2020年 |
12月 |
12月31日 2020年雑感 |
多難な年であった。1月は平穏で、阿波踊り・中々連の新年会も、極楽スキーも日野稲門会スキーも予定通り行われ、楽しい年が始まった。2月も1日にフランスにスキーに出かけられた。しかしここから悲劇が始まった。帰国直前の12日、シャモニーの神田さんのペンションで「隣村でコロナ発生、村は閉鎖された」を聞いたとき、えらいことが起きていることを実感した。帰国後はすべてが変わった。大学同期の友人の死を聞いても、葬式に行けず、すべての集まりが中止、延期。延期してもまた延期。4月になって蓼科の山荘へコロナ疎開することにした。山の中は平穏そのもの、山歩きをしても人にはほとんど会わず、鹿とはよく会った。最高の感染防止の場所だった。夏には落ち着くだろうと仲間と北アルプス縦走の計画もしたが、仲間が骨折して断念、コロナ対策で宿泊制限、完全予約だったので、行けたら、静かな山歩きが楽しめただろうと残念だった。8月に入り、少し落ち着いてきて、春の東京六大学野球も真夏の8月に開催された。内野席だけだったが、久しぶりに都心に出て、観戦した。一月後の9月には秋のリーグ戦が延長なしでできたのは嬉しかった。さらなる嬉しさは、早稲田が劇的な逆転で優勝したことだった。Go
to
キャンペーンも始まり、晩秋の上高地にも行けた。もうこれで収束するかな、と思ったら、再び、感染が拡大、暮れに至っても収まらず、大晦日を迎えた。コロナにすべてを振り回された1年であった。来年の春にでもワクチンが出回り、オリンピックが開催され、心から喜べる秋が迎えられることを祈るばかりだ。私も喜寿になり、終着点が近づいた。最後くらいは平穏かつ幸せな人生で〆たいと思う。
写真左・八ヶ岳秋色 写真右・穂高新雪
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12月24日 ふたりだけのイブ |
妻が21日から市立病院に入り、精密検査を受けることになり、昨日の私の誕生日もひとりで過ごした。今日24日、退院してきた。立川タカノで買ってきた、ちいさなクリスマスケーキにローソクを立て、ふたりでクリスマス、退院、誕生日をささやかに祝った。去年までは娘がいて、賑やかなイブだったが、今年は二人きり、静かなイブとなった。二人きりは40年以上前に戻ったわけだ。これからどちらかが死ぬまで、二人だけの生活が続く。けんかをしないよう、自制しながら、これからの人生をすごしていきたいと思う。
写真左・二人だけのイブ 写真右・そして喜寿
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12月20日 くるい咲き |
玄関前のトランペットリリーが季節外れの狂い咲きだ。それもひとつだけでなく10ヶ以上の大きな花がずらりと咲いている。こんな寒い時期に咲くのも不思議だ。どこかで拾ってきて植えた花なのに、いつのまにか大きくなり、去年はさっぱり咲かなかったのに、今年は夏前に咲いて、また今頃だ。なぜだろう? そういえば今年は山茶花も少し早かったような気がする。気象変動の影響だろうか?あれほどいっぱい狂い咲きしていたトランペットリリーも、気温が急激に下がったら、みんなしぼんで枯れてしまった。
写真左・鈴なりのトランペットリリー 写真右・その花は大きい
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12月12日 ドームホテルで結婚式 |
7月に入籍し、既に一緒にくらしている娘・景の結婚式が東京ドームホテルで行われた。二人はプロ野球好きの縁で結ばれたので、ここにしたとか。結婚を決めたのが今年の初め、コロナは暮れには収まっているとの予測で12月に披露宴を入れたのに、三波が来たのが予想外だった。しかしキャンセルすると、多額のキャンセル料が発生するので強行した。双方、身内だけの出席にしていたこともよかった。大晦日になっても、集まった人からはコロナが発生していないので、結果オーライだった。神前結婚式のあと、42階で披露宴、見晴らしがすばらしい。皇居の緑のそばには東京駅周辺の高層ビル群がそそり建っていた。小田家側は4名だけという少数だったが、ひとテーブルに間隔を空けて座れるので、三密ゼロの安心の披露宴だった。我々夫婦と長姉は前日からドームホテルに泊まっていたが、夕食は後楽園飯店に出かけ、長嶋選手のリクエストでメニュー化したという、ふかひれラーメンを堪能した。披露宴の料理より、ラーメンが思い出に残る結婚式だった。
写真左・ケーキ入刀 写真右・小田家の人々
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12月8日 家族全員で前祝い |
上の娘の穂梓が韓国から、景の結婚式出席のために帰国して、待機期間中に家族全員で集まった。私の誕生日の23日、クリスマスには穂梓は韓国に帰っていて、全員そろわないので、この日、早目の誕生日とクリスマスを祝った。ケーキをみんなで頂き、穂梓からはポロシャツ、景からはパジャマをもらった。ポロシャツには77とHIKOの文字がプリントされていて、喜寿の祝いにふさわしい。何かの機会に着ていこう。家族全員が集まるのも、だんだん少なくなるだろう。次は私の葬式のときかもしれない。嬉しくもあり、寂しくもある家族みんなでの集まりだ。
写真左・早めの誕生祝 写真右・そして喜寿ポロシャツ
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12月4日 初雪 |
昨日は冬晴れの八子ヶ峰を歩いたのに、今朝は山荘が雪に覆われた。数センチの積雪なのでたいしたことないが、車は白くなり、庭も雪化粧した。初雪は何かうれしい。朝飯を食べて、今回の山荘滞在の目的の、オーナー側の家の浴室ペンキ塗りをした。ゲストハウスの浴室に比べ狭いので、1時間ちょっとで終わった。その頃には雪も溶け、冬の暖かい陽射しがいっぱいになっていた。買い物に行った。登美でゴボテンセイロの蕎麦を食べ、洗剤、から揚げ、ハイボール缶を買って、帰りに鹿山の湯で汗を流した。ペンキ塗りたての家の風呂には入れないから。風呂のあとは、定番のコーヒー牛乳を飲み、新聞を買って帰宅。夜はから揚げとビール、氷を浮かべたハイボールで今年最後の山荘生活を〆た。
写真左・初雪 写真右・初雪の山荘
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12月3日 今年最後の八子ヶ峰 |
冬の晴れた日の八子ヶ峰からのアルプス展望は最高。今日はよく晴れて、展望が期待できると、昨日買ってきた赤飯おにぎりを持って、登った。南アルプス方面は少し、雲がかかっていたが、他の山はよく見えた。北アルプスは特に美しい。新雪をまとった穂高、乗鞍、美ヶ原の向こうにちょっと頂を見せる鹿島槍、青春の想い出が詰まった山々の連なりは懐かしく、涙が出てくる。おにぎりを噛みしめながら、若き日の山旅を思い出していた。そんな美しい山なのに、途中で出くわした言語道断の行為には怒りを覚えた。山道のど真ん中にウンチをした輩がいるのだ。まわりにちり紙が散乱しているので、人間の仕業とわかった。いくら急にもよおしたとしても、道の真ん中ではないだろう。30cmだけ横によれば、草むらなのだから、せめてそのくらいの配慮があってもよいはずだ。せっかくの、美しいアルプスの眺めも、この行為で台無しになった。残念なことである。
写真・新雪の穂高連峰
写真・不届き者の残骸
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12月2日 新車、初めての事故 |
残っていた山荘の浴室ペンキ塗りに蓼科に向かった。ペンキと言っても防水ペンキなので、透明なのだが、匂いが結構強く残る。それでお客が来ない冬場にやって、匂い抜きの期間が必要なのだ。甲府昭和のインターで下り、甲州街道を走るのが定番コース。韮崎の郊外、穴山橋を渡った交差点で赤信号で停車、青になって前のトラックが動く前に、後ろにコンという衝撃。後ろの車があせってアクセルを踏んだらしい。私はまだスタートしていないのに。その交差点で左折して、郵便局の前に停車した。後ろは生命保険会社の女性の事務員さんらしい。とても焦って「すみません、すみません」ばかり。私の新車のヤリスは小さなランプが落っこちて電線ケーブルを引きずっている。バンパーは少しこすれただけ。郵便局の前は駐在所、おまわりさんが出てきて、ひととおり調書をとって、「あとはおふたりで」と帰っていった。事故は事故でも、たいしたことない、当事者同士でやってくれということなのだろう。とりあえず事務員さんが持っていた透明なセロハンテープでライトを貼り付けて、修理見積をとってから連絡するとして別れた。後日トヨタの見積りは8万円強、これで一件落着。ライト交換だけなら、2000円程度なのに、バンパーも交換すると言って、8万円。事務員さんに少し悪いような気がしたが、保険で処理するというので、まあいっか。
写真左・ガムテープで仮押さえ 写真右・壊れたのは後ブレーキランプ
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11月 |
11月30日 都市対抗野球 |
いつもの年なら、7月にやる都市対抗野球がコロナの影響で今頃やっている。応援風景が見たくて、東京ドームへ行った。セガサミーとNTT西日本の試合。セガサミーは何をやってる会社か知らなかったが、ゲームソフトなど今はやりのビジネスをやってるらしい。スポーツにも力を入れているようで、野球もそのひとつだ。東京ガスの小野田俊介が補強選手としてセガサミーの一員として出てくる。早稲田時代は日ハムの有原や、ロッテの中村奨吾と同期で、長距離バッターだった。神宮でよく見た雄姿をもう一度見たくて行ってみた。また都市対抗は華やかな応援合戦が見ものだが、今回はコロナで応援も休止となり、静かでかつ寂しい大会となった。
買った席は、バックネットから8番目の、アンパイアのすぐ後ろという絶好の場所で、ピッチャーが投げたときに、奇声を発するのがよく聞こえた。「ヨシッ!!」、「エイッ!!」、「ヨイショ!!」等々。またこの試合の球審はストライクの時、腕を横にして大きな声で「ストライク!!」と云う。見のがし三振なら「ストラックアウト!!」と大声が聞こえる。球審にボールを渡すボールボーイがここではボールガールなのだ。カワイイ女の子が球審に小走りでボールを届ける姿が愛らしい。球審はうれしそうに笑顔で受け取っている。こんな光景がまじかに見られる、面白い場所だった。小野田は期待に違わず、三本ヒットを打ってセガサミーの勝利に貢献した。
写真左・ストラックアウト!! 写真右・ボールボーイならぬボールガール
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11月26日 娘の一時帰国 |
