラスベガスのショーやハリウッドでの映画撮影に出かけていた。夕食はうどんとコールスローサラダ。宿:ベストウェスタンレイルヘヴン

      
      写真左・Elvis             写真右・Stayed here
 

6月10〜11日 カンザスからオクラホマへ

ルート66はミズリー州を抜けるとカンザス州の南部を少しかすめる。ハイウェイ44は通らないので、そのまま行ってしまうと、カンザスを抜かしてしまうので、途中でBaxter Springsの町に向かった。ここはルート66が通っているカンザス州の町だ。そこからできるだけ忠実に旧道をなぞり、オクラホマ州に入った。
Aftonを過ぎて、Vinitaの寂れた町で昼食。中華料理があったので迷わず入った。妻はチャーハン、私は焼きそばを注文した、味はまずまずで箸が使えるのがうれしい。コーラが缶にストローをつけて出てくるのには驚いた。若い賢そうなお兄ちゃんがウェイターをしているが、ここの息子なのか?この町で生きていくには未来がないような気もする。
「怒りの葡萄」ではオクラホマでの未来に失望した若者がこのルート66をカリフォルニアを目指すストリーだが、その話を何か思い出した。途中、世界一のトーテムポールや青いクジラ公園を横目に見ながら、Tulsaの町からまたハイウェイ44に乗った。今日の宿はオクラホマシティのホリデイイン・エクスプレスだ。毎日走ってから、翌日の泊る町が決まったら、ネットで宿を予約するようにした。ホリディインもそうして決めた宿だ。オクラホマシティは州都だけに大きく、ハイウェイをいくつか渡ってNAVIの案内で到着した。ここまでシカゴから1400Kの距離だ。

           
  写真左・ルート66バナーがあちこちに     写真右・途中の町の中華屋で
 

オクラホマシティから西へ向かうハイウェイは40号に代わる。その道をYukonで下り、旧道をEl Renoの町に入った。ここにはルート66の大きな看板がある。Gearyからダートの道に入った。砂埃は舞うが、道はそれほど凸凹しておらず走りやすかった。今日はクリントンに泊ることは決めていた。ここにはエルビス・プレスリーが定宿にしていたTrade Winds Innというモーテルがあり、エルビスファンの妻にとっては避けることができない町なのだ。しかしネットの評価は最低で、「こんなモーテルにエルビスが泊ったとは思えない」 など悪評タラタラなのだ。さすがにこれでは、と敬遠し、ヒルトン系のHampton Innに予約を入れておいた。
お昼ごろに町に着いたので、宿の前にあったモンタナステーキの店で、アメリカに来て初めてのステーキを食べた。おいしい。まだチェックインには時間が早いのでこの町にあるルート66博物館に行くことに した。NAVIにセットした通りに行くのだが、どんどん町を離れるではないか。もう一度、モーテルに戻ってみたら、目と鼻の先にあった。NAVIはどうしたのか?
この博物館はまさにルート66沿線のヒストリー満載だった。博物館の前に、泊まろうとしたTrade Winds Innがあった。古く大きいモーテルだ。エルビスはここの215号室に泊って、その番号札はファンに取られてしまい、ルームナンバーなしの部屋になっているとの話だったが、行ってみると、新しい隣の部屋と字体も大きさも違うルームナンバーがかかっていて、ここかとすぐわかった。何の変哲もない部屋だ。大きなモーテルだが、メンテナンスが行き届いておらず、ネットのように、「ほんとうに、ここにエルビスが…?」と思うような所だった。

      
     写真左・ELRenoの壁画    写真右・エルビスが泊った部屋番号が大きい

 

6月12日 テキサスへ

クリントンの隣はElk City、ここにはNational Route66 Mueseumという博物館がある。今、気が付いたのだが、昨日のNAVIの狂いはここを指していたのではなかったか?開館前に行ったので、隣接する民芸博物館の昔の町模様などを眺めているうちに開館。ルート66を走った車の歴史などもあり、興味深かった。
オクラホマからテキサスへ入る道は平原の中を走り、あまり州を越える感じがしないまま、テキサスに入っていた。シャムロックからマクリーン、アランリードと小さな村をいくつか通り、途中のジェリコあたりだろうか、小さなレストランで昼食。ようやく旧道の走り方に慣れてきた感じだ。今日のメインイベントはアマリロ郊外のキャデラック・ランチ、テキサスの富豪が西海岸から芸術家を呼んで作ったアート、大地に突き刺さったペンキ塗りの10台のキャデラックが並ぶ。けったいな芸術だ。何もない平原に突如、車の串刺しのようなものがあらわれる光景は異常でもある。みんな国道に車を停めて、見に行っている。我々も行こう。 

           
  写真左・NAVIがまちがえた博物館?     写真右・キャデラックランチ

 

今日は、アマリロ辺りで泊ろうとしていたが、妻が昔のクラシックな平屋建てのモーテルに泊まりたいというので、ニューメキシコ州境あたりまで行こうと走っているうちに理想的なモーテルを発見。長い平屋で部屋前に駐車するモーテル、その名もカントリインだ。部屋に入ると、昔なつかしい作り、昔とちがうのは冷蔵庫と電子レンジがついているところ。これがあるから、毎日ソバやカレーライスが食べられるのだ、出発時に買ったポリエステルのクーラー箱に毎朝、モーテルの製氷機から氷を詰め、野菜やハム、飲み物を冷やしながら運んでくるのだ。ホリデイインやハンプトンイン(ヒルトン系)など大手のホテルがモーテル経営に乗り出したのは最近の話、こちらは4,5階建てでエレベータもあり、荷物を運ぶのに苦労しない。ただどこも同じような作りなので趣に欠ける。古いモーテルは味があるのだが、空調がうるさく、バスルームが狭い。新しいのを選んだり、古いのにしたり、走る状況に合わせて旅をするのが楽しい。

     
  写真左・古き時代のモーテル       写真右・室内はこんな感じ

 

6月13日 ニューメキシコ・サンタフェへ

州境に近いエイドリアンがルート66の半分ずつの距離でロス、シカゴまで1139マイル、Mid pointの標識があるというが、見つからない。その先のツクムカリの博物館に写真はあった。テキサスからニューメキシコに入ると、高地に来たという感じで、モニュメントバレーのような山々が見える。ここからサンホンの町までは舗装されていないダートの道をしばらく走る。砂ぼこりを巻き上げて走るが、乾いているので走りやすい。ツクムカリに来た。モーテルが沿線にたくさん並ぶ、まさに宿場町である。道半ばを過ぎた所なので、泊まるには適した位置なのだろう。町を抜けようとする所にルート66博物館があった。
ここにもエルビス・プレスリーの等身大写真があり、妻はご満悦。ルート66最後の1950年〜1960年代の、この道を通過した最大のスターなのかもしれない。旧道とハイウェイ40を交互に走りながらサンタローザの町に入った。ここはルート66がサンタフェ経由になるか、アルバカーキ直行になるかの分かれポイントだ、分去れ、中山道と北国街道が分かれる軽井沢の追分のような所だ。この砂漠のオアシスのような街に水深40mもあるブルーホールと呼ばれる湧き水の池がある。夏はダイビングスポットで池の脇の岩から、たくさんの若者が飛び込んでいた。ひとり、若いお嬢さんが飛び込もうとしては何度も躊躇して飛び込めない。うしろに順番で長い列ができるのだが、お構いなしに逡巡している。男性から促されてやっと飛び込んだのは15分後くらいか。

      
    写真左・ダートの道を走る      写真右・中間点看板、博物館で発見
 

サンタフェグリルで昼食して、我々はサンタフェへ向かう。しばらく走って、ハイウェイ40なのに気づく。これはアルバカーキ直行ルートではないかと、サンタローザへ戻っていった。私の頭の中では、サンタローザの町で分岐すると思っていた。地図を見ていた妻は、ハイウェイ40の途中から分かれていると言う。そこで側道に出て確認。その通りだった。サンタローザから17マイル走った所でルート84に行くのだった。これがルート66でもあったのだ。その道に入ると車の数がめっきり少なくなったが、サンタフェに近づくにつれ増えていった。ラスベガスとロスアンゼルスを結ぶハイウェイ25と合流するからだった。旧道から新道へ切り替わっていく現実を見たような気がした。
サンタフェの町に入ったが、今日の宿は決めていない。ウロウロしている間に、妻はNAVIでセントルイスで泊ったDrury Inn系列と思われるホテルを見つけた。NAVIに導かれそこに到着。Drury Plaza Hotelと一段上の格式だ。フロントに聞くと一泊300ドル、3万円だ。観光地サンタフェでは仕方ないかと投宿。ここも前と同様、二食付き、ビール付きであった。夕方、街に出て、露店が並ぶ旧市街で妻は気に入ったブレスレットを見つけた。60ドル、現金のみという。慌てて、銀行へ行ってATMを聞いた。5時過ぎなのに、銀行は夕方5時閉店の表示があるのにまだやっている?そこで気がついた。時差が1時間遅れて、ここはまだ4時なのだ。