上の娘が韓国から一時帰国した。下の娘の結婚式に出るためだ。結婚式は12月12日だが、2週間のコロナ予防隔離生活があるので、この時期になった。公共交通機関は利用できないというので成田まで迎えに行った。第一ターミナル北ウイング到着ゲートの迎えは日本人より中国人が多かった。中には防護服で身を包んで出てくる乗客も何人かいた。ボードを持って迎えている人が多いのは、この時期のふつうでない来日事情を表しているのではないだろうか。娘は到着40分後くらいに現れた。インチョンからの大韓航空便なのに乗客は中国人が多かったとか。中国からは日本直行よりインチョン行きの便が多く飛んでいる模様だ。座席は間隔を空けているので、半分くらいの乗客しかいなかったとか。この時期、観光客はいないので、ビジネスや家庭の事情で来た人ばかりなのだろう。到着ゲートにはいつものにぎやかさはなかった。みな静かな出迎えなのだ。
写真左・コロナ完全装備の人も 写真右・到着ゲートも閑散
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11月14日 蓼科夕映え |
晩秋の蓼科は静かだ。今年はコロナもあり、さらに静かだ。浴室の防水塗装の仕事も一段落し、良く晴れた日、タウンセンターまで新聞買いに妻と歩いて行った。ペンション街の横から、あかしあ台の側道に入り、あかしあの小径を下ってスキー場に出て、タウンセンターまでの小一時間のウォーキングだ。帰りはバスで帰ってくるので、妻も安心のゆったり散歩コースである。誰もいないあかしあの小径は暖かい午後の陽射しに包まれて、枯葉を踏みしめる足音も気持ちよい。スキー場に出て、しばしベンチで休憩する。この季節のウォーキングは晴れていると最高だ。
夕方、こんどは山荘前のしらかば4号線をどんづまりまで、日課の散歩にひとりで行く。いつもより少し早い時間だったので、夕日が八ヶ岳の山々を染めて、とても美しい。どんづまりの別荘の庭越しから見る八ヶ岳は秋の夕陽に輝き、麓のカラマツの森を暮れいく太陽が金色に染め上げていて、帰るのをためらう美しさだ。山荘への道すがら、夕映えの八ヶ岳を右手に見ながら帰るひとときも至福の時間である。これだから山荘生活はやめられない。
写真左・晩秋の散歩道 写真右・夕映えの八ヶ岳
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11月11日 今年も穂高には新雪が |
毎年、上高地へ妻と行くのは恒例になったが、今年も去年同様、この時期になった。新雪の穂高を見たかったからだ。去年と同じルミエスタホテル、昔の清水屋だ。GO
toトラベルの恩恵で35%引きで泊れ、2万円のクーポン券もつくという。このホテルの食事もおいしいし、何より温泉がある。露天風呂も楽しめる。2泊目の夜はフランス風和食も楽しみの宿で気に入っている。部屋の窓からは真向いの霞沢岳、六百山が眺められる。泊った翌朝は、期待通り、霞沢岳は雪を冠っていた。朝食後、歩く姿にして、田代橋に行くと、正面の穂高も真っ白だった。よく晴れている。今日は田代池から大正池への道を辿った。行く先々から振り返ると新雪の穂高が神々しい。帰りは帝国ホテルに寄り、バスターミナルで蕎麦を食べ、五千尺売店でクーポン券でお土産を買い、河童橋を渡って、西糸屋、ウェストン碑の前を通って、ホテルに帰ってきた。露天風呂の河童の湯に浸かり、暮れ行く空を見上げるとしみじみと幸せを感じるのだった。
写真左・穂高に新雪 写真右・これでも和食
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11月7−8日 劇的逆転優勝・早慶戦 |
早慶戦初日、試合前の応援合戦がユニーク、いつもなら双方の応援席に早慶が行き、慶応で”紺碧の空”、早稲田で”若き血”を歌うのだが、今年は応援団は外野の両側に分かれ、交流なしとなった。このため、一緒に応援歌を歌うという趣向、双方で早稲田の旗も、慶応の旗も振られた。それが終わると、”早慶賛歌”を合唱し、そこから双方に分かれて応援合戦である。他校との試合では見られない、友好的な早慶戦開始前の風景だ。試合は早稲田は早川、慶応は木澤のドラ1同士の投げ合いで1−1の接戦が続いたが、7回に早稲田の1年生・熊田のヒットと続く2年生・蛭間のホームランで均衡を破り、早稲田勝利、筋書き通りの展開で終わった。
写真左・試合前の早稲田応援席、慶応の旗も 写真右・早稲田のエース早川
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二回戦の今日、昨日同様、早稲田が先制すると、慶応がすぐに追いつく。そして今日は慶応が1点追加して、2-1のまま8回に、慶応はエース木澤を立て、逃げ切りに入った。昨日にも増して木澤は調子よく、早稲田のバッターは手が出ず、9回も2死まできて、あとひとりで慶応優勝の土壇場で昨日の熊田がヒットで出た。次は昨日ホームランを打った蛭間、慶応の監督が出てきてピッチャー交代を告げた。昨日のホームランがよぎったか、左対左が有利と判断したか、2年生の左投手、生井に代えた。その一球目を蛭間がスイングすると、ワッと歓声があがり、バックスクリーンへまっしぐら。中堅手が後ろを向いて見送った。あとでユーチューブを見たら、そのとき慶応応援席のチアリーダーは茫然と球の行方を見つめ、早稲田のチアリーダーは涙を流しながら旗を振っていた。その”紺碧の空”を一塁側の観衆は総立ちになって、隣の人と肩を組みあいながら、マスクをつけたまま歌っている。試合前から、頻繁に「大声で応援するな」と注意されていたにも関わらずだ。さすがにこの時は、アナウンスなかった。注意してもムダと判断したのだろう。それほどの起死回生の逆転ホームランとなった。試合後のインタビューで小宮山監督は、「長い野球人生の中でいちばん感動した。今世紀最高の試合」とまで言って泣いたほどだ。
写真左・早稲田優勝 写真右・一塁側は総立ち
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10月 |
10月29日 晩秋の夕暮れ |
この時期の夕暮れは早い。5時ともなるともう日没だ。山小屋にいるときは、いつも夕方5時前に水戸黄門のテレビが終わると、山荘前のしらかば4号線のどんづまりまで散歩に行くことにしている。
夏は明るく、日中と変わらないのにこの時期になると薄暗い。その中を歩いていくと、夕空はまだ明るく、満月直前の大きな月がきれいに見えた。この道のどん詰まりには、見晴らしのよい大きな別荘がある。門から植木越しに八ヶ岳連峰の赤岳と阿弥陀岳が見える。この構図は絵になるので、時々写すが、今日は夕闇の中に浮かび出ている。しばらく、暮れ行く山々と、高原に見とれた。
帰り道は日が落ちて暗い。この季節に来ている家は少ないが、所どころに灯りが見えると、ホッとするのだ。山小屋に戻ってきた頃には、日は完全に落ちて、暗闇の中のわが家の灯りがうれしく思える。
写真左・夕暮れの赤岳阿弥陀岳遠望 写真右・十三夜の月
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10月26日 またまた引き分け・早立戦 |
立教に勝てば、慶応に並ぶ東京六大学野球、秋のリーグ戦、早慶戦前の最後の試合。2回の表、野村、熊田の1年生コンビが連続2塁打で1点を上げ、幸先よいと思ったら、その裏、第2のエース、徳山が同じ大阪桐蔭1年後輩の山田にホームランを打たれ、同点になってしまった。同窓のよしみで甘くしたのではないかと思うほどの、打った瞬間、ホームランとわかる当たりだった。その後は、肝心なときにヒットが出ず、点がとれない。立教も同様で、結局、引き分けとなってしまった。次の法制ー慶応で慶応が勝つと、早稲田の優勝の可能性はほぼなくなってしまう。だから何としても法政にがんばってほしいの思いで、第二試合を見た。これまた早立戦同様、2回に両軍、1点をいれてから膠着。慶応は2回に1点を入れた後の攻撃がまずかった。無死満塁が続いていて、キャプテン瀬戸西のファーストゴロで三塁ランナーが本塁封殺、これでワンアウト、2塁ランナーは3塁を回っていて、三本間に挟まれ、ツーアウト、これで終了と思いきや、1塁ランナーも2塁を回っていて、タッチアウト、あっという間に3重殺が完成した。これが後々、悔やまれる結果となり、結局は同点引き分けに終わった。早稲田にとってはラッキーな結果で、ポイント差が変わらず、早慶戦で1.5勝すれば、優勝できる。1戦目は早川で勝つだろうし、2戦目はピッチャー総動員で行けば、優勝の可能性も出て来た。早慶戦が楽しみである。
写真左・早稲田の外野応援団、早慶戦に期待 写真右・慶法戦・慶応側の応援
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10月20日 蓼科山が初冠雪 |
キ昨日の冷え込みで、蓼科山の頂上が白くなった。この秋、初めての雪である。いつもの初雪は11月に入ってからなので、今年はとても早い。夏の酷暑がつい最近までだったので、季節の急激な変化を感じる。こんな年の冬は大雪になることが多いので、来冬は期待できるかもしれない。
まだ山荘周りの紅葉は少し早いが、八子ヶ峰の紅葉は今盛りであった。枯れかけたすすきの穂の向こうに見える八ヶ岳も白く輝いている。歩いていて気がついたのだが、今年は花がない。いつもは晩秋になっても、マツムシソウ、ハクサンフーロ、なでしこなどの枯れ残った花が登山道沿いにこの季節でも、いくつかあったのに、この秋は皆無なのだ。これも気候変動で、秋のはじめまで暑かったので、枯れてしまい、秋まで持たなかったのだろうか?
写真左・蓼科山に初雪 写真右・八ヶ岳にも初雪
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10月14日 薬局でのできごと |
前立腺ガン治療後、定期的に市立病院に行っている。その帰り道の薬局で、薬をもらおうとすると、「最近、残業は多いですか?」、「もう10年以上前に会社を卒業しているので、残業はありません」と答えると、「いえ残尿ですが…?」「・・・・」
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10月4日 六大学野球・早法戦 |
先々週、明大に1勝1分で勝ち点1.5ポイント獲得した早稲田、今週は春(夏)のリーグ戦の覇者・法政との一戦だ。昨日は2−0で勝った。早川が投げると安定感があり、シャットアウト勝ちだった。今日も徳山で勝てるだろうと思ったが甘かった。1回は難なく抑えたのに、2回にホームランまで打たれて4点とられて逆転された。早々と徳山から西垣に代わり、3回に2点をとって追いついたが、今西に変わったら7回にまた2点とられ、6−4。8回のピンチに昨日完投した早川にリリーフさせ、何とか食い止め、最終回に熊田、福本の適時打で同点に追いついたところで終了。
明治戦に続いて、またもや引き分けだ。負けなかっただけでもよかったか。早川を連投させたことで、熊田は「キャプテン早川さんに泥を塗るわけにいかない」とバッターボックスに向かったらしい。その心意気は良し!
写真左・神宮球場 写真右・試合終了挨拶
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9 月 |
9月26日 ヤナギマツタケを初収穫 |
キノコ狩りは雨模様、雨具を着て出かけた。いつもの八子ヶ峰の尾根に行ったが、目につくのは赤いベニダケばかり、きれいだが毒キノコ、それではと反対側の登山口からの尾根に行った。ここは以前、サクラシメジの群落があった所だが、今年も空振りだ。なんの収穫もなくがっかりした。帰り道に八子ヶ峰のショートカットの登り口に行ってみた。一昨年のキノコ狩りのとき、下りてくるみんなを車で待っていた所だ。近くの木にいくつかのキノコがついていたことを思い出した。そのときは黒ずんでいてもう終わりだと思って放置した。「今年はあるかな?」、黄金色のかたまりがいくつか見えた。その先の沢の木にもふたつみつある。手の届く高さの2つを採ってみた。きのこ博士の吉田さん、「ヤナギマツタケ」じゃないかな?他は高くて採れそうもない。一旦、山荘へ戻って調べ、昼めしを食べてから棒を持ってこようということになった。お昼のラーメンを食べて、スキーのストックと虫取りの網棒を持って出かけた。見つけておいた木のきのこに網棒を伸ばすと、ストンと網の中に。柳の木に生えるのでヤナギマツタケ、本名はヌメリスギタケモドキというれっきとした食べられるきのこなのだ。小高い森の中にも数本、発見。これも収穫。車に戻ろうとした崖に今度はハタケシメジの黒い群落を見つけた。これも収穫して意気揚々と帰荘した。アテにした所は全滅だったが、もしやと思った所に新しいキノコを見つけ、大収穫のキノコ狩りになった。
写真左・収穫したヤナギマツタケ 写真右・大量のキノコにご満悦
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9月19日 ”紺碧の空”に涙こぼれる |
真夏の”春の六大学”から1ヶ月後の今日、秋の六大学野球が始まった。秋は2回戦のみの勝つと1ポイント、引き分け0.5ポイントの延長戦なし2試合のみで行う変則制。観客は五千人まで入れ、外野には100人までの応援団も可能となった。今日の第二試合は早明戦、外野の応援団から、”紺碧の空”のメロディが流れてきたときには涙が出た。やはり、六大学野球には応援団がないと盛り上がらない。早稲田のピッチャー早川の150キロを超す速球に明治は17ヶもの三振で、8回まではノーヒットだった。早稲田が点を入れるたびに流れる”紺碧の空”に歓喜し、7対1で初戦を制した。久々に流れる”紺碧の空”、朝ドラエールの主題テーマの最初の曲。応援席に入って、みんなで歌いたかった。それができないのが残念。それでも応援席で踊るチアリーダーの女性の躍動がまぶしく見えた。
写真左・応援団外野に復活 写真右・いよいよ試合開始
(東大応援席)
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9月11日 新車と旧車 |
長い間愛用していた二代にわたるトヨタのシエンタに別れを告げ、同じトヨタのヤリスに買い替えた。妻や娘から、「免許を返せ」と脅かされ、その理由の「高齢運転は危険」に配慮した安全性重視の小型車に切り替えることによって、免許証返納を免れた。前の車に近づき過ぎたり、車線をはみ出したりすると警告ブザー、バックのときは曲がる筋道を指示してくれたり、今までと違い、至れり尽くせりの車なのだ。4駆でハイブリッドと来ている。慣れ親しんだシエンタは下取りに出した。シエンタとヤリスに挟まれて、記念撮影をしてシエンタに別れを告げた。長い間、ありがとう。あっちへぶつけ、こっちへぶつけて傷だらけになったし、雪道でスリップし、廃車寸前になったこともあった。しかし、よく走ってくれた。二代続けての走行距離は20万キロ以上、本当にお世話になったね。新しいヤリスには迷惑かけないように走るね。
写真左・新車(左)と旧車(右) 写真右・ 購入感謝板
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9月9日 古関裕而記念館 |
朝ドラ”エール”の主人公は古山祐一、古関裕而がモデルだ。生まれの福島に記念館がある。「紺碧の空」がきっかけで、世に出た、昭和の大作曲家である。応援歌、歌謡曲、ラジオ主題歌、校歌・社歌、行進曲など5000曲に及ぶ。記念館には試聴できるブースもあるのだが、コロナで今は中止、残念である。それでも生い立ちと作曲した歌のいきさつ紹介のボードが興味深い、バックに彼のメロディが流れる中で、1時間ばかり、見学した。「紺碧の空」や慶応の{我ぞ覇者」のメロディが流れ、「長崎の鐘」、「高原列車は行く」、「君の名は」、「オリンピックマーチ」、モスラまで館内に響き、古関メロディに思う存分浸った。今宵の宿は飯坂温泉、今回の旅の締めの宿だ。
写真左・ 記念館入り口 写真右・古関裕而記念館
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9月9日 上杉神社 |
米沢は上杉藩の城下町だ。謙信の息子、景勝が作り、直江兼続が引き継いだ。その城下に上杉神社がある。大鳥居の前には「毘」の旗印、謙信の旗でもあり、私の名前の「毘」でもある。越後の名将にあやかったのか、私の名にも使われたが、本当は日本書紀あたりが語源だとも聞いた。いずれにしても縁ある神社ではある。福島への途上、ちょっと寄り道をした。近くに、明治になって上杉14代目の殿様が建てた伯爵亭がある。立派な建物だが、休館日で中に入れず、残念。庭からその豪壮な外観を眺めた。越後に縁のある米沢を後にして、福島に向かった。
写真左・ 上杉神社「毘」の旗印
写真右・上杉伯爵邸
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9月8日 山寺1015段 |
”しずかさや岩に染み入る蝉の声”の山寺、私は65年ぶりの訪問だ。小学校6年生のとき、知り合いの人に連れられて来た。そのとき泊った山寺ホテルが今も駅前にあった。懐かしさで寄ってみたが、もうホテルはやっていなく、地元の博物館になっていた。昔泊まったであろう部屋の辺りは展示場になっていた。山寺は1015段の石段を登って奥の院に到着する。近くにある五大堂からは麓の村里が見下ろせる。風光明媚な古寺である。芭蕉が来た頃は、岩に蝉の声が染み入るほどに静かだったと思うが、今は観光客がコロナの中でも結構多く、そんなに静寂ではない。でも山寺の石段を踏みしめていると、65年前の記憶が蘇ってくるのだった。
写真左・山寺 写真右・山寺ホテル
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9月7日 温海温泉から大石田へ |
温海温泉は萬國屋に泊まった。小さい頃、おじいちゃんが湯治に来ていて、それに伴い、泊まりに来たことがあった。その頃は木造のふつうの旅館だったが、今は6階建ての豪壮な、日本の名旅館に数えられる立派な宿になっている。隣のたちばなやも立派だが、対岸の旅館はいずれもこじんまりしていて、貧相だ。老人ケアホームになった旅館もある。立派な宿だけが生き残り、あとはつぶれていくのではないだろうか?政府のGO
to
Campaignは、この傾向を加速するのではないだろうか? こんな温海温泉を後にして、鶴岡で酒井藩の教育所の致道館を見て、最上川沿いに大石田に来た。ここで大石田蕎麦を食べた。太くて硬いそばが特徴だ。山形市内の国際ホテルにチェックインし、夜は名物・冷やしラーメンを食べに行った。栄屋という店、冷やし中華ではない。つゆたっぷりの氷も浮いているラーメンだ。焼豚もシナチクも入っている。味は冷たいだけで、中華そばだ。冬でも定番で出しているという。30℃を越えた残暑の山形で食べる冷やしラーメンは格別にうまい。
写真左・冷やしラーメンを食す 写真右・鶴岡藩・致道館
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9月6日 叔母一周忌のあと故郷旧家跡地へ |
小さい頃から母代わりに、私を育ててくれた叔母が昨年亡くなり、一周忌を迎えた。社会に出てから、叔母の連れ合いとソリが合わなくなり、疎遠になってしまったが、亡くなった今は、私が喪主の立場で弔わなければならない。嫁ぎ先の村上の東林寺で小田家の身内だけで、簡単な法要をやった。コロナが村上の隣村まで来ているとかで、法事後の午餐も中止した。私たち夫婦は、私が育った故郷ともいうべき塩野町に向かった。今は空き地になっているが、70年前にはここに医院があり、祖父が医者をやっていた。この地で小学校の終わりまで私は育った。思い出の地であり、忘れがたき故郷だ。昔の面影はこの地に何もないが、遊び、学んだ思い出だけはまざまざと蘇る。小学校にも行ってみた。通っていた頃は木造だったが、今は鉄筋になり、昨年、廃校になった。思い出が次々と消えていく故郷に別れを惜しみ、今日の宿の温海温泉に車を走らせた。
写真左・一周忌塔婆 写真右・故郷の空き地
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9月2−5日 蓼科晩夏 |
景法要で村上に行く前に酷暑の東京を避け、山荘で数日過ごすことにした。蓼科に来てみると、あの暑さはどこの話かと思うほど涼しい。東京を少し離れて、山の中に来ると別世界が待っているのだ。朝はベランダで朝食を摂る。陽射しはあるが、オーニングの電動屋根の下に入ると、寒いくらい涼しい。ここで朝食後もゆっくりくつろぐ。こんな生活が毎日続くと、体も心もすっきりしてくるのだ。晩夏の高原は、日の中に出るとまだ暑いが、室内や日陰に入ると、もう初秋の気配が感じられるようになった。さあ、体を癒して、これから一週間の旅に出よう。
写真左・山荘の朝食 写真右・朝の木漏れ日
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8 月 |
8月22日 再びのねずみ騒動 |
快適な蓼科の生活で今年困ったことは、ヒメネズミが出てくること。6月にもティッシュと戯れていたネズミを大捕り物で捕まえたが、8月のお盆に滞在したとき、また現れた。妻の枕元あたりを走り周ったが捕獲に至らず、玄関の靴置き場の後ろあたりでゴソゴソしている。2,3匹はいるのではないかと、ネズミ用の殺鼠錠剤と粘着シートをセットで何か所かに置いて帰って来た。
そして1週間後の今日、来てみた。何匹貼りついているだろうか期待して。しかし貼りついていたのはコオロギだけ。錠剤も減っていない。この前の帰り際にプラスチックのゴミ箱の中に小さなヒメネズミが落ちていたが、そのネズミは死んでいた。まさかこの一匹だけが走り回っていたとは思わず、もっと大きなのがいると思っていた。しかし錠剤は減らず、粘着シートにもかかっていなかったことから考えるとこの小さな子ネズミの仕業だったようだ。
写真左・
手前の錠剤と朱色の粘着板 写真右・小さくてかわいいけど・・・(イメージ)
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8月18日 炎暑の中の早慶戦、春の六大学野球 |
コロナのため春の東京六大学野球リーグ戦は遅れに遅れて、真夏の8月に行われた。それも1回戦のみの各大学5試合の勝率で優勝を決める。観客は3000人限度にし、内野に分散しての観戦だ。応援団もない。大声は出すな、酒は飲むな、マスクをしろと制限だらけだが、選手はやれるだけで嬉しいし、我々観客は見れるだけでうれしい。炎天下の中、選手はしんどいだろうな?と思っていたが、考えてみると、東大以外はほとんどの選手は夏の甲子園経験者だ。それなら炎天下は苦にならないようだ。熱戦が続き、久しぶりの野球観戦は楽しかった。秋もこんな感じでやるのだろうか?