      
  写真左・ブルーホールへ飛び込む       写真右・サンタフェの町で
 

6月14日 ニューメキシコ・グランツへ

立派なDrury Plaza Hotelを後にして、今日はGrantsまでの旅、ここも妻お目当てのエルビス宿泊モーテル泊りだ。アルバカーキまでルート66と重なっているハイウェイ25で行き、アルバカーキのOld Townを目指した。サンタフェ同様、アルバカーキもプエブロインディアンやメキシコ系の文化が残っている。
美術館に入ってその文化の一旦にふれ、ハイウェイ40に乗った。ハイウェイの下り口に時々”Historic Route66"の標識が出ている所があるので、そういう所では下りるようにしている。こんどもLagunaという所で下りた。ちょうど昼どきだったのでガソリンスタンド横の喫茶店のガラス窓を見たら”World Famous Laguna Burger"とあるではないか。「よし、これだ!」と店に入り、注文。World Famous と言うほどのものではなかったが、おいしかった。グランツに近い村でSky Cityの看板発見、山の上に町があるんかと標識に従ってかなり走ったら崖っぷちに出た。そこにSky Cityの案内板、町ではなく昔、戦のときの砦であった。グランツにはSands motelというELVIS Roomのあるモーテルがある。その部屋に泊れるのだ。
部屋の中にはエルビスの写真と結婚したときの証明書写しが。1971年となっているが、その頃のエルビスは絶頂期で「こんな所に泊るはずがない」と言う。翌朝、フロントに聞くと、プリシアと結婚してからここに来て、私たちの部屋に泊ったのは事実だと言う。妻は半分??ながら、納得。ふつうのクラシックなモーテルだ。ここまで見てきたエルビスの宿はすべて古いモーテル、それでもその地ではハイクラスのモーテルだったんだろうな。

         
     写真左・World Famous…      写真右・エルビスルームに泊まる
 

6月15〜18日 休息の地、アリゾナ・ペイジ、セドナへ

4000キロの道を走り続けるのはしんどいので、途中、休息の日を設けることにした。それがペイジとセドナだった。ペイジではアンテロープキャニオンに行き、セドナではパワースポット巡りをして、しばしルート66から離れよう。ニューメキシコ最後の地はギャラップ、ここにはホテルエルランチョという、往年、西部劇等の撮影時にスターが泊ったホテルが今も健在だ。モーテルとはちがい、格調が高い。ロビーには多くのスターの写真が飾られ、客室にはジェーンフォンダやハンフリーボガードの名がついている。
メテオシティからアリゾナ大隕石孔に行った。5万年前、直径45mの隕石がここに落ち、直径1200mの大きな穴を作った。ほぼ完全に衝突の跡が残っているのは世界でもここだけだそうな。ウインスローの町では、私は知らないがイーグルスの代表曲にちなんだ青年の像が街角に立っている。近くのメキシカンタコで昼食。フラッグスタッフで右折してペイジへの道路に入った。ここから212kの所にある。蓼科までより遠い。泊りはカントリインBYラディソン、一昨年泊ったイギリス・エジンバラのラディソンホテル系らしい。町に着いてどこかと見渡したらあった。NAVIでは出てこなかったので、困ったなと思っていたが、ホッとした。

      
   写真左・エルランチョホテル        写真右・隕石が落ちた穴
 

アンテロープキャニオンに行くことにした。個人では入れない所なので、地元発のツァーに参加した。
12時30分集合、13時出発。トラックに揺られてアンテロープ入り口まで行く。そこからガイドについて岩の割れ目に入っていく。長い年月をかけて川の流れが砂岩を切り刻んで、複雑な割れ目を作った。その割れ目の中に入り、上を見ると太陽の光が岩の割れ目に入り込み、美しい帯状の光線が注ぎ込むのだ。得も言われぬ光景とはこういうことを言うのだと思う。奥へ奥へと進んでいく。ガイドは造形された岩を指さし、リンカーンの顔というが、どれが顔なのかさっぱり理解できぬ。30分くらい進むと、反対側の谷間に出た。
この谷間に川が流れていたことがわかる。ここからもと来た道を戻ってツァーは終了。不思議な景色だった。

      
    写真左・アンテロープ入り口       写真右・アンテロープ内部
 

ペイジに2泊したあと、セドナに移動した。フラッグスタッフから南へ24マイル(38キロ)と近い。
セドナの町に入ったら大渋滞だ。予約しておいた宿は沿線には見当たらない。NAVIでも出てこない。わからないので、開いていてお客のいないギャラリーで聞いた。とても親切なお姉さんで、地図に印をつけてくれた。それを頼りに行くがわからない。右往左往しているうちに、妻が地図でその通りが別な方向にあると言う。まさかと思って、そこへ行くとホテルはあった。セドナ・スプリング・リゾート、コンドミニアムホテルだった。台所もついている。長期滞在者も多いのだろう。予約は1泊だったが、ここに2泊することにした。
2日目のセントルイスまで行き、余裕の出た1日をここにあてた。翌日はパワースポット巡りと2ケ所行くことにした。最初は空港近くのエアポートメサ、宿から近かった。ここからはセドナの町が眼下に見える。
座禅を組んで、パワーに没頭しているお嬢さんがいた。またヒューストンに駐在している日本人家族にも会った。もう一つはベルロック、「直感と決断の山」とも呼ばれ、力強いパワーを与えてくれるスポットだそうな。セドナの南、駐車場から30分ほど歩く。暑い夏の太陽を浴びてのハイキングとなった。この町は安室奈美恵が来たことで、日本の女性の憧れの場所になったという。予想以上にきれいな景色で、良い町だ。

      
     写真左・エアポートメサ         写真右・ベルロックへ
 

ペイジとセドナの休日は長距離ドライブが毎日続いていたので、とてもよかった。最初の4日間くらいは時差ボケも相まって、とても疲れ、夕飯を食べると、すぐに寝る始末。だんだん慣れてきたが、ドライブ中に猛烈に眠くなることがあった。そのときはしばらく横になった。また持ってきた東京六大学の応援歌CDをかけ歌うと、なぜか眠気が覚める。紺碧の空しかり、若き血しかり、紫紺の歌しかり、センポールサンシャインしかりである。娘がくれた安全運転お守りのためにも事故を起こすことはできない。この4日間の休息はとても良かった。

      
    写真左・お守りつけて走る        写真右・車もしばし休む
 

6月19日 ルート66もっとも人気コースへ

グランドキャニオンへ行く列車の発車駅ウイリアムズへ寄って、ルート66の最も人気コースへ行こうと思う。なぜ人気かというと、セリグマンからキングマンの間の165キロは、ハイウェイが別ルートを通ったため、ルート66旧道がそっくり残り、古きモーテル、スタンド、土産物屋など満載の街道一の人気コースなのだ。
快適なセドナを後にフラッグスタッフからルート66に戻り、旧道を中心に旅を続けた。ダートの道を行こうと、通常のコースに分かれてダート気味の道に入ったがこれが大問題。急に工事専用のような道になって、線路と高速道路の間の超ハードな砂利道に入ってしまった。車の底に石や溝があたるたびに妻は悲鳴を上げ、「ハイウェイ、ハイウェイ」と叫ぶ。ハイウェイ回避の設定をナビにしたので、それを「ハイウェイ優先」にして、即刻ハイウェイに戻りたいとの叫びなのだが、「こんな所でハイウェイ指示しても戻れるわけがない、ふつうの道に出るまで格闘しなければならい」と諭すが、こんなに慌てふためいた妻を見たのは初めてだった。やっと横に走る舗装道路に出てホッとした。後ろをついてきたもう1台のドライバーと「やれやれ」とお互い指をたてて別れた。ウイリアムズの駅ではちょうどグランドキャニオン行きの列車が発車するのを見ることができた。

      
     写真左・セドナの宿の庭     写真右・グランドキャニオン行き出発!
 

セリグマンにはミルクシェイクが有名なデルカディーロの店がある。ミルクシェイクで作って来たサンドイッチを食べ、昼食とした。付近の土産物屋を見て、旧道を走った。途中のハックベリーの雑貨屋で、主人から「三沢にいたことがある」と言われ、つい土産を買ってしまったりした。
キングマンに泊ることにしていたが、肝心のエル・トロバトレモーテルが見つからない。ここは各部屋に有名なスターの名前がついていて、エルビス・プレスリーもある。かなり進んだ所にあった。はずれだと思っていた場所が町の中心だった。親父がとうとうとしゃべり、チェックインに時間がかかる。エルビスルームを確保、この部屋ではないが、プレスリーは兵役訓練でこの町に来て、このモーテルに泊ったそうだ。部屋には3枚の若い頃のエルビスの写真。妻はご満悦。