写真左・観客はこの程度 写真右・座席は記録しておくようにと指示
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早慶戦は最終日と決まっているのだが、今回は途中8月15日の土曜日1試合だけだ。そのあとの日も立教戦が残っているなど、変則的だ。チケットは球場売りだけということだったが、さすがに早慶戦は、3千枚では徹夜組も出ることを恐れたか、直前になって3日前からのネット販売になった。発売時間にネットにアクセスしたら、幸い買えた。球場売りはなくなったことからすると、全部ネットで売り切れたようだ。慶応はここまで負けなしで来ているので優勝ねらいだ。早稲田は負けると優勝の可能性がなくなる。当日は2階のネット裏席に入ったが、周りは慶応の応援が多い。分が悪いな。試合は慶応リードで来て、9回裏に早稲田が同点に追いつき、延長戦へ。タイブレーク制になっていて、ランナーを1塁、2塁に置いてからのスタート。慶応に2点先取され、早稲田もワンアウト満塁にして一打同点か逆転かと思っていたら、ダブルプレーで万事休す。その前の法政戦でもタイブレークで敗れている。どうも早稲田はタイブレークに弱いようだ。
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8月14日 蓼科の日々 |
お盆前の1週間は、わが家が使う日だ。今年は7日に娘が新居に引っ越したので、その日に来た。もう日野の家には誰も残っていないので、何十年ぶりかで完全戸締りをし、新聞の配達も止めてきた。夫婦二人の生活が始まるのだ。蓼科は以前より暑くなってきたというものの、まだまだ東京から比べると涼しい。朝のベランダでの食事は寒いほどだ。昼はタウンセンターまで歩き、新聞を買ってアイスクリームを食べてバスで帰って来る。夕方、しらかば4号線を散歩するのが日課となっている。ベランダにハンモックを置き、そこに横になり読書をするのも日課のひとつだ。涼しさの中で一日が過ぎていくのは至福のひとときである。
写真左・夏の朝の山荘 写真右・ハンモックで読書
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8月12日 奥志賀の日 |
奥志賀の涼しさも格別である。標高は蓼科とそう変わらないのだが、北に位置しているせいか、もっと涼しく感じるのだ。ブルーエに来て、三輪さん自慢の夕食を食べるのも楽しみだ。夕方、フェニックス裏手のスキー場の草原を散歩した。以前はゴルフ場になっていた芝生は心地よい。ビールとワインで夕飯を楽しみ、静かに就寝し、翌朝は定番の洒落た朝食も楽しみなのだ。小さなプレートにハムや野菜が盛られ、小さな茶碗に少しのご飯、パンも添えて出てくる。簡素なのだが、おかずと出し方が小粋なのだ。オーベルジュのときの専門シェフの料理も豪華で凝っていたが、今の三輪さん手作りのイタリアンや中華メニューの夕食と洒落た朝食の方が私は好きだ。
写真左・ 奥志賀の草原 写真右・ブルーエの朝食プレート
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8月11日 入笠山 |
入笠山はすずらんで有名な高原の上にある小ぶりな山。富士見パノラマスキー場のゴンドラで簡単に登れる。もうすずらんの季節は終わったがヤナギランなど夏の花が見ごろで、東急が運営していて割引もあるというので行ってみた。私はスキーとすずらんの季節に来たことはあるが、妻は初めてだ。ゴンドラで高原に上がると、陽射しは強いものの風は涼しく、快適に高原の木道を歩いた。マナスル山荘前から入笠山への登山道に入った。30分も登れば頂上に着いた。結構な人がいて、広い山頂に散らばってお昼を食べている。我々も距離をとって買ってきたおにぎりをほおばる。下に富士見の町が広がり、その向こうに八ヶ岳の山々が見える。南に目を移すと甲斐駒ケ岳が聳え、その左手に富士山が見える。北アルプスは雲に隠れて定かでない。陽射しは結構強く、暑いくらいだ。ロープウェイ乗り場まで帰ってきて、カフェテラスでソフトクリームを食べた。これがとてもおいしかった。避暑休みの中のひとときの幸せだ。
写真左・入笠湿原 写真右・山頂の青い空
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8月6日 景、わが家最後の夜 |
末娘の景の結婚が決まり、7月14日に入籍した。そして1日に新居に荷物を運び、明日、引っ越していく。今日がわが家での生活が最後の日。今晩の夕食が、小田家の家族生活として最後となる。裕紀君と最初に会った日野寿司から上寿司2ヶとチラシ(妻用)を取って、晩餐とした。景はここで生まれ、ここで育った純粋の日野つ子だ。他に住んだこともないので、日野しか知らない。明日からは横浜の人となる。本人は2週間に一回くらい帰ってくるから、あまり家を出るという感覚はないようだが、我々にとって、これで娘がふたりとも出て行くことになるので、何か感傷的になってしまう。上の娘はソウルで、そう簡単に帰ってこれない。景もだんだん来ることは少なくなるのだろう。家族が解散する日といってもよい。これが娘をもつ家族の宿命だが、何か寂しい。でも笑顔で送ってあげよう。
写真左・最後は出前の寿司で 写真右・これでお別れ
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8月1日 景夫婦の新居への引っ越し |
景と裕紀君の新居が決まり、今日が入居日、娘の荷物を運んだ。妻も同行、行く先は横浜市綱島。アメリカンクラブ・サンドイッチとおにぎりの昼食を妻は用意した。ナビで綱島を指示すると、中央道国立インターを指示した。いちばん近いインターだから、ここから圏央道経由で横浜へ行くのかなと思ったら、入ったら新宿方面へ誘導する。「どういうことかな?」。走っていくと、高井戸で下りろと指示、そこから環八を用賀方面へ、過ぎると第三京浜を指示、そして都筑ICで下りろときた。第三京浜を走るのは初めて、都筑インターも初めて、下りた道も全部初めて。それでも迷うことなく着いた。こじんまりした1LDKのアパートだが、部屋の造りはよくできている。二人で暮らすにはちょうどよさそう。家具も順次、買いそろえるという。ウォーキングクロゼットや洗濯乾燥機付きの浴室など、われわれの新婚時代にはなかった設備もついたモダンな新居だ。サンドイッチで腹を満たし、裕紀君の日吉の先のアパートに荷物を取りに行き、妻と二人で元来た道を通って帰ってきた。
写真左・リビングはまだ閑散 写真右・昼食は段ボール箱の上で
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7 月 |
7月25日 初めてのオンライン呑み会 |
スキー仲間”極楽”のオンライン呑み会に参加した。初めての経験なので最初の立ち上げでトラブル発生、相手に私の画面が出ないというのだ。娘がいろいろ手助けしてくれるがうまくいかない。
PCから娘のスマフォに替えてようやく映るようになった。酒なしで始めたのだが、みんなが呑んでいるのに自分だけシラフというのは間が持たないのでビールを持ってきた。
話の内容は、コロナ禍の中での各自の仕事のやり方。スマフォで会議参加していたが、疲れるのでタブレットを買ったとか、人事部門のトップが女性陣になったら、テレワーク関連の施策がきめ細かく決断が早くなったとか。私には関係のない話ばかりで、途中で眠くなり退席した。一線を退いて20年も経つと、働き方の話にはついていけないことを実感した。
写真左・オンライン呑み会(イメージ) 写真右・オンライン呑み会(イメージ)
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7月14日 娘の結婚 |
下の娘が結婚し、今日入籍で新しい戸籍を新宿区に届けにいった。なんで新宿?と聞くと、戸籍謄本を取りに行くのに便利だからとのこと。本籍地は都庁と同じ番地。結婚式は12月なのに、どうして今日なのか?娘の誕生日が3月14日、彼・裕紀君の誕生日が11月14日、その真ん中の今日を結婚日にしたとか。そんな決め方もあるんだね。入籍記念のお祝いを、立川のイタリアン・「インカメラ」で行った。二人と私と妻の4人でささやかにお祝いした。8月7日には、横浜の綱島の新居に引っ越していく。そのあとは私と妻の二人だけの生活になる。家族一緒の小田家の生活の終わる日が近い。人生の終幕も近くなる。寂しい幸せである。
写真左・ハッピイウェディング 写真右・木下家・小田家ファミリー
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娘のフィアンセ木下裕紀君の両親に会う日は6月20日。最初は4月だったがコロナで延期、5月もダメで、6月6日は木下家のお父さんの急病で中止、ということでようやく6月20日に実現した。
披露宴は12月だし、そんなに急いでやらなくてもと言ったのだが、7月14日に入籍するので、その前にというのは裕紀君の考えらしい。新宿でと当初は考えていたが、木下家のお父さんの体調に配慮して、川越となった。家は坂戸なので、いちばん近い街だ。川越プリンスホテルでお会いした。お母様はけいこ、ウチの娘はケイ、けい繋がりで話も合う。ご両親とも明るく、すてきな夫婦である。裕紀君もお父さんもビール好きなのはよい。酒のつながりは宴も縁もつながり、うまくいく。まずはめでたい木下家・小田家の顔合わせとなった。
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7月10日 ワセマチマルシェ”高田牧舎” |
早稲田大学周辺の食べ物屋はコロナで大学休校で干上がっているらしい。学生が来なくては商売にならない。そんな窮状の一助にと、早稲田応援部OG木暮さんが音頭をとって、”ワセマチマルシェ”という支援サイトを立ち上げた。なじみの店の割引クーポンや商品を買って、商店街を助けるのだ。木暮さんは早稲田応援部初めての副団長だった。神宮の応援席でしばしば紺碧の空など、応援の指揮をしていた。思い出深い人である。一助にと高田牧舎のハヤシライスパックを買った。そして今日、そのパックが届いた。高田牧舎は大学の前にある本格的な洋食屋、我々現役時代には敷居が高く、アルバイトで金が入ったときくらいしか行けなかった。そのとき食べたのがハヤシライス。肉もたっぷり入っていて、あの懐かしい日々を彷彿とさせる味は変わらなかった。一日も早く、神宮で、早稲田で”紺碧の空”を歌いたいものだ。