      
   写真左・ミルクシェイクの店      写真右・3枚のエルビスに囲まれて
 

6月20日 いよいよカリフォルニアへ

宿の親爺はカリフォルニアへの道はつづら折りの道が続く、昔はダートだった、と言っていた。ところが出だしで道をまちがえ、ラスベガス方面に行ったり、ルート66を走っていると思ったら「Welcome ネバダ」の看板が出てきて、また戻ったりで、ハイウェイでまずは目的地に着くことを先決にして、ハイウェイに乗ったところで、些細なことで妻を叱ってしまった。妻は「日本にすぐ帰りたい。こんな旅行はやりたくない」と言って泣き出すし、ひと波乱。
映画の撮影に使われたバグダットカフェに着いて、アイスティーとバッファローバーガーでようやく機嫌復旧。しかし今日の宿を決めていなくて、これを見つけるのにひと苦労、ロス前のかなり大きな町サンバーナディノに入って探すが見つからず、ガソリンスタンドで聞いたホテルに行くと閉鎖されていたり、その間、ナビで妻が探したホリディインに行くと満室、もう一回ガソリンスタンドに聞いたヒルトンインに行ったら、付近にベストウェスタンやデイズインがあった。ヒルトンに聞こうとしたら、妻は「もったいない」と言って、向かいにあったクオリティインにチェックインしたのが町について2時間後、これまたホトホト疲れた。

      
    写真左・道にもルート66         写真右・バクダッドカフェ
 

6月21日 今日はゴールのサンタモニカ

ルート66、最後の日、マグドナルド第一号店ミュージアムがあるというのでまずここを訪問。この日はロスに入ったらできるだけ忠実にOLD66ルートを走ろうと、パサデナの町からNAVI頼みで、サンセット通りに入り、ヴィバリーヒルズを通って、サンタモニカ通りに入った。これを直進し海岸に着けばそこが終点。それが長かった。ようやく2時過ぎに最終地点に入ったが駐車場が満杯で、レストランの駐車場に入れ、高い料金を払って、最終地点のポールへ行き、記念撮影。妻の背に手を回し、長い旅のナビゲータ役をねぎらった。サンタモニカの海岸は人であふれていた。この日は、できるだけ次の目的地のヨセミテに行く方向の道の町に宿泊すべく、夕方の猛ラッシュの5車線ハイウェイを渡り抜いて、ようやく郊外に出たときは6時過ぎ、ランカスターという町に来てベストウェスタンの看板発見、ここに投宿、もう8時過ぎ、ルート66完走記念してビールで乾杯、ぶっかけうどんがおいしかった。

         
写真左・マックミュージアムには日本コーナーも    写真右・ルート66完走
 

ルート66を忠実になぞっての完全走破ではなかった。ポイントの点と点を結ぶ走破となったが、それでも達成感は高い。ガイドブックをきちんと読み込めば忠実に走れたかもしれないが、英語のガイドブックなので瞬時に読み込むことは無理だし、標識もハイウェイ下り口にあっても、その先の分岐にはなく右へ行っていいものか、左かで迷うことも多かった。大きな街中に入るとなおさらだ。ナビゲータの役割は重要で、過去に走ったことがある人でないと難しい。それでも何とかやり終えて、苦労をかけた妻に感謝したい。
 

6月22日 マンザナール経由でヨセミテへ

ヨセミテまでは楽勝と朝9時過ぎに出たが、これが長かった。途中ローンパインの町で、フィルム博物館を見つけ寄った。ここはハリウッドに近く、無声映画の頃から、西部劇撮影によく使われたという。「大いなる西部」や「ローハイド」にも使われたそうだ。この町を出て12マイル行った所に第二次大戦のとき日本人が強制収容された日本人リロケーションサイトがある、今はアメリカ国立公園局が管理していて、レナルドレーガン大統領の「This was mistake」と謝ったビデオを流すビジターセンターがある。ここで亡くなった人の慰霊塔で涙しつつ深く一礼。同じ敵国のドイツ人やイタリア人には何もおとがめなかったのに日本人だけにこんな目に合わせて不公平と言うと、妻は「真珠湾を攻撃したのだから仕方ない。ここでは三食保証され安全に生活できただけでもよかった。その頃の日本は空襲の連続でたくさんの日本人が死んだし、食べ物もなかった。満蒙開拓団の人たちの方がもっとかわいそう」と反論。それもそうかな?そのあとヨセミテまでが長かった。公園入口まで2時間以上かかり、そこから宿のBig Trees Lodgeまでも2時間、着いたのは7時を過ぎていた。
国立公園のヨセミテはとても広いのに主な宿は3軒しかなく、1年近く前に予約したのに、よいホテルはいっぱいでとれたのが、このBig Trees Lodgeだった。これがバスなしで共同シャワーとなっていて「まあ仕方ない」と思っていたが、部屋に入ったら、「トイレがない」と妻が言う。「そうか、日本はトイレと風呂が別々が普通なのだが、アメリカはバスと言うとトイレとセットなんだ」と理解したが、夜中にトイレに行ったら部屋は鍵が自動ロックされてしまい、トントンと扉をたたいて、妻を起こす始末。朝になってフロントに行って、「バス付に変えてくれ」と頼んだが、満杯でダメとのこと。

      
  写真左・ マンザナール収容所慰霊塔 写真右・BIG TREES LODGE外観は立派だが
 

6月23〜24日 ヨセミテ滞在

この日は午前中、短いトレッキングをして昼に帰ってきて、シャワーを浴び、部屋の前のベンチでツナサンドとビール、ジュースで昼食。高級な山小屋に泊っていると割り切ればよいと考えを変えた。
夕食はサタデイバーベキューに参加。夕方5時からの2時間だが、ロッジの前の会場は夕陽をさんさんと浴び暑くてかなわない。唯一の後ろの木陰にセットされたテーブルがまず取られ、我々はその前の背中に太陽を浴びる場所。汗かきながら、肉をほおばった。翌日はヨセミテの中心のヨセミテバレイに車を走らせた。1時間もかかる。駐車場は満杯で駐車禁止の立て札を移動させて、その場所に確保した。
ミラーレイクまで1時間強のハイキング、これまた暑くてかなわない。今日は摂氏36度くらいで冷たい水がいちばんだ。今晩のディナーはロッジでの晩餐、旅の終わりを祝いたい。

      
  写真左・西日を受けて暑いバーベキュ     写真右・ヨセミテバレー
 

6月25〜27日 なつかしきPalo Alto

ヨセミテのロッジでの最後の朝食を食べて、シリコンバレーのパロアルトに向かった。最後の行程に入った。クリークサイドインに午後3時過ぎに到着。ここは40年前、HP時代に3ヶ月泊っていたモーテル、1泊25ドルだった。今は超高級モーテルになって一泊300ドルも取る。
明日は昔の仕事仲間のダン・マーティンに会って食事するのが最後の行事だ。その前に今晩の食事の総采を買いにスーパーへ。ここまで来ると、寿司、豆腐もある。寿司とサッポロビールを買って、無事ここまで到達したことを祝おう。アメリカンチェリーも買ったら、これがとても甘くおいしい。帰りに洗車に寄ったら、3,000円もした。すべて手洗い、中の座席まできれいにしてくれた。気になっていた、アリゾナの悪路でこびりついたタイヤの裏のバンパーの泥まできれいに取ってくれた。高いだけのことはある。
帰国の日、サンフランシスコ空港に走らせレンタカー返却のため、レンタカー専用のビルに入ったら借りた会社を忘れた。バジェットと思い、そのフロアに入れ、契約書を見たら、ダラーだった。フロアが違うと言われ、抜け道を教えてもらい、何とか無事返却。最後までバタバタした旅となった。

      
   写真左・旧友ダンマーチンと         写真右・最後の洗車
 

6月6日 板東さんの写真展

日野稲門会のスキー仲間の板東さんが青山で写真展を開いた。スキーの打ち上げも兼ねるということで、アメリカ出発直前ではあったが行ってきた。板東さんはプロのカメラマンで、昔ながらの白黒ネガを得意とする。現像も自分でやるそうだ。水の風景を主体としたテーマだったが、奥志賀や湯沢、四国の沈下橋なども出てきて、行ったことがある土地の写真に興味をひかれた。これからもますます活躍して頂きたい。

      
     写真左・作品のひとつ            写真右・鑑賞する
 

6月1〜3日 奥志賀山菜

今年の春は早かったので、奥志賀の山菜はあまり収穫ないのでは?と思ったが、なんのなんのワラビやヤマウドがたくさん出ていた。そしてネマガリダケも初めて採った。これは大変だ。タケノコがありそうな急斜面の笹薮に身をかがめて入り込み、下から上へと這いつくばってタケノコを探す。見つけたら、根元深く掘って、引っ張り、ナイフで根元を切る。這っての作業なのでしんどい。熊もタケノコ好きで取りに来るというから、こんな所で鉢合わせしたら逃げることはできないな。などと思いながらのネマガリダケ採りは怖いが、面白い。

      
     写真左・ネマガリダケ        写真右・ネマガリダケの一品 
 

【上へ戻る】

5 月

5月25日 知らなかったちまきの秘密

今頃の新潟は、ちまきの季節だ。ひと月遅れの節句に田舎ならどの家庭でも作ったものだ。今はメーカーが作って売っているが、昔は一家総出で作ったものだ。
ふるさと塩野町でも笹を細長い三角形にして、そこにもち米を入れて、もう一枚の笹でフタをして蒸していた。私が死ぬときは最後にふるさとのちまきを食べて死にたいと思っているほどおいしいのだ。
湯沢で集まったとき、岩原駅前の文吾屋さんがちまきをみんなにお土産だと言って、持ってきてくれた。正三角形のちまきだ。駅や物産店で売っているのも正三角形だ。「うちの田舎は長細い二等辺三角形だよ」と言ったら、文吾屋のかあちゃんが、「米が少ないときは細長くするのさ、入れる米が少なくてすむから」。愕然とした。「そうか、うちの村は貧しかったのか。ちまきに入れる米にも苦労していたのか」。越後湯沢は米どころだ。
それでも不作のときは細長くしたという。わが村はいつも貧しかったんだなあ。生まれてこの方、うちの田舎のちまきの形を誇りにしていたのに、この真実を知って、わが村の人々の苦労の歴史を初めて知った。

      
     写真左・二つのちまき    写真右・正三角形は量が多く、細いのは痩せている
 

5月25日 雪国”はここで書かれた
”岩原同窓会”で泊った宿は高半、川端康成の名作「雪国」の舞台となった古い旅館だ。昭和9年から12年にかけて、川端先生はここに滞在して執筆した。そのときの部屋が保存されている。かすみの間の小さな二つ続きの部屋だ。ここに駒子のモデルになった芸者も来たことだろう、窓からは降る雪越しに上越線の汽車が見えたことだろう。
豊田四郎監督の映画もここで撮影されたという。岸恵子も池部良も滞在したという。寒い季節で雪の中での撮影はとてもきつかったそうだ。名作を生んだ宿での”同窓会”は思い出深いものとなった。

      
  写真左・「雪国」はここで書かれた      写真右・「雪国」資料館
 

5月24日 わが青春の岩原スキー場

上越線の列車が清水トンネルを抜けて新潟県に入ると真っ先に正面になだらかなスロープの高原が見える。これが岩原(イワッパラ)スキー場だ。55年前の大学1年のとき、友人の叔父さんが持っている山小屋をシーズン10万円で借りて、冬の毎日、スキーに明け暮れていた。岳文会や探検部の仲間、10人を集めての山小屋暮らしだった。
その当時の仲間で”岩原会”という同窓会をつくり、時々、都内で集まっていたが、なつかしき岩原で、ということになり、越後湯沢に来た。もう山小屋はリゾートマンションの敷地に消えてしまったが、岩原駅前の文吾屋夫妻は健在だ。何かとお世話になった民宿で90歳を超えた二人だが、足腰丈夫で集まりに参加してくれた。
シンガポールからは当初のメンバーだった河合君も若くてきれいな奥さんを連れて参加、温泉で思い出話にカラオケにひと晩、青春時代を懐かしんだ。翌日は山小屋跡地を訪ね、日々滑りまくった岩原のスキー場を廻った。まさに”わが青春の想い出深きイワッパラ”である。

      
    写真左・岩原同窓会の宴       写真右・わが青春の岩原スキー場
 

5月19日 ママさんを偲んで”山菜摘み”
毎年、この季節に花の木のママさんご一行が山荘に来ていた。阿波踊りの仲間や店のお客、いつも20人くらいだった。山小舎には泊り切れないので、半分は上のペンションに素泊まりで泊ってもらった。朝夕の食事は山荘でママさん手作りの料理だった。
2年前からママさんの体が思うようにいかなくなり、中止していたが、「今年も芳しくないので、行ける人でやってください」というメモを幹事の武藤さんがメールした翌日にママさんが急逝した。
今回は追悼山菜狩りツァーとなった。金曜に7人集まり、ママさんの定番メニューだった鴨鍋をやった。味はママさんには及ばないが、おいしかった。翌日は2人加わり、山菜狩り、ワサビ菜やぶどうの葉がいっぱい採れ天ぷらに。わらびもスキー場で採れ、冬の間に貯めておいた薪ストーブの灰であく抜きして、おひたしにした。ママさんの笑顔の写真を囲んで、飲めや食えやの宴会は盛り上がり、最後は恒例の阿波踊り、写真の周りを何度も何度も踊り廻って、山荘の夜は更けていった。ママさんも天国から見ていたことだろう。

      
     写真左・山菜調理風景        写真右・ママさん遺影囲んで阿波踊り
 

5月15日 一周忌の墓地

妻の母があと2か月で百歳という日に亡くなったのが去年の今日。一周忌で八王子の本立寺で身内4人でささやかに執り行った。住職のお経とお墓参りだけのシンプルなもの。お墓に花と線香を供え、手を合わせて終わった、
近くには新井呉服店の立派なお墓がある。松任谷由実の実家である。何代にもわたっての墓なのか、豪勢なものだ。

      
     写真左・一周忌のお墓         写真右・荒井呉服店の墓
 

5月14日 ハイジの村のバラは早かった
北杜市明野にある山梨県民フラワーセンター、通称”ハイジの村”へ行った。バラの季節には少し早いが、今年はどの花も早く咲いているというので期待して行ったが、バラには早かったようで、名物の”バラの回廊”はまだ葉だけだった。
それでもアヤメが見ごろで菜の花もきれいだった。ハイジの村に来たのだからと、チーズフォンデュを食べた。イモ、アスパラ、ウインナが付いて、温かいチーズを絡ませて食べるとおいいしい。この施設の運営は桔梗信玄餅の会社が請け負っているそうで、社員のサービスもよい。以前は県の職員の天下り場所だったそうで、人件費が膨大で運営が行き詰まり、アウトソーシングして息を吹き返したそうだ。いずこもお役所仕事ではうまくいかないのだ。

      
       写真左・ハイジの村        写真右・ハイジの村のお花畑 
 

5月13日 久しぶりの”こぶしの径”

春になって初めて妻と一緒に山荘に来た。八子ヶ峰にでも登ろうと思ったが、「登るのはきつい」と言うので、しばらく歩いていないこぶしの径を下り、ホテルに出て、鹿山の湯に入って、バスで帰ってくることにした。サンドイッチを持っての小ハイキングだ。こぶしの小路は八子ヶ峰正規ルートの登り口の反対側を下りていくもので、わが山荘から取っ付きまで30分くらいかかる。そこからいくつもの別荘地への側線を越え、ペンション街の横を下ると、別荘地入り口から来るメイン道路に出る。そこを渡り、ホテルへのからまつの小径に入る。そこに「荒れているので通行禁止」の看板があったが無視して進む。結果としては歩くには何も障害はなかった。ランチは手前の小川の畔で食べた。鹿山の湯でひと風呂浴びて、夕方5時半のバスで山荘に帰ってきた。ほとんど下りの妻にはちょうどよいハイキングだったのではなかろうか。

           
      写真左・こぶしの小径        写真右・こぶしの小径を行く
 

5月5日 安心して見られる東大戦
今年の早稲田は、昨年に引き続き弱い。初めに立教に負け、続いての明治にも負け、今日は東大戦。弱いと言っても、東大には負けるわけがない。点が入ったときの、隣の人と肩組んでの「紺碧の空」を歌いたくて応援席に入った。入ったときは3回を終わっていて、スコアボードを見ると、なんと3−1で東大がリードしているではないか。そのうち逆転するだろうと、ゆとりを持って応援席に腰をおろした。やっと6回になって、2点とって同点、最終回にさらに2点で逆転して、勝った。
ヤレヤレではあるが、唯一、安心して見れる試合ではあった。早稲田の弱さはスポーツ推薦で思うように優秀な選手を集められず、ほとんどを早稲田実業の選手に頼らざるを得ないことではないか?同じ水では同じようなレベルの選手しか育たず、競争に乏しい。せめて清宮レベルの早実出身者が来てくれれば、状況を打破てきたのではないかと悔やまれる。

      
      写真左・球場風景           写真右・一塁側応援席 
 

5月2日 庭の桜が早くも咲いた

蓼科も今年は春の訪れが早く、いつもは連休明け辺りが見ごろの聖光寺の桜も4月20日過ぎに満開で、連休が始まったときには散っていた。わが家に植えたソメイヨシノも、いつもの年は5月中旬なのに、連休早々に咲いた。何も手入れもしないのに幹が太くならず、ヒョロヒョロと伸びて、電線に到達している。枝切りをしなければならないのだが、面倒でそのままにしている。桜の花びらも枝にチラチラとつき、密集して咲いているという感じではない。ほとんど花をつけていない木もある。それでも花びらが春の風に吹かれて散る風景は美しい。

           
   写真左・ひょろひょろと上に伸びる     写真右・横にはパラパラの桜
 

5月1日 八子ヶ峰にも春が来た
朝から良い天気で八子ヶ峰日和だ。草原の八子ヶ峰は、晴れていると信州の目ぼしい山は全部見える素晴らしい展望台なのだ。今シーズン初めての山登りに行った。
ガン治療明けの去年は上るのもやっとだったが、その後、体力も徐々に回復し、昨年の秋は普通に登れるようになった。しかしひと冬越した今は、体力が再び落ちていて、最初の尾根への急坂では息が切れた。蓼科湖への道が分岐する尾根にようやく登ったが、ゼイゼイしてしばらくザックの上に座り込んだほどだった。大休止してから、緩やかな尾根を登っていくうちに息は元に戻った。八ヶ岳にはまだ雪が残り、甲斐駒ケ岳も仙丈ケ岳も白に覆われていた。
連休に入り、八子ヶ峰ヒュッテも小屋番が入って、ベランダにテーブルを出していた。東峰から西峰への尾根筋は心地よい春風が吹き、スキー場上のリフト下り場の板敷で横になってひとしきり八子ヶ峰の春の感触を楽しんだ。こんな気持ちのよい日は久しぶりだ。八子ヶ峰に春が来たことを実感した日であった。