写真左・牧舎ハヤ 写真右・ ハヤシライスパッケージ
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6 月 |
6月30日 界
松本 |
星野リゾート経営の高級温泉旅館は界シリーズと位置付けられているが、浅間温泉にもある。「界
松本」と名付けられていて、場所も松本市街から浅間温泉に入ってすぐの所だ。
昔は貴祥庵という旅館だったが、それを買い取りリノベーションしたらしい。温泉もいろいろなタイプの風呂があり、なかなか居心地がよい。特に寝湯は寝ながら入れるので気持ち良い。食事もひとつひとつ吟味された皿で量も多すぎずちょうどよい。夜はロビーで従業員の女性によるピアノ演奏があり、星野リゾートにはこういう一芸をもつ社員もいることに驚く。働く人に単なるスタッフだけに終わらない希望と夢を持たせる経営はすばらしいと思う。
写真左・界松本の料理 写真右・ワインでピアノを聞く
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6月29日 今年初の草刈 |
梅雨の晴れ間をねらって庭の草刈をした。昨日の午後は隣の戸田さんに近い草藪を中心に刈った。こっちは灌木が多いので草刈りの刃がひっかかり刈りにくい。エンジンオイルがきれてしまい、メインは翌日に持ち越した。そして今朝から階段沿いに沿って下から刈っていくと、妻が「水が出ない」と言う。「水道管に触れて穴でも開けたか?」、池の上の草むらを踏むとジワっと水がにじむ。あわてて管理センターに電話。しばらくして返信があり、「草刈り機程度で水道管は破れない、お宅の上で断水があったのでその影響だ」という。道路に出て上を見ると軽トラが止まっている。行ってみると道路のマンホールを開けて作業している人がいた。聞いてみると、水道主管から分配管へのバルブが経年劣化でネジがはずれ
、そこから水が噴き出したのだという。しばらくすると復旧した。一件落着、草刈りでかいた汗を復旧したシャワーで流した。
写真左・草刈後のメイン通路 写真右・草刈後のアプローチ
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6月15日 少なくなった八子ヶ峰のレンゲツツジ |
森さんがやってきた。レンゲツツジが見ごろの頃に八子ヶ峰に登りませんか?と声をかけておいたからだ。蕎麦お昼を食べてから八子ヶ峰に向かった。蓼科湖分岐までの急登を上がって分岐でひと休み。以前はここを飛ばして歩いたものだが
、今は休まないと行けない。体力の衰えを感じる。
尾根道を上がるにつれて赤いレンゲツツジの花が見え始めた。蓼科山やアルビレオヒュッテを背景にして花を撮るときれいだ。東峰の頂上付近はツツジで真っ赤に染まる所だが、今年はあまり咲いてない。少し早かったのかと思ったが、頂上標柱の周りを見るとツツジそのものがないのだ。考えてみると前に登ったのは5年前、それからこの季節はヨーロッパやアメリカに行っていたので、ツツジの盛りには来てなかった。その間に枯れてしまったらしい。次のピークへの斜面も以前は真っ赤かだったのに、今は枯れ木ばかりだ。ニッコウキスゲも鹿に食われてしまい、レンゲツツジは枯れてしっまたか。それでも西峰からの東急トレッキングコース沿いは赤く染まっていた。まだこの尾根は枯れていないらしい。きれいなツツジの向こうの八ヶ岳連峰が美しかった。
写真左・東峰頂上
写真右・
ツツジと八ヶ岳
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6月14日 最後のヒナか? |
一度は寄り付かなくなりヒナを育ててるのを止めたこともある、ポストの中のゴジュウカラ(シジュウカラと言う人もいるが)の巣作りが復活して3年ほど経つ。今年も5月中旬から草をせっせと運び巣を作り、卵を数個置いてあった。たまに人の手で開けると親鳥があわてて飛んでいったこともあったが、それ以上の悪さはしないとわかってからは、また戻ってきて子作りに励んでいた。もうひと月も経ったのでそろそろ巣立ちが終わったと思い、そろりと開けてみたら草むらに黒い塊が動いている。暗くてよくわからないがヒナらしい。もうそろそろ巣立つのだろう。最後のヒナか? それから2週間後に来た時は巣は空になっていた。草の寝床をかき出し隣との境界に捨てた。今年も初夏の風物詩がひとつ終わった。郵便屋さん、ポストは空いたよ。
写真左・中央の黒い塊がヒナ 写真右・作り始めの頃の鳥の巣
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7 月 |
7月25日 初めてのオンライン呑み会 |
スキー仲間”極楽”のオンライン呑み会に参加した。初めての経験なので最初の立ち上げでトラブル発生、相手に私の画面が出ないというのだ。娘がいろいろ手助けしてくれるがうまくいかない。
PCから娘のスマフォに替えてようやく映るようになった。酒なしで始めたのだが、みんなが呑んでいるのに自分だけシラフというのは間が持たないのでビールを持ってきた。
話の内容は、コロナ禍の中での各自の仕事のやり方。スマフォで会議参加していたが、疲れるのでタブレットを買ったとか、人事部門のトップが女性陣になったら、テレワーク関連の施策がきめ細かく決断が早くなったとか。私には関係のない話ばかりで、途中で眠くなり退席した。一線を退いて20年も経つと、働き方の話にはついていけないことを実感した。
写真左・オンライン呑み会(イメージ) 写真右・オンライン呑み会(イメージ)
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7月14日 娘の結婚 |
下の娘が結婚し、今日入籍で新しい戸籍を新宿区に届けにいった。なんで新宿?と聞くと、戸籍謄本を取りに行くのに便利だからとのこと。本籍地は都庁と同じ番地。結婚式は12月なのに、どうして今日なのか?娘の誕生日が3月14日、彼・裕紀君の誕生日が11月14日、その真ん中の今日を結婚日にしたとか。そんな決め方もあるんだね。入籍記念のお祝いを、立川のイタリアン・「インカメラ」で行った。二人と私と妻の4人でささやかにお祝いした。8月7日には、横浜の綱島の新居に引っ越していく。そのあとは私と妻の二人だけの生活になる。家族一緒の小田家の生活の終わる日が近い。人生の終幕も近くなる。寂しい幸せである。
写真左・ハッピイウェディング 写真右・木下家・小田家ファミリー
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娘のフィアンセ木下裕紀君の両親に会う日は6月20日。最初は4月だったがコロナで延期、5月もダメで、6月6日は木下家のお父さんの急病で中止、ということでようやく6月20日に実現した。
披露宴は12月だし、そんなに急いでやらなくてもと言ったのだが、7月14日に入籍するので、その前にというのは裕紀君の考えらしい。新宿でと当初は考えていたが、木下家のお父さんの体調に配慮して、川越となった。家は坂戸なので、いちばん近い街だ。川越プリンスホテルでお会いした。お母様はけいこ、ウチの娘はケイ、けい繋がりで話も合う。ご両親とも明るく、すてきな夫婦である。裕紀君もお父さんもビール好きなのはよい。酒のつながりは宴も縁もつながり、うまくいく。まずはめでたい木下家・小田家の顔合わせとなった。
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7月10日 ワセマチマルシェ”高田牧舎” |
早稲田大学周辺の食べ物屋はコロナで大学休校で干上がっているらしい。学生が来なくては商売にならない。そんな窮状の一助にと、早稲田応援部OG木暮さんが音頭をとって、”ワセマチマルシェ”という支援サイトを立ち上げた。なじみの店の割引クーポンや商品を買って、商店街を助けるのだ。木暮さんは早稲田応援部初めての副団長だった。神宮の応援席でしばしば紺碧の空など、応援の指揮をしていた。思い出深い人である。一助にと高田牧舎のハヤシライスパックを買った。そして今日、そのパックが届いた。高田牧舎は大学の前にある本格的な洋食屋、我々現役時代には敷居が高く、アルバイトで金が入ったときくらいしか行けなかった。そのとき食べたのがハヤシライス。肉もたっぷり入っていて、あの懐かしい日々を彷彿とさせる味は変わらなかった。一日も早く、神宮で、早稲田で”紺碧の空”を歌いたいものだ。
写真左・牧舎ハヤ 写真右・ ハヤシライスパッケージ
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6 月 |
6月30日 界
松本 |
星野リゾート経営の高級温泉旅館は界シリーズと位置付けられているが、浅間温泉にもある。「界
松本」と名付けられていて、場所も松本市街から浅間温泉に入ってすぐの所だ。
昔は貴祥庵という旅館だったが、それを買い取りリノベーションしたらしい。温泉もいろいろなタイプの風呂があり、なかなか居心地がよい。特に寝湯は寝ながら入れるので気持ち良い。食事もひとつひとつ吟味された皿で量も多すぎずちょうどよい。夜はロビーで従業員の女性によるピアノ演奏があり、星野リゾートにはこういう一芸をもつ社員もいることに驚く。働く人に単なるスタッフだけに終わらない希望と夢を持たせる経営はすばらしいと思う。
写真左・界松本の料理 写真右・ワインでピアノを聞く
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6月29日 今年初の草刈 |
梅雨の晴れ間をねらって庭の草刈をした。昨日の午後は隣の戸田さんに近い草藪を中心に刈った。こっちは灌木が多いので草刈りの刃がひっかかり刈りにくい。エンジンオイルがきれてしまい、メインは翌日に持ち越した。そして今朝から階段沿いに沿って下から刈っていくと、妻が「水が出ない」と言う。「水道管に触れて穴でも開けたか?」、池の上の草むらを踏むとジワっと水がにじむ。あわてて管理センターに電話。しばらくして返信があり、「草刈り機程度で水道管は破れない、お宅の上で断水があったのでその影響だ」という。道路に出て上を見ると軽トラが止まっている。行ってみると道路のマンホールを開けて作業している人がいた。聞いてみると、水道主管から分配管へのバルブが経年劣化でネジがはずれ
、そこから水が噴き出したのだという。しばらくすると復旧した。一件落着、草刈りでかいた汗を復旧したシャワーで流した。
写真左・草刈後のメイン通路 写真右・草刈後のアプローチ