      
     写真左・残雪の八ヶ岳           写真右・春の八子ヶ峰
 

【上へ戻る】

4 月

4月29日 久々の神宮

昨年秋季リーグ戦には来なかったので、昨春以来の久々の神宮球場だ。
昨日の早明戦、一回戦にかろうじて勝ったので、もしかすると?の期待で応援席に入った。しかし初回に3点とられ、1点ずつ返していくが、明治も1点ずつ加点し、5回を終わったら6対3、今日は見込みなしと応援に見切りをつけて外野に移動して生ビール観戦に変えた。東大並みに点をとられて、終わってみれば15−3。先秋は東大と同率最下位だったが、これでは今年もダメか?
次の慶法戦はいい試合だった。2−2から慶応が3点追加で勝負あったと思ったが法政も急追、8回に2点あげて5−4、最終回も一死三塁という好機。しかし一本が出ずゲームセット。
あの強い法政はどこへ行った。メンバーの高校は大阪桐蔭、横浜、作新学院など、強豪ばかりなのに。こんな状況が続くと、またOBによる監督下しが始まるのではないか。
早稲田だって危ないものだ。

      
     写真左・早稲田応援席          写真右・慶応応援席
 

4月26日 ポストに鳥の巣、今年は?
昨春にも作られた山荘のポスト中の鳥の巣。しばらくそのままにしておいたが、6月になったので取り除いた。小さな卵が数個、ヒナに孵らず残っていた。
これにこりて、もう作らないだろうと思っていたが、ポストを開けてみたら、今年も草を集めてこんもりと作ってあった。今年は何とかヒナになってほしいと思うのだが、卵があるものかどうかはわからない。山荘ができたばかりの春に作られたときはヒナがいた。
知らずに開けて、親鳥が飛び出してきたときはビックリして尻もちをついたことを思い出す。もう一度、そんな経験をしたいのだが…。

      
    写真左・たっぷりの草のしとね        写真右・鳥の巣全景
 

4月24日 温海温泉で同級会

新潟県岩船郡塩野町村・塩野町小学校が私たちが入り、卒業したときの小学校だ。
それが朝日村に変わり、今では村上市塩野町小学校だ。昭和32年(1957年)卒業は60名足らず、今は15人が鬼籍に入り、連絡がつくのは20名足らず、今年は13名が温海温泉・萬國屋に集まった。直前になり3名欠席したが体調不良と身内の不幸だ。
こんなことが日常となった同級会だが、集まれば、いつも昔の話題で盛り上がる。
ワラビ採りに行って、女子2人が山から出てこなくなった話、「またその話か、恥ずかしいからやめてくれ」と張本人のカツイが笑いながら言う。楽しい思い出ばかりでなかったはずなのに、この歳になって思い出すのは楽しいことばかりだ。
カラオケ最後は「みかんの花咲く丘」「ふるさと」で〆るのも好例だ。そんな思い出が詰まった塩野町小学校が今年で112年で閉校するという。全学年で59名、我々の1学年より少ないと聞いて閉校・統合も止むおえないか。涙が出てくる悲しさだ。

      
     写真左・同級会の宴          写真右・加者はみなジジババ 
 

4月14日 奥志賀春スキー
3月になったら暖かい日が続いて、奥志賀の雪もどんどん溶けたという。それでもまだ1mを超す雪が残っていた。みんなが来る前にひと滑りと金曜の午後、滑った。
ベタベタではないが、ザラザラとスキーに絡みつく雪で滑りにくい。体力も使うので、ひどく疲れた。太ももビンビンにもなって昨年の入院明けに滑ったときのことを思い出した。
翌朝、集まったメンバーでアーリーバード滑走に出かけた。朝6時半〜8時半の2時間、硬く圧雪した雪の上を滑るというものだ。圧雪車で雪面を整地してあるので、すこぶる滑る。朝の冷えた雪なので、硬いし、スピードも出る。これはよい。昨日とは大違いの滑りやすさだ。春はアーリーバードに限る。8時まで1時間半滑って大満足で宿に帰って朝食、これで春スキーは終わった。

      
     写真左・春スキーの宴         写真右・冬の奥志賀コース
 

4月11日 笹岡さんを偲ぶ会

私がサラリーマン時代の社長だった笹岡健三さんが亡くなり、偲ぶ会が吉祥寺のホテルであった。横河ヒューレット・パッカード(YHP)全盛の80年代〜90年代の社長だった。
TQCに精力を注ぎ、1982年にYHPはデミング賞をとった。当時はQC全盛の時代で外資系のYHPが受賞したことは誇り高いニュースだった。この挑戦にはわれわれ社員は総動員され、受審直前の年は、残業、深夜残業の連続だった。
残業代だけで数十万円という月が続いた。このときの年収に追いつくのに10年以上かかった。QC成金という言葉もあり、私もそのひとり、今の自宅はこのときの稼ぎでできたと言っても過言でない。深夜残業の帰りはタクシーチケットが使え、よき時代、よき会社であった。笹岡さんとはスキーでも一緒で、吾妻天元台や八甲田に行ったことを思い出す。何人かの社長に仕えたが、働くことのキーポイントを教えてくれた社長であった。合掌。

        
   写真左・在りし日の笹岡さん        写真右・デミング賞の思い出
 

4月4日 年取った叔母
叔母がケアホームに入っていることは聞いていたが、見舞いに行く機会がなかった。
世話になった叔母だが、いろいろなことが重なり疎遠になっていた。
小学校の同級会がふるさと村上であることもあり、思い切って訪ねてみた。狭山市の特別養護老人ホーム。大きい立派な施設だった。面談コーナーまで介護士が車椅子で連れてきてくれた。「ヒコです」「お父さんかね?」と話が合わない。こちらが聞くことには答えたり、相槌をうつが、自分から聞こうとはしない。
「食事はどう?」「作って食べています」、「買い物は?」「スーパーへ行ってます」など、言葉がていねいだ。あとで介護士に聞くと、「三食とも食堂で食べていますよ」。かなりトンチンカンで、認知症が出ているようだ。帰り道、私のことだと理解して話していたのか、気になった。ここで安楽に人生を終えることを祈っている。

      
     写真左・現在の叔母          写真右・老人ホームの催し
 

4月1日 中々連の花見
今年の桜は早く、4月1日なのに井の頭公園はもう桜吹雪だ。葉桜も近い。良く晴れて暖かいので、おおぜいの花見客でにぎわっていた。
中々連は毎年、連長の打出さんが近いこともあって、大きなビニールで席を取っていてくれたが、亡くなった今年は事務局の大川さんが買ってきたビニールシートを広げて待っていたが、サイズが小さくて、これから予想される来る人が座れ切れないというので、追加を買ってきてと買い出しに行った吉田さんたちに携帯で依頼。まだ用意されないうちにメンバーが続々集合、周りの空いてたスペースにも他の花見客が入り込み、スペース拡大がむずかしい情勢に。新聞紙やビニール袋を敷き詰めて領土拡大を図る。
それでも何とかみんな車座で座れる広さを確保して花見の宴は盛り上がった。
そこで恒例、阿波踊り開始。監視人の見回りの間にひと踊りだ。周りの花見客も飛び入り参加、連員勧誘のビラを渡す。これまでの花見でもチラシを配ったが、まだこのチラシで入ってきた人はいない。今年はどうか?

      
      写真左・葉桜近し         写真右・花は散れども踊りは楽し
 

【上へ戻る】

3 月

3月29日 林家たま平

先代林家三平の孫にあたる、林家正蔵(旧こぶ平)の息子のたま平が二ツ目に昇進したとかで、その披露寄席が日本橋の三越劇場で開かれた。三平師匠の甥の川島さんが席を用意してくれ、妻と一緒に出かけた。真打昇進披露はあるが、二ツ目では聞いたことがない。さすが林家のご威光か。
ほぼ満席、正蔵が口上でも言っていたが、ひいき客半分、義理客半分と見た。三増紋之助の曲独楽に続き、たま平の落語は若いだけあっての高座を飛び跳ねる賑やかな一席、中入り後の口上は正蔵と弟の三平。兄弟そろって「昇進」を「ショウヒン」と噛む始末、「血は争えない」と正蔵がサゲていた。正楽の紙切り演芸のあとに、たま平がもう一席「八五郎出世」。語りもしっかりして元気がよい。将来は親を越えるかもしれないうまさの片鱗を見た。

            
    写真左・たま平昇進披露          写真右・林家たま平
 
  

3月28日 日野の桜

妻が退院し、体力回復のために花見を兼ねて散歩した。コースは市役所から百段階段経由で帰ってくるという基礎的なコースだ。市役所まで行って、アイスクリームを買って、中央公園のベンチで周りの桜を眺めながら休憩、若い家族連れを中心に何組かがシートを敷いて花見の食事をしていた。
大学生らしい若いグループもあったが、飲めや歌えやの老人グループは皆無だ。上野や井之頭には多いのだが、市役所前の公園は場違いなのだろう。百段階段へ続く道沿いの桜はみごとだ。ただ昨年、かなりの枝を伐採した木もあり、見上げなければならない桜木も多く、いささか疲れる。元気に歩けた妻の回復にホッとする。

      
     写真左・退院後の散歩          写真右・中央公園の桜 
  

3月27日 妻の退院

先週、入院した日は雪交じりの寒い日だったが、たった1週間で、慶応病院の前の桜は満開になっている。大腸ポリーブを取る手術も無事終わり、今日は退院日。朝9時過ぎに迎えに行った。
妻は既に個室を片づけて待っていた。一日38,000円の個室にも今日でサヨナラ。高い治療費だったが、保険で何とかなるだろう。病室の窓から見える新宿御苑は平日の朝なのに、結構、人がいる。やはり桜を愛でる人で朝からにぎわっているのだ。支払いをすませ、桜の下で、病院上部のペンの校章をバックに記念撮影をして帰途についた。

            
    写真左・慶応病院をバックに         写真右・国立駅前の桜
 
  

3月26日 水道橋から市ヶ谷へ歩く

明日の退院を前に、最後の見舞いに行く。行く前にテレビで紹介していた水道橋の”中華そば勝本”へ行ってみた。駅から近く、人気の店らしく、入り口に数人、並んで待っていた。醤油ラーメンというより、イリコダシや鰹節など魚介のダシをブレンドしたスープが基本だ。醤油の味はしない。それでもダシの旨味が効いていておいしい。そんなラーメンを楽しんだあと、まだ面会時間には余裕があったので、飯田橋まで歩いた。まだ時間があったので、さらに市ヶ谷へ、お堀の堤の上を歩くようになり、桜が満開だ。
日本歯科大学病院があり、歯科だけかなと思ったら、内科、外科もあった。歯医者になるのにも内科や外科の勉強もするのかな?中央線の向こうにお堀があり、その対岸の桜並木も満開だ。電車と堀と桜の組み合わせは写真向きの風景だ。法政大学を過ぎて、市ヶ谷に着いたらちょうどよい時間になったので、信濃町へ電車で向った。

           
    写真左・ 中華そば勝本           写真右・中央線と桜 
  

3月25日 小平さん凱旋パレード

日本晴れの青空の下、茅野市役所前にはおおぜいの市民が集まった。これから小平奈緒さんの金メダル凱旋パレードが始まる。駅前の市民館までの数百メートルの短いパレードだ。挨拶があり、東海大諏訪高校ブラスバンドの奏でる”東京オリンピックマーチ♪”でオープンカーが出発、通りに出るまで市役所前を半周して、私の目の前で爽やかな笑顔で手を振ってくれた。テレビで見るより、きれいだ。賢そうな美人である。八十二銀行の屋上ではおめでとうボードをかざして行員が祝福している。私は裏通りを廻って駅前へ移動した。市民館前も大変な人だかりだ。茅野市人口の3分の1、25000人が集まったという。「みなさんの応援が、笑顔が、私のスケートのがんばりにいちばんつながります。これからも応援よろしく」と小平さんが挨拶してパレードは終わった。
同じころ、八ヶ岳連峰の阿弥陀岳では7人が滑落、3人が死亡するという事故の救助活動で、青空の中ヘリコプターが慌ただしく飛び交っていた。下では華やかなパレード、上では悲しい遭難が同じ市内で起こっていたのだった。

      
     写真左・小平さんは美人        写真右・山の上では・・・
 
  

3月17日 都電に乗ってグルメ会へ

阿波踊りの仲間を中心に「B級グルメの会」というのがあり、今日は連長・谷口さんのお兄さんがやっている都電荒川線の荒川遊園地前にあるレストラン・ピーナッツへ行った。何十年ぶりかで都電に乗った。
都内唯一の都電、学生時代に乗り降りした早稲田から乗車、終点まで30近い停留所があるのに、運賃はたったの170円均一、スイカなら165円だ。安い!どの停留所も乗り降りが多く、いつも満席だ。
時々、信号では止まり、青に変わったら並行する車と一緒に動き出す。周りの景色も住宅ばかりで軒下を走っていく感じだ。飛鳥山は江戸の昔は花見でにぎわった所、もうすぐ開花で人出も多い。
荒川遊園地前のひとつ先の小台まで行き、そこから住宅街の小路を数分歩いて、ピーナッツへ到着。出てきた料理はハンバーグ、ローストビーフなど洋食だ。どれもおいしい。B級とは失礼な!感じだ。この会を「なかなかグルメの会」に名前変更するという提案に賛成である。

      
     写真左・都電荒川線          写真右・グルメ会のひと皿
 

3月16日 京王ライナー初乗車

先月から京王線に京王ライナーという座席指定の電車が走りだした。縦2席ずつの中央ライナー並みの特製車両だ。新宿での飲み会のあと、駅に行ったら発車時刻間際でまだ席があった。ホームでライナー券400円で買い、乗車。指定された席に着いたらすぐ発車した。
目の上にTVボードがあり、広告主体だが、ニュースも流していて見ているうちにもう府中だ。新宿を出たら次は府中だった。明大前にも調布にも止まらない。府中から先はふつうの特急と同じ駅に止まる。高幡不動まで30分もかからなかった。400円が高いか安いかは微妙だ。特急でも30分強なので、無理してライナーに乗らなくてもよいかも?

      
     写真左・ 京王ライナー          写真右・車両内テレビ
 
  

3月3日 志賀高原は雪多し

この冬の志賀高原は雪が多い。3月に入っても奥志賀は3mの積雪だ。中々連の仲間の矢田さん夫妻がスキーをやるというので、同じ仲間の石塚ナツコさん、二瓶ショウコさんも一緒にブルーエに来てもらった。
アメリカ生活があった矢田さんはレイクタホやベイルにも行ったことがあるとかで奥さんともどもかなりの腕前だ。ナッちゃんもスキー好きなお父さんに小さい頃、よく行ったとかで、素直なきれいな滑りだ。
ショウコちゃんは会津若松育ち、小学校の頃は沼尻スキー場へ学校スキーで行ったとかで、素朴なボーゲンスタイルだが、足腰が強く、ストック使わず、ボーゲンでもスピードに乗ってたくましく滑る。
それぞれ個性的なスキーだ。快晴のゲレンデを軽快に、奥志賀、焼額、一ノ瀬、寺小屋、東館、ぶな平を滑って、ジャイアント底へ、そこで昼食。帰りは西舘を走破し、高天原、矢田さんが若い頃の思い出のゲレンデだったというタンネの森を通って、ダイヤモンドから焼額に戻り、奥志賀へ帰ってきた。
晴れた日の志賀高原を満喫して、夜はリンゴ育ちの牛肉しゃぶしゃぶでおなか一杯。とても楽しいスキーだった。去年の入院明けの太ももビンビンに苦しめられたスキーからほぼ完全に立ち直った感じだ。
入院生活はすごく体力を落とすことを実感したものだった。

       
    写真左・ 妙高山をバックに         写真右・鍋パーティ
 

【上へ戻る】

2 月

2月26日 元善光寺

元善光寺は飯田の町はずれにある。元がつくから長野の善光寺の本家ではないかと思っていたが、やはり善光寺はここから始まっていた。ここが創建されてから数十年後に長野にも分家して、そちらが大きくなり本家取りされたようだ。元善光寺もこの界隈では大きい寺で山門から80段の石段を登った所に本堂があり、ここからは飯田の盆地が眼下に見える。信州の初詣記事には必ず出てくる有名なお寺だ。真っ暗な回廊を廻る仕掛けもあり、御朱印帳を持った参拝客も多かった。妻の手術入院がうまくいきますように、いつもより入念にお詣りした。100円の賽銭ではダメか

      
     写真左・ 元善光寺山門         写真右・元善光寺本堂
 

2月25日 昼神温泉星空ツァー

ヘブン園原スキー場は夏の星空観賞で有名な所だ。雪のない季節の夜、ロープウェイに乗ってゲレンデに行き、用意されたシュラフに入って、寝ながら星空を見る、というものだ。
冬は寒すぎて雪もあるので、それはやらない。その代わり、ゴンドラ乗り場近くの広場に星空ナイトツァーいう企画で星座の説明やプラネタリウム鑑賞がある。この日はあいにくの曇り空で月もかすんで星は見えない。空にレーザーポインターで光線をあてて、「このあたりが北極星」などと説明されても興味がわかない。プラネタリウムもテント小屋の中で空に骨組みが映り、何とも情緒がない。それでもこれくらいしか見る所がないので、2回も入って、骨組み天井に映る星座を眺めていた。
寒いと聞いていたので、足裏にホッカイロを貼り、スキーヤッケを着こんできたがそんなに冷えてなく、足裏が熱いのだ。星空ナイトツァーは入場料が2200円もする。
われわれは温泉宿のパッケージで来たので、そんなに払ってはいないが、これだけの目的で来た人には高すぎると感じた。

         
     写真左・星空ツァー会場          写真右・煌めく星座? 
  