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6月15日 少なくなった八子ヶ峰のレンゲツツジ |
森さんがやってきた。レンゲツツジが見ごろの頃に八子ヶ峰に登りませんか?と声をかけておいたからだ。蕎麦お昼を食べてから八子ヶ峰に向かった。蓼科湖分岐までの急登を上がって分岐でひと休み。以前はここを飛ばして歩いたものだが
、今は休まないと行けない。体力の衰えを感じる。
尾根道を上がるにつれて赤いレンゲツツジの花が見え始めた。蓼科山やアルビレオヒュッテを背景にして花を撮るときれいだ。東峰の頂上付近はツツジで真っ赤に染まる所だが、今年はあまり咲いてない。少し早かったのかと思ったが、頂上標柱の周りを見るとツツジそのものがないのだ。考えてみると前に登ったのは5年前、それからこの季節はヨーロッパやアメリカに行っていたので、ツツジの盛りには来てなかった。その間に枯れてしまったらしい。次のピークへの斜面も以前は真っ赤かだったのに、今は枯れ木ばかりだ。ニッコウキスゲも鹿に食われてしまい、レンゲツツジは枯れてしっまたか。それでも西峰からの東急トレッキングコース沿いは赤く染まっていた。まだこの尾根は枯れていないらしい。きれいなツツジの向こうの八ヶ岳連峰が美しかった。
写真左・東峰頂上
写真右・
ツツジと八ヶ岳
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6月14日 最後のヒナか? |
一度は寄り付かなくなりヒナを育ててるのを止めたこともある、ポストの中のゴジュウカラ(シジュウカラと言う人もいるが)の巣作りが復活して3年ほど経つ。今年も5月中旬から草をせっせと運び巣を作り、卵を数個置いてあった。たまに人の手で開けると親鳥があわてて飛んでいったこともあったが、それ以上の悪さはしないとわかってからは、また戻ってきて子作りに励んでいた。もうひと月も経ったのでそろそろ巣立ちが終わったと思い、そろりと開けてみたら草むらに黒い塊が動いている。暗くてよくわからないがヒナらしい。もうそろそろ巣立つのだろう。最後のヒナか? それから2週間後に来た時は巣は空になっていた。草の寝床をかき出し隣との境界に捨てた。今年も初夏の風物詩がひとつ終わった。郵便屋さん、ポストは空いたよ。
写真左・中央の黒い塊がヒナ 写真右・作り始めの頃の鳥の巣
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6月5日 ねずみ騒動 |
枕元が「サワサワ」と騒がしい。「何事ぞ」と灯りをつけて見ると、ティッシュボックスの中で小さなヒメネズミが立ち上がってティッシュペーパーと戯れているではないか。「こりゃ大変」とカネザルを持って来て捕まえようとしたら、ティッシュから飛びだしベッド対面のクロゼットに入りこんだ。扉を閉めて見ると、扉の下から出るような隙間はない。朝になったら退治しようと寝ることにした。しばらくすると、再び「サワサワ」が始まった。またもやティッシュペーパーと遊んでいるではないか!「どうしてクロゼットから出たんだろう?」。追い立てれるとまたクロゼットに突進、閉まっている戸の隙間を駆け上り、上の隙間からクロゼット内部に入って行った。下は完璧だったが、上にはネズミ一匹入れる隙間があったのだ。あわててクロゼットドアを開いたら、下りきれていないネズミがすとんと床に落ちた。すぐさまカネザルをかぶせ捕まえた。「さあ、どうしてくれよう」、たらいに水を入れ、プラスチックの板をカネザルの下にもぐし込んでそのままたらいの上に持っていき、カネザルの目に掴まって嫌がるヤツを水の中に落とした。そのままふたをして風呂場へ持って行った。翌朝、安らかに水に浮いていた。花に包んでゴミ箱に入れ弔った。合掌。
写真左・ヒメネズミ死す 写真右・クロゼット
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6月1日 吉田組来荘 |
コロナ疲れの中休みで、吉田さんとその呑み仲間がやってきた。
ラーメン屋をやっている人と、そのお客さんでもある二人の女性。新たに買ったバーベキュウ―コンロの初動である。高級な信州アルプス牛を焼き、ラーメン屋さんが持ってきたスペアリブも焼いた。
高級な肉は少しタレをつけて焼いただけでも十分おいしい。寿司も買ってきたが、いつもの呉竹房はおやじさんが亡くなり寿司屋は廃業したので、今回初めての寿司のながたに頼んだ。呉竹房より小ぶりな握りで5人前のタルも小さいが、ネタはよく味もしっかりしている。駅前の呉竹寿司に取りに行くよりながたの方がAコープの近くなので、ずっと近いのでここに頼むことが多くなるような気がする。
写真左・海老の塩焼き 写真右・宴たけなわ
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5 月 |
5月29日 ヤマブドウの花はおいしい |
八子ヶ峰に登る途中に山ブドウがいっぱい生えている。何年か前に、その実を摘んで、葡萄酒を作ってもらった。砂糖の配合をまちがったとかで、おいしいワインにはならなかったが、思い出に残る葡萄酒になった。その山ブドウが、春の今、たくさんの花をつけた。この花は、山菜でもあり、天ぷらにするととてもおいしい。先週来た、山菜博士の吉田さんが、別の所で採った山ブドウの花を、炭酸水で粉を溶き、揚げたら、すこぶるおいしい天ぷらになった。別荘地の山ブドウの花は終わってしまったが、尾根道の花は今が盛りだった。歩くのを止めて、しばし、花摘みに夢中になった。追い越していくおばさん方にも採ってあげた、来週、また吉田さんたちが来る。そのときの天ぷらが楽しみである。
写真左・収穫したヤマブドウの花 写真右・実がなると…
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5月27日 長野県に住んでいます。ステッカー |
コロナ騒ぎで、自粛が叫ばれていて、県境をまたいでの移動はするななどと県知事が叫んでいる。そのためか、自粛警察なる輩が、スーパーなどで他県ナンバーの車を見つけると嫌がらせをするというので、「〇〇県に住んでいます」ステッカーが売り出された。私の車は「八王子ナンバー」、用心のため買って貼った。緊急事態制限も終わりつつあるので、今から貼っても、あまり意味ないかもしれないが、念のため、用心に八王子ナンバーの下に貼ってみた。
写真左・長野県居住です 写真右・山荘前の「長野県居住車」
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5月17日 佐田啓二の別荘見つけた! |
久しぶりに小津の散歩道を歩いた。無芸荘の駐車場に停め、新たにできた野田高悟シナリオ研究所の脇を通り、一本桜へ向かう。沢の流が勢いよく、春が深まっていくことを知らせる。桜はもう散っていたが、蓼科山は晩春の装いだ。信州大学蓼科研究所の横を通ると、左手の草地に3軒の家がある。そのうちの一軒が佐田啓二の別荘と聞いていたが、どれがその家かはわからなかった。
今日は探訪を深めるべく、敷地内に入ってみた。最初の小ぶりな古い別荘の表札はほとんどが消えて見えないが、いちばん上の字が「中」と読み取れた。他の2軒は、佐藤さんと、表札なしだった。これで先ほどの家が佐田啓二の本名「中井」であると特定した。この家の近くの空き地に小津安二郎は自分の別荘を建てることにしていたが、実現前に亡くなった。小津と佐田は親子のような付き合いがあったというが、蓼科でもその関係を続けたかったのであろう。中井家を過ぎて、ビーナスラインに出るひとつ手前の通りの右手に新藤兼人監督の別荘がある。今は来る人がいなく、枯れ木の中に埋もれつつある。ここで杉村春子や乙羽信子出演した映画「午後の遺言状」の面影はない。上杉謙信を攻めるために作った信玄棒道の一部も小津の散歩道は通っている。
写真左・
一本桜 写真右・ 信玄棒道
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5月14日 残雪の八ヶ岳は美しい |
4月に登ったときは、森の中や、ツーインワンスキー場の上の尾根には雪が結構残っていたが、半月後の5月半ばともなると、道筋にはもう雪がない。スキー場のゲレンデの窪みにわずかに残るだけだ。八子ヶ峰の蓼科高原を見渡せる尾根からの八ヶ岳連峰にはまだ4月の雪の名残りがある。
編笠山から蓼科山に連なる峰々は春の装いと冬の名残を身にまとい、とても美しい。山を眺めるにはいちばんいい季節かもしれない。安曇野から北アルプスの雪形を見れるのもこの季節なのだ。それを見て畑仕事や田植えの準備が始まる季節でもあるのだ。
写真左・残雪の八ヶ岳 写真右・八子ヶ峰東峰頂上周辺
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5月13日 水仙と山荘 |
今年の水仙は早春に寒かったせいか、5月になって咲き始めた。それが満開になり、山荘の前がにぎやかになった。この水仙は、山荘ができてすぐ、足柄山の今村夏子さんが植えてくれたものだ。チューリップと水仙の球根を植えてくれたのだが、植えたその夜に、もうチューリップの球根は掘り返され、食べられてしまった。鹿の仕業だ。スイセンの球根はひとつも食べられず無傷であった。毒だとわかるのだ。土の上からにおいでわかるのだろうか。その毒の水仙もまだ花が咲かないつぼみの状態のとき、食べられた群れがある。この群れはもう花が咲かない。毒でも、芽のうちは弱いのかもしれない。鹿はほとほと迷惑だ。
写真左・黄色の水仙と山荘 写真右・白い水仙
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5月11日 山荘にも桜咲いた |
今年も山荘の庭の桜が咲いた。4月に雪でしなっていた枝にか細い花びらがいく弁は花をつけた。
手入れをしないので、桜の木は細いまま、上へ伸びてしまい、それぞれの枝の花のつきが悪いらしく、どれも小さく、色もうすく、花も少ない。それでも咲いてくれるとうれしい。山荘に春が来たことを知らせてくれる役目を今年も果たしてくれた。
写真左・少し咲いた 写真右・ 今年の桜の色は薄い
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4 月 |
4月29日 中央道はガラガラ |
コロナ非常事態で、「信州の観光はお休み中」と長野県知事は宣言を出し、ゴールデンウィークは信州には来ないようにと宣伝しているせいか、中央道はガラ空きだ。バスなど1台も見ない。