2月24日 妻と二人でスノーシュー

妻にスノーシューを買ったのは2年前、去年は私の入院で行けず、今年は3月に企画したが、こんどは妻が入院することになり、急遽、今行こうということになった。コースは今月初めに岳文会ツァーと同じ麦草峠、4時間歩くと言ったら、妻はそんなに歩けないというので、とりあえず、途中の五辻まで行って、考えようと言うことにした。
ピラタスのロープウェイで上がり、歩き始めたが、曇り空で風が強い、気温は零下10度、インナー手袋をしているのに指先が痛い。手袋をたたきながら烈風の中を歩いた。森の中の道に入ったら、風が来なくなり、ホッとした。樅ノ木に雪は残っているものの先日のように新雪が冠った状態ではないので、少し趣に欠ける。それでも雪の中を歩くのは心地よい。数十分歩いて五辻の東屋に着いた。ここでこの先どうするか、妻に聞く。「ここで十分」と言うので、引き返すことにした。休んでいると、小学生の男の子を連れた親子が来た。今日は白駒の池まで行って山小屋に泊るという。先日、すれ違ったパーティも白駒の池だった。この季節は白駒泊りが多いようだ。帰り道は先日同様、陽が射しはじめ暖かくなった。指先の冷たさもとれ、快適、快調、気分爽快で坪庭のロープウェイへ戻った。ここのレストハウスでポタージュスープを頼み、持ってきたサンドイッチと赤飯のおにぎりを食べて、2年越しの妻とのスノーシューハイキングは終わった。

      
   写真左・北横岳を見ながら歩く        写真右・五辻にて
 

2月23日 茅野は小平さんフィーバー

ピョンチャンオリンピックで金銀メダルを獲得した小平奈緒さんは茅野がふるさとだ。}
行く前から「激励ポスター」があちこちに貼ってあったが、今は大変な騒ぎになっていた。
母校の豊平小学校にも市役所にも駅にも「おめでとう!」のポスターがあふれている。
コープピアの入口には「金メダルセール」の看板とともに、金メダル当日の信濃毎日新聞の号外が飾られていた。このスーパーは小平さんの家からも近いので、よく買いに来ていたのだろう。市役所でのパブリックビューイングの映像を見たら、御柱祭りの木遣りとラッパ隊の「パツパツパ、パパパ、パパパパー♪」のメロディが流れていた。街全体がお祭り騒ぎだったようだ。ス ト熱が盛り上がり、次の小平さんが出てきてほしいと市民は願っているらしいが、子供が少なくなった今、スケート人口も半減し、スケートリンクも少なくなっているのが悩みだという。

       
   写真左・小平さんの母校・豊平小学校      写真右・茅野駅にも 
    

2月22日 慶応病院

妻が健康診断で「大腸に異常あり」と出て、内視鏡で検査したらかなり大きなポリーブがあるという。ガンでなかったことにホッとしたが、手術で取り除いた方がよいと言う。診断したのは日野市立病院に派遣されている慶応病院の医師だ。通常は慶応病院専属だが週に1回、市立病院にアルバイトで来ているようだ。市立病院は慶応出身の医師が多いらしい。「小さい腫瘍ならここでもできるが、大きいので他の病院でやってもらうことになる。慶応病院は遠いでしょう」と先生は言う。「遠くありません。神宮球場へはよく行ってます」。妻も慶応がよいと言うので、この日打ち合わせに行った。慶応病院は近代的で患者も高級そうな人というイメージで来た。しかし建物は古く、廊下の長椅子が待ち合い場、診察室も垂れ幕のような仕切りを開けて入る。日野の花輪病院と同じではないか。日野市立病院の建物の方がよほど近代的だ。患者も多く、慶応の響きにふさわしくない老人も多い。だいぶイメージと違っていたが、3月22日手術、1週間の入院の段取りで予約してきた。昨年、私が入った重粒子研究所病院はかなり高級な病院だったことを実感したのだった。

2月18日 激戦の日野市議会選挙

地方の市議会、町議会、村議会は議員のなりてが少なく、定員割れも多く、夜に議会を開いたり、議会を廃止して全員集会にしようとか、議会運営に苦労しているところが多いと聞く。東京になると、この日野市あたりはまだそんな心配はないらしく、定員24名のところに33名の候補者が立ち、9名は落選する激戦だ。ポスター板にもほとんど隙間なく候補者の写真が貼られている。選挙公報を見て気が付いたことは、日野自動車に関係する人、中央大学出身の人が多いことだ。いずれも地元の企業であり、学校だ。
公明党、共産党などからの電話もよくかかってくる。わが家は妻は長女と同じ日本女子大出身の人、私は立憲民主党の人に入れたが、町内会で一生懸命やってくれる人にも入れたいので娘に頼んだが、入れただろうか?入れた候補は全員当選した。今回の市議会選しぶりに身近に感じ、公報もじっくり読んだ。

       
      写真左・九名は落選          写真右・バス停の掲示板
 

2月18日 日野稲門新年会

市議会選挙に行った足で、高幡不動まで歩いた。日野稲門会の新年懇親会があるのだ。昨年は平山の公民館で行われた。駅のホームで案内を見てびっくり、今年は豊田でやると書いてある。開始まで1時間を切っている。慌てて、駅を飛び出し、日野駅行きのバスに乗った。いつも下りるエプソン前を素通りして、日野駅へ。高幡から日野駅へ30分はかかると踏んでいたが、20分弱で着いた。思いのほか速い。まだ開始まで20分ある。タクシーに乗ろうと思っていたが、これなら中央線でも間に合いそうだ。幸い、電車も早く来て、豊田駅には10分前に着いた。ここから会場まで7分と案内書に書いてある。会場に着いたときは始まる寸前、何とか間に合った。寒いのに大汗かいた。あとは近況報告、ビンゴ大会では2番目にビンゴとなり、2000円の商品券ゲット、あせったことも忘れる喜びだ。「都の西北♪」を歌って終わった。めでたし、めでたし。

      
     写真左・日野稲門会          写真右・最後は”都の西北♪” 
    

2月11日 美しき麦草峠への道

岳文OB会恒例のスノーシューハイキング、今年は定番・麦草峠。岳文OBは志知さんと山内さん、他はお母さんの世話や、病気などでダメ、年々減ってくる。これも老齢化の現象か。スキー仲間で、ニュージランド、アルプスや北アルプスに行った森さん夫妻も参加して5名で麦草峠へ向かった。前日の雪で、道は新雪に覆われ、木々殊の外美しい。山荘を出た時はいい天気だったのに、ピラタスロープウェイで上った坪庭は霧の中だった。空気も冷たく、風も痛い。前にはスキーで行った人の跡がひとつあるだけ。吹きさらしの雪原に出ると、その跡も消えて、道定からず。ガスの中を進んでいくうちにだんだん晴れてはきたが、オトギリ平あたりでは雪も舞う。幻想的な雪原の景色の中を定かでない雪原を進み、麦草ヒュッテに到着。昼前だったので客は少なく、よい場所を確保して、ココアを注文した。その温かさと甘さが胃にしみる。作って持ってきたハムカツサンドと赤飯おにぎりのおいしいこと。帰りは烈風吹きすさむメルヘン街道をしばらく茅野方面に下りて、狭霧苑地から五辻への森に入った。ようやく烈風地帯を抜けた。
だんだん雲がとれ、青空が広がり、霧氷の木々の上はセルリアンブルーの空が広がった。美しい。東急リゾートに帰ってきて入った温泉の温かさが体を癒してくれた。夜は恒例の寿司パーティ。楽しきかなスノーシュー!!

       
      写真左・Blue Sky            写真右・無事終了
 

2月3日 極楽スキー20周年

奥志賀で毎年、この季節に行われる極楽スキーの集まり、今年で20周年を迎えた。長野オリンピックの開催日に白馬に行ったのが最初だ。当時、私が参加していたファシリティマネジメント協会の集まりの後、銀座ライオンで飲んだとき、スキー好きばかりだったのが始まりだった。白馬には会社の健保組合のロッジがあり、そこに泊った。6名だった。翌年、場所を奥志賀に変えて、さらに参加者が増えた。今、幹事役をやっている永瀬君もそのときの参加者だ。年々増え、10年目を迎えた頃には30名くらい集まり、ペンション・オードヴィーだけでは入りきれず、仲間の三輪さんと私が始めたベルサルームズにも分宿した。今は20名ちょっとに落ち着き、オードヴィーを貸切にしている。最初のメンバーで今回参加したのは私だけ。もうひとりの創始メンバーの大田さんは病に倒れ、欠席した。残念である。この20年間、冬季オリンピックも長野、ソルトレークシティ、トリノ、バンクーバー、ソチ、ピョンチャンと6ヶ所にわたっている。2,3年続けば終わると思っていたが、20年は長いものだ。あと何年続くことか。メンバーの若返りがないと難しいと思いながら、よくここまで来たものだと感慨深い。