東京への帰り道も休日夕方というのに、いつもの小仏トンネル渋滞もない。まだ下の20号線の方が混んでいたくらいだ。今年のゴールデンウィークは渋滞予想もなし。休日割引もないのにはまいった。
写真左・高速道はこんな感じ 写真右・高尾インターの辺り
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4月27日 さわやかな鷲ヶ峰 |
八島湿原のそばにある鷲ヶ峰、1800m足らずの標高だが、1時間弱で登れるほどよい散歩登山ができる。草木の少ない砂利道をしばらく登ると、茅の道が頂上へ続いている。見晴らしのよいコースだ。眼下に八島湿原、右下に諏訪湖、車山の向こうには八ヶ岳連峰、右手に南アルプスの甲斐駒、仙丈そして赤石も見える。さらに右手は中央アルプス、御嶽、乗鞍と続く。北アルプスのほとんどは雲の中だ。頂上でサンドイッチを食べながら下界のコロナ騒ぎの憂さを晴らした。今日、すれちがったのは二組だ。接触率はほぼゼロだ。
写真左・鷲ヶ峰への道 写真右・鷲ヶ峰山頂
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4月26日 今年もポストに鳥の巣作り |
木に吊るしていた巣箱が腐ってしまってから、庭に来る鳥はゴジュウカラらしいが、巣作りの場所に選んだのが玄関のポストだ。狭い状差し口から潜り込んで、セッセセッセと巣を作る。枯草をどんどん運んでくる。数年前の初期の巣作りのときは、
開けて巣に触ったりするとそれから来なくなり、巣作りは途中で終わっていたが、その後人間の行動に慣れたのか、今ではちょっとやそっとの開閉は気にしなくなった。巣に触って少し崩しても、次に開けて見るとちゃんと直して巣作りが続行されているのだ。毎年の経験で人間に邪魔されても、子作りには支障なしと判断したのだろう。鳥も経験を重ねると図太くなるようだ。
写真左・鳥の巣 写真右・ 五十雀
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4月25日 またもや雪!今シーズン最後かな? |
10日前に季節はずれの大雪だったが、それで終わりと思っていたのにまた雪だ。夕方、風呂に入って窓を開けるとチラホラ舞っていた。湯舟から眺める雪は露天風呂気分で気楽だが、降り進むと車を移動しなくてはならないと心配になる。ただ降り方がそんなに強くないので、積もらないだろうと予測して車の移動はやめた。というより、風呂上りに寒い所に出るのはイヤだったのだ。幸い、翌朝は車に数センチ積もって終わった。陽が出たらあっという間に消えて、庭には残っていなかった。この季節の雪は融けるのも速い。これがこの冬最後の雪になると踏んだが如何かな?
写真左・車も雪に覆われる 写真右・今冬最後の雪か?
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4月17日 アマリリスの花 |
新聞屋から買ったというアマリリスの鉢植えが家にある。花はまだ先でひょろ長い茎がグングンと伸びる。先端に三つ,四つのつぼみがついているが、これが茎の成長に合わせだんだん大きくなってきた。
3月末にはもう開くのではないかと思うほどになったが、まだまだという感じもした。4月に入って、やっと一つのつぼみが開いてきた。3月中旬に乗鞍に行ったが、その頃に咲くのでは?と妻が言っていたが、半月以上の遅れでようやく咲き出した。それからは速かった。
二つ目、三つ目と続けて開き、今日は五つ目が開いた。一つの花弁が大きいので、五つも開くと押しくらまんじゅうのような状態で咲いている。それにしても面白い。
写真左から・最初の頃 1つ目開花 二つ目開花 満開
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4月15日 蓼科からの帰り道 |
今日はいったん東京へ帰る日。コロナ疎開を一時中断する。とてもよく晴れている。昼めしを途中の食堂で食べるのも少し不安だし、コンビニでかつ丼弁当を買った。エコーラインを少し走った所に小川と空きビールケースを発見、八ヶ岳連峰の阿弥陀岳と赤岳がよく見える。ビールケースに腰かけ小川のせせらぎを聞きながら、まだ白い山なみを眺めながらの弁当は格別だ。青空と緑の川岸、勢いある雪どけの小川、そして美しい八ヶ岳、最高のシチュエーションでの昼食は新たな楽しみを発見した。
写真左・春の八ヶ岳 写真右・ かつ丼弁当はうまい
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4月14日 季節はずれの大雪だ! |
昨日の夕方からどんどんと雪が降り始めた。これは大変と、車を上の駐車場から下の道路脇の駐車場に移動した。上は表道に出るのに上らなければならないので、雪になると上がらなくなる恐れがあった。夜も降り続いていたが夜中の9時ピッタリに灯りが消えた。停電だ。雪の重みでどこかの電線が切れたのでは?こんなときには寝てしまおうと布団に入って、寝入ったところで灯りがついた。12時を過ぎていた。停電は3時間以上だったのだ。そして朝、一面銀世界、20センチくらい積もっているのではなかろうか?つぼみをつけた桜の枝が丸くしなって地面につきそうになっていた。買い出しの日なので、誰も通らず雪一面になっている道路に車を恐る恐る走らせて、メイン道路に出たら所々に倒木があり、迂回しなければならない。しかしタウンセンターに来たら、雪はうっすらしかない。ビーナスラインに出るとまったくない。雪は降らなかったようだ。ということは標高1400m以上の所に雪が降っていて、それ以下の所は雨だったのだろう。春の雪は部分集中でなおかつ溶けるのも速い。買い物から帰ってきたらほとんど溶けていた。
写真左・春の大雪 写真右・桜の枝も雪でしなる
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4月11日 奥志賀春スキー |
春の奥志賀の早朝スキーは楽しい。このことは一昨年からの楽しみとなった。しかし今年はコロナ騒ぎで極楽仲間の春スキーもなくなった。そこでひとりでグラウンフェニックスに泊まって滑ることにした。フェニックスに泊まるのは久しぶり。露天風呂までできていて、そこからペンション通りを見下ろしながらの湯あみは格別だ。朝6時半からのスキーは、前夜に圧雪車が斜面をきれいにならしてくれる。その銀盤のような斜面にシュプールを刻み込んでいく。これが楽しいのだ。同じゲレンデなのに、いつもよりうまく滑れる気がする。今年は森の中の迂回コースも滑ってみた。ここも圧雪されていて滑りやすく面白い。ノンストップで急斜面6回、迂回コース3回、計9本を1時間半で目いっぱい滑った。
ホテルに帰ってきて、露天風呂に入り、朝食をとって、ゆっくり帰り支度をして11時過ぎにチェックアウト。束の間・1泊の優雅な春スキーだった。
写真左・奥志賀の斜面 写真右・フェニックスホテル
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4月8日 八子ヶ峰の春 |
この冬も少雪で、蓼科にはもう雪がない。そこで今年の八子ヶ峰初登りに行くことにした。天気はまずまず。いつものコース、まずは森の中の登り道、雪が残っている。それも凍っていて、そこに靴をおろすとツルっと滑るのだ。「これはこわい」と登山道脇のロープにしがみつく。そんな状況が最初の尾根までしばらく続いた。この先もこんな状態だと危ないなと引き返すことも頭によぎったが、次の急登が同じだったらやめようと思いつつ進んだら、もう雪はなかった。そこからは雪なしの早春の尾根道が八子ヶ峰ヒュッテまで続いていた。東峰頂上からの林の中の下り道にも雪が残っていたが、ズブズブの雪で滑る心配はなかった。西峰からのトレッキングコースは歌いながら下りて来た。今年初めての八子ヶ峰登山がうれしくて、歌も軽やかに歌えた。
写真左・雪の道 写真右・ 朽ちかけた道標
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4月6日 蓼科山小屋開き |
ようやく給湯器を取り換え、山小屋が再開できる。この冬は完全休業だった。新しい給湯器といっても前と同じコロナ製で、水抜き栓バルブは同じものが使えた。雪も屋根の下に少し残っているだけでもう早春の香りが漂う。しかしまだ寒くしばらくは薪ストーブが必要だ。もう一昨年の薪はなくなり、去年、韓国からのジェフン薪割隊が割ってくれた薪を使わなければならない。まだ新しいので火が回るのに時間がかかる。点木を多めにして燃やしていく。石油ストーブ、床暖房を総動員して、まずは室温を20℃に上げる努力をする。その間に風呂を沸かして、夕飯前にひと風呂浴びる。そのあとの暖まった部屋でのビールがこたえられない。こうやって今年も早春の山小屋生活が始まった。
写真左・水仙もまだつぼみ 写真右・早春の山荘
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3 月 |
3月19日 雪の白骨温泉 |
白骨温泉の斎藤旅館に泊まった。白骨では歴史ある湯元の宿だ。中里介山はここで大菩薩峠を書いたという。若山牧水も泊ったという名旅館である。硫黄泉の風呂は温まり、胃によいというので、浴槽で2杯も飲んだ。そのせいか、昨日まで飲んでいた胃薬が必要なくなった。
夕食はとうじそばコースを頼んだ。大きな鍋のしょうゆ味のタレに山菜が入っていて、そばを竹かごに入れて温めて椀に盛り食べる。おいしい。ご飯もつくのだが、そばで腹いっぱいになり、お茶碗半分も食べられなかった。翌朝、カーテンを開けて見ると、なんとしんしんと雪が舞っていた。夜半の雨が、明け方から雪に変わったのだった。雪景色も美しい。
写真左・雪が降った白骨温泉 写真右・とうじそばの夕食
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3月18日 一ノ瀬園地を歩く |
乗鞍高原の一ノ瀬園地は高原らしい雪原が広がる。快晴の空、スノーシューで歩く道は、夏の遊歩道だ。昨日あたりスキーで来た人がいたようで、新雪の下にシュプールがうっすらと見える。
この上をたどっていくと、あざみ池に到達した。池は凍っていて、雪の湖面が広がり雪原になっている。そこからキャンプ場への道を歩くが、キャンプ場は閉鎖されたらしく、案内板に表示されない。夏、歩いたときは、静かな雰囲気の良いキャンプ場だったのに。車で入れない所だったので、荷物の運搬に手間がかかったのだろうか?なくなったのは寂しい。真っ白な乗鞍岳を森の向こうに見ながら、美しい雪の原を歩くのは気持ちよい。