       
  写真左・すべてはここから始まった      写真右・横手山での休息
  

【上へ戻る】

1 月

1月28〜30日 日野稲門会スキー in 志賀高原

4年前から始まった日野稲門会のスキー、奥志賀のブルーエに8名が集まった。
とは言っても、日野稲門会のメンバーは私を入れて3名、あとの5名は幹事長の高橋さんの早大時代にあったデザイン研究会のメンバーで東大や日大もいるという混成部隊だ。若手が入らぬ稲門会では私はいちばんの若手である。
29日はまずまずの天気になったので、サンバレーまで遠出のツァーに出かけた。
前日から天候は少し安定してきて、新雪がうっすらと積もり、雪質は最高で滑りもなめらかだ。前日は動いていなかった奥志賀ゴンドラも今日はOK,快適な滑降で、焼額を越し、ダイヤモンド、一瀬、高天原、西舘、蓮池、丸池を越えてサンバレーへ到着。
グリーンで生ビールでスパゲッティを食す。ブルーエの凜ちゃんは入学試験日とかで休日、一緒にスキーに行った。愛想が格別いい子供に育って、みんなから可愛がられていた。同行の人がブランデー入りのチョコレートを勧めたら、「お気持ちだけいただきます」と言ってビックリされていた。その話を三輪さんにしたら、「自分がお客さんとの会話に使うことがあるので、それを聞いていて言ったんでしょう」と話していた。
同行の安樂さんが高天原で財布を落とし、そのとき財布の中から1万円札が飛び出し、後ろを滑っていた永山さんがばらまかれた札を拾い集め、グリーンのテーブルにくちゃくちゃになった札8枚を広げたときはびっくりした。安樂さんは落としたことに気づいていなかった。夜はこの話で盛り上がった。

          
      写真左・グリーンでの昼食        写真右・サンバレースキー場
  

1月25日 目黒雅叙園の百段階段ひなまつり

雅叙園の百段階段ひな祭りのチケットを朝日新聞販売店からもらったので、目黒へ出かけた。歴史ある雅叙園には坂に沿って作った百段階段の座敷がある。階段の両脇が料亭の座敷というわけだ。今は料亭には使っていないが、催し物に利用されている。
今回は、ひな祭りで井伊直弼家で使っていたお雛様を中心に滋賀、岐阜あたりのお雛様を展示していた。飛騨高山の日下部家のものもあった。毎年、この季節に地方ごとのお雛様を展示するらしく、もう8回目の展示会という。殿様のお雛様はさすがに立派だが、庶民が使っていた土雛も素朴で愛らしい。

         
   写真左・百段階段最上部から         写真右・豪華なお雛様
  

1月22日 東京に大雪の朝

夜中から降りだした雪は朝になると20cmくらい積もっていた。こんなに多い積雪は日野でも珍しい。景ちゃんを4駆・スタッドレスタイヤのシエンタで駅へ送った。都会での雪の朝になると車の数は少ない。帰ってきても降りやまず、一日中降っていた。
翌日は晴れたので、家の前の雪かきをしたが、アパートの前や、高速道路の下は誰も雪かきをやらないので、カチンカチンに凍ってしまい、一週間たっても溶けず、今年の寒さは記録的なことがよくわかる。

          
       写真左・雪の朝            写真右・車も真っ白
  

1月21日 複雑な中々連新年会

昨日、広田ママさんのお通夜で、今日の午前中は告別式。そして午後は中々連の新年会。ママさんが亡くなる数日前、昨年まで連長だった打出さんんも亡くなったので、今日の新年会は偲ぶ会のような感じでもあった。写真を並べて、献杯と乾杯をするという複雑な会だ。
「中々連の名前は、連が結成される前に広田ママさんの喪主の息子さんが勤めていた東急の高級ケアホームで阿波踊りをやる打ち合わせで打出さんも行き、その帰りの飲み屋での話の中で出ていた焼酎・中々を見て、ママさんの”これでいいんじゃない”の一言で決まったんですよ」とふたりを偲びながら、私は連の成り立ちを紹介した。しめやかなうちに始まった新年会だったが、最後のひと踊りのときは二人に奉納する意味もあってか、いつもより長く、盛り上がったような気がする。これで良いのだ。

       
     写真左・新年会に遺影          写真右・鎮魂の踊り 
 
  

1月20日 華やかな広田さん葬儀お通夜

新宿ゴールデン街「花の木」の広田ママが急逝されたという話が来て、8日後の今日、お通夜が新宿十二杜のお寺のホールであった。「にぎやかに華やかに、最後のスナック花の木にしてほしい」というママの遺言でお通夜は中々連のお囃子で始まった。
献花をして二階の宴会場に移り、呑んで、スライドを見て故人を偲び、最後は花の木連を思い出しながら、踊って終わった。広田ママさんは店のお客を集めて、花の木連を結成して高円寺の阿波踊りに出るようになった。私はスナックの客ではなかったが、朝日カルチャーセンターの阿波踊り教室に参加して、同じように習いに来ていた花の木連の人を知り、ママさんの面接試験に合格して、メンバーに加えてもらった。
それからゴールデン街にも行くようになったが、店の扉に手をかけるときは、いつも深呼吸をしてから入ったものだ。緊張するのだ。花の木連が30年経ったときに、ママさんは「花の木連終了」を宣言して、このときも盛大なパーティをやった。その後、同じメンバーだった打出さんと一緒に、花の木連を継承することにママさんと話し合い、中々連ができ、浴衣やお囃子の道具を引き継いで今に至った。
紆余曲折があったものの、中々連も大きな所帯となり、にぎやかになった。その生みの親の広田ママさんも打出さんも鬼籍に入り、ひとつの時代が終わったような気がする。

     
     写真左・ママさんの葬儀         写真右・ママさんの朝日新聞訃報記事
    

1月12日 数ヶ月ぶりの放射線研究所病院での診断

昨年の9月から4ヶ月ぶりに千葉の稲毛の放射線医学研究所(放医研)にやってきた。1年前の今頃は、妻と二人で来て、治療前のインフォームドコンセントを受けた。先月、市民病院でもらった血液・尿検査のデータを持っての受診だ。辻先生曰く「PSAレベルは0.36と少し前より上がってきたがこれは正常、これから上がり方は緩やかになってくる。1年経って、1を越えなければ完治と言えるだろう」との診断。まずは順調に経過しているということか。それにしても、他の病院の検査データを見ながらの診断。ここまで2時間半の道のりでやって来る身としては、なんだか損したような気がいつもするのだが…。しかし久しぶりに見る放医研の構内が懐かしくも感じられるのだ。

      
     写真左・放医研玄関           写真右・病院への道
  

1月9日 スキー合宿に備えてひと滑り

正月に11日間も滞在していた方々が帰り、その片付けに蓼科にやってきた。
一段落した今日、月末の二つのスキー合宿に備えて、トレーニングのために白樺高原にスキー行った。昨シーズンは、入院生活の後遺症か、退院して参加した稲門会白馬スキーで少し滑ると太ももがジンジンして滑れなくなるという状態だった。またこんなことになっては大変なので、前もって訓練するか。白樺高原はタラタラの斜面ではあるが、こんな体にはちょうどよいかも。3000円のシニア一日券で、ゴンドラに7回乗れば元がとれる。一回一回を丁寧に滑った。太ももも痛くならず、まずまずのできだ。昨夏、高天原まで歩いたことも効いているようだ。久しぶりに、会心のスキーをやったような気がして、帰り道に寄った登美のゴボ天せいろは格別においしかった。

       
   写真左 ・白樺高原スキー場マップ        写真右・新春の山荘
  

1月5日 久しぶりの再会

HP時代の仕事仲間だった加藤君に日野で会った。お互い、日野に住んでいるのだが、私が現役時代に一回、オルガに行ったことがあった。彼は当時、情報システムにいて、その後、私の後を継いだ小林剛さんが定年になった後にその職を継いだ。
HPは分離を繰り返し、今は分離したビジネスを買った会社に移っているという。分離、分離で何がなんだかわからない状態のHPだが、それでもビジネスは何とかなっているようだ。昔の栄光はないとはいえ、そこそこがんばっている。われわれの年金がちゃんと続くことを真に祈る。彼は私以上の飲兵衛だ。夢路という昔から日野駅前にある居酒屋でまず一献、そのあとオルガへ移った。今では娘の穂梓のお気に入りの店なのだが、その前に加藤君に私が連れてこられたのが始まりなのだ。そこで少し飲んでから、駅の反対側のカラオケに行って仕上げて終わった。

 

1月1日 すしざんまいのおせち

今年の正月のおせちはすしざんまいの三段重ねを娘の景が買ってくれた。
すしざんまいと言えばいつも築地の初競りで億もするマグロを競り落とすことで有名な会社だ(今年はダメだったようだが)。さすがにすしやさんでも生のマグロをおせちに盛り合わせるのはむずかしいようで、焼いたり、煮たりの魚中心のおせち料理となっている。
あれやこれやを摘まみながら、飲むシャンパン、白ワインはとてもおいしい。
正月はやはりおせち抜きでは始まらないのだ。新年の安泰を祈りつつ、みんなの健康を祈念した。

      
   写真左・ すしざんまいのおせち        写真右・新春の食卓
  

【上へ戻る】