写真左・一ノ瀬園地から乗鞍岳望む 写真右・快晴の高原で休憩
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3月17日 冬の善五郎滝は怖い |
コロナを逃れて、冬の信州、乗鞍高原に来た。休暇村の駐車場から牛留池へスノーシューで歩いた。池は凍った雪原になっていて、この季節は池の上を歩けるのだ。池の東屋で途中、買ってきたおにぎりを食べた。善五郎滝へ向かうと滝への下り道が凍っていて、スノーシューで下りるのに苦労した。妻はスノーシューを横にして一段一段下りるのに手こずり、ひっかけて転んでしまう。スノーシューを脱いでもよいのだが、靴ではもっと滑りそうだ。苦労してやっと滝壺にたどりついた。凍った滝の上を水が落下して、迫力ある光景だ。同じ道を帰るのはしんどいので、道路に出ることにした。
善五郎滝入り口へ400m、スズラン橋へ500mの標識で、短い方の善五郎滝入口を選んだのがまちがい。こちらは下手で、スズラン橋は上手。車はその上の休暇村に止めてあり、そこまで戻るのに2キロ以上歩くことになった。妻は途中で待ってもらったが、そこから2キロ近くあったようで、戻ってくるのが遅いとオカンムリだった。今日の泊りはスイスシャレー風のローリーホフ。なかなか感じのよいペンションだった。窓から、昔、ホテルをやろうとして農協から買った土地が見えた。この夢は地元の抵抗でついえたが、その思い出の土地を目の前にするとあのときの希望に満ちた瞬間がよみがえってくるのだった。
写真左・善五郎滝 写真右・ ローリーホフの食堂
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3月15日 日野一里塚 |
私の住んでいる日野は甲州街道の宿場町。今でも本陣や一里塚が残っている。散歩道の途中に一里塚がビルの谷間にある。江戸時代中期まで、甲州街道は多摩川を渡って万願寺渡し場に着き、一里塚を越して日野宿へ入っていった。中期以降は渡し場が上流に移ってしまい、一里塚を通らなくなったそうだが、塚はそのまま現代まで残されている。その横の空き地が昔の甲州街道だったらしい。本陣は剣道の道場も兼ねていたらしく、新選組の近藤勇、沖田総司や土方歳三がここで稽古に励んでいたという。去年は土方歳三没後150年にあたり、日野では記念行事がいっぱいあった。土方の実家は一里塚から近いところにある。日野は”新選組のふるさと”として、売り出し中で、最近、土方ファンの若い女性を街で見かけることが多くなった。
写真左・日野一里塚 写真右・左の空き地が昔の甲州街道
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2 月 |
2月1〜13日 フランススキー旅行記 |
ヨーロッパのスキーといえば、スイス、イタリアドロミテなどが日本では有名だが、フランスのスキー場も現地では名高い。今回行ったヴァルディゼールは大雪原が標高3500m近くまでに広がる、とてつもなく広いスキー場だ。そのあとのシャモニーは言わずと知れた山岳リゾートで第一回の冬季オリンピックはここで開かれた。ここもフランスなのだ。この二つのスキー場を訪れ、衰えてきた老体に鞭打って、冥土の土産とした。同行は岳文の仲間とその友人の6名。シャモニーは岳文仲間だけとなった。
写真左・ヴァルディゼールの広大な斜面 写真右・シャレー・ジャポニアール
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2月1〜8日 ヴァルディゼール |
泊ったレジデンスの名のアパートメント、3DKの高級な宿で広かった。正木さん(先輩の高校仲間)は先に来て、チェックインしていた。我々は深夜の2時過ぎにジュネーブ空港から2時間半のドライブでやってきた。もう2日になっていたが、まずは先に買ってもらっておいたビールで乾杯。2日から3日間は天気が悪く、ほとんど滑れなかった。コロナウイルス禍で中国人と間違われるとイヤなので、ヘルメットに日の丸のシールを貼ったら、スキー場で「オー、ジャポネ、コンニチワ」や、食堂のおばちゃんからは、「先週、北海道から帰ってきたのよ、ニホノユキ、スバラシイネ」などと声をかけられ、予想外の反響だったのには驚いた。
写真左・標高3000mで 写真右・日の丸ヘルメット
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後半3日間はよく晴れた。隣接するティーニュへの遠征は、長いリフトや、地下ケーブル、ゴンドラを乗りついて、3000mまで上がり、そこからもうひとつゴンドラに乗ると3456mの高さまで行くのだが、悪天候が続いたせいか、最後のゴンドラは運休になっていて滞在中は結局、行けなかったのは残念だった。それでも延々と続く大雪原のコースを滑り、スキー場を移動するときに乗った尾根越しのリフトから見た大景観に歓声を上げたりして、楽しく過ごせた。このリフトは上がって行って、尾根を越えると急傾斜を今度は下っていくのだ。このときのスリルと大展望は忘れられない。このエリアはアールベルグオリンピックのときにアルペン競技で使われた場所で、ゴンドラにも「オリンピックコース」などと名付けられ、その時を思い出させてくれる。
写真左・尾根越えリフトからのスキー先景色 写真右・滑る距離も長い
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2月8〜12日 シャモニー |
シャモニーは世界的にも有名な一大リゾート地。ヴァルディゼールから4時間のドライブだ。土曜は渋滞するからとヴァルディゼールを朝8時に出て、シャモニーに昼頃に着いた。天気もよいので、午後はエギュードミディに上がることにした。昼めしは3854mの展望台でということにして、二つの長いゴンドラを乗り継いで上がった。岳文後輩の深田夫妻は初めて来たので、展望台からの大景観に感激していた。山好きにはたまらない場所だ。モンブランはまじか、グランドジョラス北壁も迫る。はるか向こうにはマッターホルンも見える。カフェで昼食と行ったが、食欲がなくなっていた。頭がフラフラする。少し、高山病の気配だ。急に標高を上げたせいだろう。ココアを飲んでおしまい。下ったら、もう何でもない。翌日はブレバンに上がり、このスキー場を滑り、連絡ゴンドラでフレジェールに移動して、シャモニー針峰群を真正面に臨みながらスキーを楽しんだ。シャモニーはスキー場としてはヴァルディゼールほどの雄大さはないが、景色がすばらしい。
写真左・スキー場先に針峰群 写真右・エギュードミディゴンドラの先の風景
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シャモニーの宿はシャレージャポニアール。オーナーは神田泰夫さん。アルピニストなら知っていると思うが、1971年にグランドジョラス北壁の日本人ルートを、名クライマー・加藤保男さんたちと一緒に開拓した人である。下山後、シャモニーに留まり、スポーツ店などに働きながら、山岳ガイドとなった。奥さんは早稲田OGの美智子さん、スキーガイドとしてシャモニーに来ているうちに夫婦となった。異国で日本語ですべて通じる居心地のよい宿だ。去年の6月末に私は妻と一緒にここに泊まったことがある。そのときは、妻はブレバンから靴擦れを起こしながら、シャモニーの街まで歩いてきたものだ。スキーでブレバンを滑ったときに、そのときに休んだリフト乗り場であの夏の暑い日を思い出した。神田さんが自らの手で、フォンデュやラクレットのチーズ料理をふるまってくれた。最後の夜は、中華料理の店に行き、打ち上げをした。春巻、青椒肉絲、餃子などのなじみの品々で紹興酒とともに、楽しかったスキーの日々を語り合った。
写真左・シャモニー最後の晩餐 写真右・神田さん(中央)チーズパーティ
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1 月 |
1月22〜26日 極楽スキー仲間と |
新今シーズン初めての奥志賀でのスキー、極楽メンバーが来る前に、森さんとブルーエで特訓。といっても、森さんは杉山スクールに入っての個人レッスン、ふたりで滑ったのは一日だけ。それでも志賀高原を横断してサンバレーまで行った。極楽メンバーは木曜から集まり始めたので、コンテ・デ・ネージュへ移動した。今年は還暦が2人、喜寿が3人と、お祝いもとうとう喜寿へと高齢化した。この調子でいくと、米寿も出て来るかも?
写真左・奥志賀の極楽メンバー 写真右・最長老の池田先生
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1月26〜28日 稲門会スキー仲間と |
極楽スキーが終わった日から、日野稲門会スキーが始まった。再びブルーエへ移動。今年から67歳の後輩が参加、ようやく私は最年少から脱することができた。日曜の昼に集合してグランフェニックスで昼食をとって、早速滑りに出かけた。初日は半日なので、奥志賀で足慣らしをした。次の日は極楽同様、サンバレー目指して、スキーツァーだ。「なんで、そんな遠くまで行くの?」と言う人もいるが、これが志賀のスキーですと答え、一路、サンバレーを目指す。中には同じ所で滑るのがスキーと思っている人もいるが、それはスキーではない。違うゲレンデを滑っていくのがスキー、ヨーロッパのスキー場にいちばん近いのが志賀なので、ここではそういう楽しみ方をしてほしい。
写真左・奥志賀の頂上 写真右・稲門会のメンバー
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1月6日 ブランシュタカヤマ |
ブランシュタカヤマは蓼科から大門街道を長門へ下る途中から和田への抜け道を左に折れてしばらく行った所にあるスキー場だ。黒曜石が昔、採れた所に近い。もともと雪が少ない所なので、人工雪なのでバーンは固い。上部にはいくつかのゲレンデがあり、傾斜もそこそこあって、練習にはよい。月末に近づいた奥志賀スキーと来月のフランススキーの足慣らしにと出かけて行った。正月明けなので、人は少なく、晴れた頂上からは蓼科山や車山がきれいによく見えた。お地蔵様が立っているのも愛嬌があり、練習にはちょうどよいスキー場だった。
写真左・ようこそバレーブランシュ 写真右・八ヶ岳をバックにスキー地蔵
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